第33話 謎解き

文字数 3,865文字

 ヘッジスは、昨日のリストの驚いた姿を思い出していた。
 いつも冷静なリストが、あれほど興奮するとは思ってもいなかった。クラメンは、言葉をなくしていたが、落ち着くとまるで自分のことのように喜んでくれた。周りを囲む人達に驚きが波のように広がっていった。その中心にいた自分だけが他人事のように冷静だった。
 彼はいつもそうだ。悲しい時はもちろん、嬉しい時でさえも感情を抑え込んでいる。彼の喜びは必ず悲しみになると知っていて、迂闊に喜ばないことにしている。悲しみは、忘れることを癖にした。忘れられないものは心の箱の中に押し込める。しかし、結局は何度も反芻して苦しむことになる。
 停学の傷は、心の中で大きな場所を占めて彼を縛り続けている。両親の顔を思い出すと傷は一層疼きだし、それは怖さに変わっていく。
 リストもクラメンも精一杯に彼を力付けてくれる。二人によって彼は明るく振舞うことができたが、心の中は、まだどうすることもできなかった。それはリストの言うとおり、自信を持てず、何事にも抗わず、ただ逃げ惑うだけの自分のせいだと分っていた。

 彼の悲しみは、明るい声にかき消された。ヘッジスは(教授の声だ)と分かった。そして、いつもどおり嫌な物を隠して作り笑いを浮かべた。
 リストは部屋に入ると、これ以上ない笑顔をヘッジスに向けた。
「昨日は、本当に驚いたよ。まさかあれほど簡単に解読してしまうとは思ってもいなかったからね」
「教授、運が良かっただけです」
「ヘッジス君、これに関しては運なんてないよ」
「いえ、運だと思います。教授、人の出会いは運ですよね?」
 ヘッジスは、教授の頷くのを待って話を続けた。彼は素直に自分の心を表現しようと努力した。
「僕は二つの幸運に恵まれました。一つはクラメンと出会えたことです。そしてもう一つはリスト教授に出会えたことです。それまで誰にも相手にされなかった僕と話をしてくれました。それだけでも僕は嬉しかったんです」
 ヘッジスは、言葉を切ると少し潤んだ目でリストを見つめた。先程の悲しみの記憶が彼を感傷的にさせているようだ。
「でも、教授達はそれ以上のものを私に与えてくれたんです。そのうえ、僕が泥棒だって言われても信用してくれています。教授達との出会いがあったからこそ、あの文字が読めたのです」
 彼は、もっと多くの感謝を伝えたかったが、言葉が上手く出て来なかった。
「君は変わったね…」
 リストは、優しく嬉しげな目でヘッジスを見て言った。
「二人のおかげです」
「そうかい、そう言ってもらうと嬉しいものだ。ヘッジス君、ありがとう」
 リストは、目を細めてヘッジスを見た。
「できれば、クラメンにも同じことを言ってやってくれないかね?」
「はい、ただ恥ずかしいですから…でも、また話してみます」
「そうか、それがいい。クラメンは大喜びするぞ、なぜって?、当たり前じゃないか、彼女も君のことが大好きなのだからね」 
 ヘッジスは嬉しさと苦しさの混ざり合った顔で「そうでしょうか?」と聞いた。
「少なくとも私はそう思うがね。クラメンに聞けば話は早いのだが…」
 リストは(若い者はこれだからいかん)と思った。そして自分の昔を思い出し、大差ないことに気付いて苦笑した。
「ヘッジス君、どうやってあの文字を解読したのか教えてくれないかね?、これでも国際考古学委員会にいたのでね…非常に興味のあるところなんだ」
「教授に教えるなんて照れくさいですね」
「知らない者が教えを乞うのは当たり前のことだ。まさか、教えないってことはないだろうね?」
「教授、では聞いて頂けますか?」
 ヘッジスは、自分の解読がどう評価されるのか興味もあったが、不安の方が大きかった。目の前の相手が国を代表する考古学の権威であれば当然である。
 リストは「もちろんだ」といった。
「私は、あの文字を昨日始めて見た訳ではありません。実は、あの本と同じような物を持っているんです」
 ヘッジスは机の引出しを開けると黒表紙の本をリストに渡した。リストはページを一枚ずつ丁寧にめくると驚きを隠さず、「どこで?」と尋ねた。
 ヘッジスは、発見した状況について詳しく説明したが、氷の下から覗くあの人形についてだけは話さなかった。話せば心の箱に隠しているものが姿を現しそうだったからである。
 氷の人形は、彼の心の奥底を守護霊のように浮遊している。彼女はパンドラの箱を守っているようだ。自分を馬鹿にし続ける嘲りの目、いつか去っていくであろうクラメンの顔、そして泥棒と呼び続ける子供の声。箱の中には、多くの物が整理されず混沌として隠されていた。
 箱の蓋が開きそうになったのでヘッジスは慌てて言葉を続けた。
「すべての文字が今使っている文字です。最初は、解読なんて簡単なことだと思いました」
 リストは、頷きながら(私も一年程度だと思ったのだ…)と呟いた。ヘッジスが怪訝な顔したので、リストは慌てた顔を見せた。
「い、いや…展示会で見て、私は一年はかかると思ったのだよ。文字は現在と共通しているが、文節の規則性は複雑そうに感じたからね」
「そのとおりでした。最初、この本を見たとき僕は文字列が簡単に見つかるはずだと思い、適当な文字列を抜き出して調べてみました。しかし、それは今使われているどの辞書にもそれはありませんでした」
 突然、ヘッジスは思い出したように「クラメンがいなくて良かったですね。何を言っているのか分からずに、また怒りだしますから」と笑った。
 リストは笑わずに質問を続けた。
「それで、文字列は見つかったのかい?」
「はい、しかし想像もつかないものでした。正確に言うと文字列はないのです」
「文字列がない?、文字列がなくては意味を伝えることは不可能だろう」
「いえ、可能なのです。これはクラメンに教えてもらいました。教授はあの歌を覚えていますか?」
「歌?」
「あの、子供が文字を覚えるために唄う歌です」
 そう言いながらヘッジスは「きは、きれいな王妃さま」と口ずさんで聞かせた。
「ああ、覚えているよ。クラメンの唄っていた歌だ」
「教授、あの歌は子供が文字が覚えやすいように一文字ずつに意味を持たせているのです」
 リストは即座にヘッジスの言葉の意味を理解した。そして、眉を釣り上げると口早に聞き返した。
「では、この文章に文字列はなく一文字ずつに意味があると言うのかね?」
「はい、すべての文字に意味があります」
 リストの声が震えている。
「信じられない。一文字に意味…ど…どうやってその意味がわかったのだね?」
「教えて頂きました」
「えっ、誰に!」
「教授ですよ、リスト教授、あなたです」
「私?、私は何も教えてはいないが…」
「僕は、今の言葉で解読できないのなら言語に亜種があるのではないかと考えました。そんなとき、図書館で教授とお会いしたのです。そして教授は僕にカプル語、セプト語、そしてアルダヌ語を教えてくれました」
 リストの体は、少しずつ前のめりになっていった。
「結局、そのどの言語にもこの本と同じ文字列を持つ単語はありませんでした。僕は行き詰まってしまいましたが、クラメンの歌に救われました。一文字がそれだけで意味を持っているとしたら…、と考えて見たのです」
 リストは、ヘッジスが珈琲を口にする間も彼から目を離すことができないでいる。ヘッジスは、テーブルにカップを戻して話を続けた。
「一文字に意味を持たせた文字を表意文字と言うことにします。この表意文字は、現代語の中にはありませんでした。一つひとつ調べてみましたが現代語では意味が全く通じないのです。それもそのはずです。文字は同じであっても進化の過程で、発音や意味が変化しているからです」
「では、あの言語の中に…」
「はい。教えて頂いた古代の言語で調べてみて驚きました。アルダヌ語の単語の頭文字をとって表意文字とするとそのほとんどが解けたのです。もちろん同じ頭文字を持つ単語の中から選別するのは大変でした」
「私なら気が遠くなってしまっているよ。それで?」
「理解できない残りはすべてカプル語、セプト語の中で見つけることができました。そして文章としての単語の並び…この規則性を表す文法はアルダヌ語と同じでした」
 リストは、ただ何度も頷いていた。
「ですから先程、教授とクラメンのおかげで解読できたとお話したのです」
 謙遜するヘッジスにリストは軽く首を振ると「表意文字…」とうわ言のように呟いた。
 リストは手に持った黒表紙の本の中から適当な文字を指差し「では、この文字はどう言う意味があるのだね?」と聞いた。
「これはアルダヌ語の(知る)と言う言葉の頭文字です。ですから(知る)と言う意味になりますが、その前のこの文字が(ない)と言う意味ですので、その二文字で(知らない)と読むのです」
 突然、忙しく玄関のドアを叩く音が聞こえた。そして叩き続けられる音よりも大きく、ヘッジスの名前を呼ぶ声が聞こえている。
「誰かね?」
 リストは聞いたが、ヘッジスも戸惑ったように首を捻り、窓際へ歩いていった。
 見下ろすと、暑苦しいコートを着た男が玄関を叩いている。鞄を肩から紐で吊るし、手には小さなメモ帳が握られていた。男は、煙草を口に咥えると古びた帽子の(つば)を上げて額の汗を拭った。そして、胸一杯に吸い込んだ青い煙を吐き出しながら空を見上げた。男は、二階の窓にヘッジスの姿を捕らえると大きな声で叫んだ。
「ヘッジスさん、ヘッジスさんですね?、ガロー新聞の者です」
 男は煙草を足許に投げ捨てて、メモ帳を振り続けた。
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