第37話 副大統領

文字数 4,321文字

 黒塗りの車が音もなくアパートの玄関に横付けされた。細い柱で建てられた木造アパートは、僅かな風にでさえ倒れそうで頼りない。
 ボーリック副大統領は、運転手が開けたドアから降り立つと闇の中に佇む古めかしい建物を見渡した。そして運転手に向かい「すまないが、少し待っていてくれ」と指示した。運転手は、車を止めている細い路地を眺め「ここでは、迷惑になりますので…」と申し訳なさそうに言葉を濁すと、副大統領の返事を待った。
「それでは、三十分程したらここに来てくれ、次の約束があるのでね」
 運転手は安堵した顔で返事をすると車を走らせ始めた。
 手摺は持つだけで壊れそうである。ボーリックは注意しながら軋む階段をゆっくりと昇っていく。そして一つのドアの前で歩を止めると軽く二度ノックした。待つ間もなく、一人の男が顔を覗かせる。
「副大統領、お待ちしていました。どうぞ中へ」
 ボーリックが部屋に入ると、数人の男が立ち上がった。彼は男達と握手を交わし、椅子に座るように頷いた。
「解雇になった割には顔色が良いね。皆んな、元気にやっていたのか?」
 ボーリックは男達に向かい冗談めいた挨拶をした。玄関で迎えた男が答えた。
「皆んな、それぞれ何とか仕事を見つけて食い繋いでいます。ここに来られない奴らは守衛をやっています。あれが結構、金になりますからね」
 ボーリックは男達の身なりを見ながら「苦労してるな」と呟いた。
「ええ、あなたが総長の時代が一番良かったです。ボーリック総長の下にリスト委員長がおられました。今思えば夢のようでしたね」
 ボーリックは、一人ずつに今の仕事や生活について尋ねると「苦労をかけるが、頑張ってくれ」と申し訳なさそうに詫びた。
「いいえ、あなたの責任ではありません。すべてシェブリーが原因なのですから」
「いいのだよ、私にはどうすることもできなかったのだからね。助けることもできずに頼みごとばかりで申し訳ないと思っているよ」
「いいえ、何を(おっしゃ)るのですか。委員会を解雇されてから久しぶりに楽しい仕事でした。少々、悔しい思いはありましたがね」
 汚れた作業服を着た小柄な男が嬉しそうに笑うと言葉を続けた。
「あの新聞を読んだときには心臓が止まるかと思いました。私達ができなかったものを一目見ただけで解いたと言うのですからね」
 今、起きて来たばかりのように髪に寝癖をつけた男が話を引き取った。
「しかし、次の新聞を見たとき、少々ホッとしたなあ。そう簡単に解けてたまるかと思いましたよ」
 ボーリックは、彼らの言葉の端々に感じられる技術屋のプライドが嬉しくて仕方がなかった。その気持ちは、考古学委員長から議員となり文化省総長となった彼にはよく分かった。ボーリックは技術屋達の言葉が途切れるのを待って口を開いた。
「実は、この件はリストからの依頼だったのだよ」
「委員長ですか?、リスト委員長は元気にされていますか?」
 小柄な男が早口でボーリックに聞いた。
「うん、元気そうだった。あの堅物が大学で教鞭をとっているらしい」
 男達はその姿を想像して笑い、手を叩いて喜んだ。笑いが収まると一人の男が話を戻した。
「それで、リスト委員長がなぜ?」
「あの解読した学生は、リストの大学の学生らしいのだ。リストは彼から解読の方法を聞いたのだが、それを私に検証して欲しいと言って来てね」
「委員長なら、判断できると思いますが…」
「彼は解読に確信を持っているさ。敢えて依頼したのは、学生を気遣ってのことだろう。どうやら彼も解読に関わっているようだからね」
「それで、納得しました。大学生に解読などできるはずがないさ」
「いや、彼はプロの技術屋だ。自分の発見を人に譲るはずがない、譲られた者の苦労が分かるからね」
「では、やはり解読はその学生…ですか?」
「たぶん」
「信じられませんね、あの解読には現在の言葉を入れて四つの言語に精通している必要があるのです。十九歳の学生が解読したなんて信じられません」
「私も同感だが、事実ならそれを受け入れるしかないだろう。専門家の君達が素人に負けたのだから、おもしろくはないだろうがね」
「もし、それが本当なら化け物か天才だ」
 寝癖のある男が茶化した。
「そうかもしれない。この解読に偶然などあり得ないからな」
 ボーリックは、見たことのない学生を頭に浮かべようとしたが、それは無駄な努力に終わった。腕時計を見ると三十分はもう既に過ぎていた。彼は、慌てて話を本題に戻した。
「それで結果は、検証の結果はどうだったのかね?」
 その問いを聞いて、小柄な男がゆっくりと頭の後ろで手を組んだ。そして、少し勿体をつけてから、断定する強い声で言った。
「悔しいですが、彼の言っていることに間違いはありません。新聞報道のとおりです。あの文字は彼の言う表意文字として機能しており、その六十パーセントはアルダヌ語の頭文字を語源…意源と言うのでしょうか…そして、残りはカプル語が三十パーセント、、セプト語が十パーセントずつ占めています。表意文字では多くの文字が必要となるために常用外文字が多くなるのも納得がいきます」
 男達は一様に頷いて見せた。そして、小柄な男は仕事袋からレポートを取り出してボーリックに手渡した。
「そして主語・述語・動詞などの並びの規則性はすべてアルダヌ語と同様です。おそらく、あの言語は古代の効率的な筆記用言語なのでしょう。もちろん別の一般的な筆記方法もあったと推察されますが…」
 男は一息ついてから「余談ですが…」と言葉を繋いだ。
「言語の含有率から分かることがあります。アルダヌ語を遡った古代言語から、最初に現代言語が分化し、続いてセプト語、カプル語の順に分化していったと考えられます。結果的に、彼は言語の進化過程も証明して見せたのです」
 ボーリックはレポートを受け取りながら、満足の笑みを浮かべた。
「天才だね」
「ええ、一文字が意味を持つなんて考えは、私達には一生かかっても浮かんで来なかったでしょう。本当に彼ならば、やはり天才です」
 小柄な男はまだ半信半疑の声で応えた。
「ありがとう、リストも喜ぶよ」
「いいえ、委員長によろしくお伝えください」
「分かった。すまないが時間がないのでこれで失礼するよ」
 ドアを出ていったボーリックは、忘れ物でもしたかのように再び部屋の中に戻ってきた。
「君達、新聞に出たくないかね?、いや出てもらわなければ困るのだがね」
「この件でですか?」
「ああそうだ。この検証の責任者としてだ」
「構いませんよ、間違いはありませんから。それに例えこの件で非難されたとしても今の仕事を失うことはないでしょうからね」
「良かった。これでリストは大喜びだ、それと…大統領もね」
「大統領?」
「そうだ、彼のためにも必要なんだよ」
 ボーリックは、疲れ果てた表情をした昔の部下達を見て心に誓った。
(必ず救ってやる)
 そして、見送る笑顔に軽く手を振って階段に向かった。

 暗闇に現れたボーリックを見て運転手は安堵した。後ろからの車に何度もクラクションを鳴らされ、ここを何周もしていたからだ。
「遅くなってすまない。急いでイーボリ埠頭まで頼む」
 ボーリックは車に乗り込むと、腕時計に目を走らせて早口で指示を出した。運転手は後ろから来るヘッドライトを見つけ、ボーリックがドアを閉めるよりも早く車を動かしていた。
 道路脇に立つオレンジ色の照明灯は、車内に単調な明滅を繰り返しながら頭上を越えて流れて行く。ボーリックは、時折眠くなる目を擦りながら景色の消えた窓の外を見ている。車が突然揺れ始めたので目を開けた。ヘッドライトに照らされた前方以外は何も見えない。彼は、自分が今まで眠っていたことに気がついた。彼は、腕時計で時間を確かめ、運転手に「あと、どのくらいかね?」と聞いた。
「お目覚めですか、もうすぐイーボリ埠頭です」
 ボーリックは「分かった」と言いながらコートの胸の辺りを擦った。
 車が静かに止まると、ボーリックは「すぐに戻る」とだけ告げてドアの外に消えていった。ボーリックの鼻を濃い潮の香りが過ぎていく。遠くで防波壁を叩く波の音がする。彼は、停泊する貨物船の明滅する光を横目に足早に目的地へ向かった。もう時間はかなり過ぎていた。
 昼はタグボート乗組員の休憩室となる古びた建物はひっそりとしている。彼は強い海風の中を建物に向かい歩き始めた。
 汽笛が響く中、遠くで誰かが煙草に火を付けた。闇に顔だけが浮かんで見える。ボーリックは立ち止まり、ポケットから葉巻を取り出すと風を背にして火を付けた。男は、それに気付くと煙草を投げ捨てて足で踏み消した。そして急いで近づいてくると「遅かったな」とボーリックに声をかけた。
 灯台の反射光に時折照らし出される男は、逞しい体を黒色のタイトセーターに包んでいる。ボーリックも葉巻を足許に投げ捨てた。
「すまんな、いろいろと取り込んでいてね。それより、居てくれて良かったよ」
 男は、白い歯を見せながら「こんな旨い話は二度とないんでね、何時間でも待つ気でいたさ」
 ボーリックは男に冷めた目を向けた。
「持って来たんだろうな」
 男は辺りを見回して誰も居ないのを確認すると、ズボンのポケットから一枚の紙を取り出してボーリックに見せた。
「これに間違いないだろう?」
「ああ、そのようだ」
 ボーリックは頷くと、コートの内ポケットから取り出した分厚い封筒を渡した。男は封筒を鷲掴みにしてズボンのポケットに無理やりねじ込んだ。
「おい、数えなくていいのか?」
 ボーリックが小さな声で言うと、男は「俺の取引相手は副大統領だぜ、あんたを信用しているよ」と、また白い歯を剥き出して笑った。ボーリックは右手を男に突き出した。男はその手を力強く握り締めると「あんたに幸運を」と言って暗闇の中へ消えていった。
 ボーリックが車に向かい歩き始めると、遠くから声が聞こえた。
「俺のことは一切言わないでくれよ」
 ボーリックは振り向きもせず、後ろに向かって手を上げた。
 車に戻ると、運転士は波止場で煙草をふかしている。彼は、ボーリックを見つけると素早く車に乗り込み「早かったですね」と言って、慌ててイグニッションキーを回した。
 車は少しの間、暗い悪路を走った。オレンジ色の照明灯が現れると、タイヤが道路を舐めるような音を出し始める。
 運転手が、バックミラー越しにボーリックに声をかけた。
「副大統領、何年になるのですか?」
 ボーリックは、疲れた声で運転手に答えた。
「二期目だから、六年になるかな…もう充分だ。すまないが少し眠らせてもらうよ」
 オレンジ色の光が、目を閉じた彼の顔を規則正しく照らしてはまた消えていった。
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