第46話 パームランド公園
文字数 3,504文字
樹木は、広がる緑色の絨毯の上に大きな枝を広げている。人々はこの葉の下で雨をやり過ごし、晴れた日には家族で食事を楽しむことができた。
キルティングが柔らかな芝生の上に敷かれている。見上げると樹葉が広がり、テーブルクロスに木漏れ日を揺らしていた。心地よい微 かな風が、テーブルから垂れたクロスの端を揺らしている。
「うまく焼けたよ」
携帯用オーブンの扉を開きながらエンヤ婆さんがクラメンに声をかけた。クラメンは、ヘッジスを見てにっこりと笑うと「本当においしそうな匂いね」と満足した顔を浮かべた。
椅子の背もたれにも柔らかなキルティングが掛けられている。生地越しの芝生の感覚が裸足に心地よい。
クラメンはポットから珈琲を注ぎ終えるとヘッジスの隣の席に着き、温かそうなクロスを撫でた。
「少し早いんだけどね。もうすぐ風が吹き始めるからねえ。また寒くなるよ」
エンヤ婆さんは「嫌だ、嫌だ」と呟きながらケーキをテーブルに運んでくれた。
クラメンは横目でケーキを追い、エンヤ婆さんの話を曖昧に聞き流している。そして、眼の前に置かれたケーキに手を伸ばすと、その手はエンヤ婆さんに軽く叩かれた。
「まだ、どうぞって言ってないがね」
クラメンは、舌を少し覗かせて首をすくめた。爺さんは、新聞を読みながらその仕草を見て笑っている。ヘッジスは、新聞に隠れた爺さんとの話題もなく、気まずい気持ちで座っていた。
どこからか鳥の囀りが聞こえる。
エンヤ婆さんは待ちきれない様子のクラメンに「では、おあがり」と声をかけ、優しく背中を擦ってやった。そして、今度は爺さんに向かい顔を歪めて尖った声を出した。
「あんた、狭いテーブルで新聞を広げられちゃあ邪魔なんだがね!」
爺さんは新聞を降ろし、顔をしかめて見せる。エンヤ婆さんが戯けて肩をすくめると、クラメンは大きな口を開けて笑った。ヘッジスは笑いを我慢すると、エンヤ婆さんに向き直った。
「エンヤさん、本当にありがとうございました」
「もういいんだよ、ヘッジス」
エンヤ婆さんは、照れたのかケーキを切るナイフから目を離さずに話した。
「クラメンから聞いたよ、あんた客員とやらにならされるんだって?」
「エンヤさん、大統領の推薦なのよ!」
クラメンが胸を張り、自分のことのように大声で自慢した。
「だ、大統領?」
エンヤ婆さんは、クラメンの言葉に驚き、あと僅かのところで手を切るところだった。爺さんは口を開いたまま固まっている。
「そうなの、大統領が理事長に電話を入れてくれたらしいの、ねえヘッジス?」
「あ、ああ…」
エンヤ婆さんは、四つに切ったケーキを配り終えると「爺さんのが一番大きいからね」とご機嫌を伺った。爺さんは、バツの悪そうな顔をしてケーキを口に放り込んだ。
クラメンは笑いながら、爺さんの口の中に消えていくケーキを目で追っている。
「クラメン、何かおかしいかい?」
爺さんは、クラメンの様子を見て嬉しそうに微笑んだ。彼は、遊びに来るようになったクラメンを自分の孫のように思い始めている。
「だって、お爺さんとエンヤさんの話、おもしろいんですもの」
クラメンの言葉に、爺さんは複雑な表情をしてエンヤ婆さんを見たが、その顔は誰の目にも喜んでいるように見えた。
「客員って言えば、やっぱり賢い人が選ばれるんだろう?、あんた、そんなに頭が良いのかね?」
エンヤ婆さんが遠慮無しに聞いた。
「エンヤさん、ヘッジスは考古学については教授よりよく知っているのよ、ねえ」
クラメンが、さも当たり前と言った顔でヘッジスに代わって答えた。
「で、どうする気なんだい?」
「ヘッジスは絶対になりますよ、エンヤさん」
「クラメン、私はヘッジスに聞いているんだがね」
意気込んで話すクラメンに、エンヤ婆さんは諦めたような顔で首を振ってみせた。クラメンが反省した振りをして見せたので、爺さんは心配気な顔をした。
ヘッジスが、少し俯 いてから口を開いた。
「実はどうしようか迷っているんです」
「ヘッジス、何を悩むことがあるのよ、あなただったらできるわよ!」
クラメンが、また婆さんに叱られやしないかと爺さんは心配で仕方ない。爺さんは、婆さんの顔色を窺 い、大きな咳をした。そして、聞こえないような小さな声で独り言を呟いた。
(そりゃあ悩むよなあ…でも、それより良く考えることが大事なんだ)
聞き逃さなかったエンヤ婆さんが、きつい口調で爺さんを叱った。
「爺さん、あんたはヘッジスにどうさせたいんだい!」
爺さんは、新聞紙の上に落ちたケーキの欠片を指で摘んで口に放り込んでいる。
「ヘッジスがやりたいことをやれば良いのさ」
「それが分からないから、この子は迷ってるんだよ」
「いや、決まってるさ。でなけりゃ悩まねえよ」
「爺さんの呆け話にも困ったもんだ」
爺さんは、愛想を尽かしているエンヤ婆さんを見て鼻で笑うとヘッジスに聞いた。
「客員ってのは何をするんだろうな?」
「たぶん…委員と一緒に何か難しいことや新しいことを考えるんだと思いますが…僕には無理だと思うんです」
「ほう、ではなぜそんなお前さんが客員に呼ばれたんだ?」
「分かりません」
「わしには分かるね」
爺さんは、何事でもないように言うと小さく切ったケーキを口に放り込んだ。
「お爺さんに分かるのですか?」
驚くヘッジスと同じように、エンヤ婆さんとクラメンも爺さんの顔を見た。
「簡単な事だ。今のお前が必要だからさ。誰も背伸びしたお前さんなんか欲しがっちゃいねえさ」
「このままの僕?」
「ああ、そのまんまだ。足さねえし引きもしねえ、そのまんまだ」
爺さんは、膝に溢れたケーキの粉を叩 いた。
「ヘッジス、委員会と言えば専門家揃いで頭の良い連中ばかりだ。そこで一緒に勉強して見たくはねえかい?」
「それはできることならして見たいです」
爺さんは「そうだろうな」と頷いて、納得顔で話を続けた。
「お前さんが悩んでいるのは、できなかったときが怖いからだろ?」
「……」
「そもそも、お前さんにできたかどうかが分かるのかい?」
爺さんは珈琲を飲み、それをテーブルに戻すとヘッジスとクラメンを見て言葉を続けた。
「自分の値打ちが分かる奴なんて一人もいやしねえ。それが分かるのは人様 だよ。お前さんは無理だと言ったが、自分の値打ちを間違えるのはいつも自分なんだ」
婆さんが「爺さんの講釈が始まったよ。こりゃ長いよ」と茶化したが爺さんは話を続けた。
「お前さんの値打ちは大統領が思う以上かも知れねえんだよ。やりたいんだろう?、後悔を今からするのかい?」
包み込む優しい風が心地よい。また、鳥の囀りが聞こえた。
爺さんは、目を細めて珈琲を口にした。そして、言葉を足した。
「後悔は後からするものさ」
ヘッジスは、頷きながら爺さんの話を聞いている。身体から薄い膜がゆっくりと剥がれていく。肌が新しい風を感じ始めている。
「ヘッジス、いいかい?、恐れちゃいけねえ。楽しむんだよ。お前の良し悪しは、死ぬ頃までには人様が決めてくれるさ。お前さんの仕事じゃあねえよ」
木漏れ日が揺れ惑っている。
爺さんは、眩しそうに遠くの景色に目をやると気持ち良さそうに伸びをした。爺さんの言葉が、行き場のなかった心の隙間に染み込んで来る。彼は澄んでいく瞳で爺さんを見た。
「お爺さんに、後悔はないのですか?」
「ははは、後悔のない人間なんていねえさ。なあ婆さん?」
エンヤ婆さんが笑って頷くのを見て、爺さんも小さく頷いた。
「でもな…この歳になると後悔も良い塩梅に愉しみの一つになるんだよ。どうだい?、気が楽にならないかい?」
爺さんは照れたように笑った。
葉擦れの音が耳に優しい。
クラメンには、ヘッジスが少し胸を張ったように見えた。
「やってみなさいよヘッジス!、私は、会ったときから分かってたわよ、あなたが凄い人だって!」
クラメンが得意そうな顔でヘッジスの腕を揺すった。
「私は、爺さんの良さが今わかったよ」
エンヤ婆さんが笑いながら言うと、つられて爺さんもクラメンも笑った。ヘッジスは、爺さんの言葉を心の中で繰り返し聞いている。
(ダメだって決めるのは僕じゃない)
笑いが収まった頃を見計らって、エンヤ婆さんが似合わない真面目な顔で言った。
「ヘッジス、少しだけで良いから自信を持ちなさい」
それは、息子を諭すような優しい声だった。
遠くから声が聞こえる。どこかの樹の下にどこかの家族がテーブルを持ち出しているのだろう。どこにいるのか分からない。分かるはずもない。我々を育む数え切れない大樹は、テーブルの数を遥かに上回っているのだから。
もうすぐ風が吹き始める。また季節が変わる。
キルティングが柔らかな芝生の上に敷かれている。見上げると樹葉が広がり、テーブルクロスに木漏れ日を揺らしていた。心地よい
「うまく焼けたよ」
携帯用オーブンの扉を開きながらエンヤ婆さんがクラメンに声をかけた。クラメンは、ヘッジスを見てにっこりと笑うと「本当においしそうな匂いね」と満足した顔を浮かべた。
椅子の背もたれにも柔らかなキルティングが掛けられている。生地越しの芝生の感覚が裸足に心地よい。
クラメンはポットから珈琲を注ぎ終えるとヘッジスの隣の席に着き、温かそうなクロスを撫でた。
「少し早いんだけどね。もうすぐ風が吹き始めるからねえ。また寒くなるよ」
エンヤ婆さんは「嫌だ、嫌だ」と呟きながらケーキをテーブルに運んでくれた。
クラメンは横目でケーキを追い、エンヤ婆さんの話を曖昧に聞き流している。そして、眼の前に置かれたケーキに手を伸ばすと、その手はエンヤ婆さんに軽く叩かれた。
「まだ、どうぞって言ってないがね」
クラメンは、舌を少し覗かせて首をすくめた。爺さんは、新聞を読みながらその仕草を見て笑っている。ヘッジスは、新聞に隠れた爺さんとの話題もなく、気まずい気持ちで座っていた。
どこからか鳥の囀りが聞こえる。
エンヤ婆さんは待ちきれない様子のクラメンに「では、おあがり」と声をかけ、優しく背中を擦ってやった。そして、今度は爺さんに向かい顔を歪めて尖った声を出した。
「あんた、狭いテーブルで新聞を広げられちゃあ邪魔なんだがね!」
爺さんは新聞を降ろし、顔をしかめて見せる。エンヤ婆さんが戯けて肩をすくめると、クラメンは大きな口を開けて笑った。ヘッジスは笑いを我慢すると、エンヤ婆さんに向き直った。
「エンヤさん、本当にありがとうございました」
「もういいんだよ、ヘッジス」
エンヤ婆さんは、照れたのかケーキを切るナイフから目を離さずに話した。
「クラメンから聞いたよ、あんた客員とやらにならされるんだって?」
「エンヤさん、大統領の推薦なのよ!」
クラメンが胸を張り、自分のことのように大声で自慢した。
「だ、大統領?」
エンヤ婆さんは、クラメンの言葉に驚き、あと僅かのところで手を切るところだった。爺さんは口を開いたまま固まっている。
「そうなの、大統領が理事長に電話を入れてくれたらしいの、ねえヘッジス?」
「あ、ああ…」
エンヤ婆さんは、四つに切ったケーキを配り終えると「爺さんのが一番大きいからね」とご機嫌を伺った。爺さんは、バツの悪そうな顔をしてケーキを口に放り込んだ。
クラメンは笑いながら、爺さんの口の中に消えていくケーキを目で追っている。
「クラメン、何かおかしいかい?」
爺さんは、クラメンの様子を見て嬉しそうに微笑んだ。彼は、遊びに来るようになったクラメンを自分の孫のように思い始めている。
「だって、お爺さんとエンヤさんの話、おもしろいんですもの」
クラメンの言葉に、爺さんは複雑な表情をしてエンヤ婆さんを見たが、その顔は誰の目にも喜んでいるように見えた。
「客員って言えば、やっぱり賢い人が選ばれるんだろう?、あんた、そんなに頭が良いのかね?」
エンヤ婆さんが遠慮無しに聞いた。
「エンヤさん、ヘッジスは考古学については教授よりよく知っているのよ、ねえ」
クラメンが、さも当たり前と言った顔でヘッジスに代わって答えた。
「で、どうする気なんだい?」
「ヘッジスは絶対になりますよ、エンヤさん」
「クラメン、私はヘッジスに聞いているんだがね」
意気込んで話すクラメンに、エンヤ婆さんは諦めたような顔で首を振ってみせた。クラメンが反省した振りをして見せたので、爺さんは心配気な顔をした。
ヘッジスが、少し
「実はどうしようか迷っているんです」
「ヘッジス、何を悩むことがあるのよ、あなただったらできるわよ!」
クラメンが、また婆さんに叱られやしないかと爺さんは心配で仕方ない。爺さんは、婆さんの顔色を
(そりゃあ悩むよなあ…でも、それより良く考えることが大事なんだ)
聞き逃さなかったエンヤ婆さんが、きつい口調で爺さんを叱った。
「爺さん、あんたはヘッジスにどうさせたいんだい!」
爺さんは、新聞紙の上に落ちたケーキの欠片を指で摘んで口に放り込んでいる。
「ヘッジスがやりたいことをやれば良いのさ」
「それが分からないから、この子は迷ってるんだよ」
「いや、決まってるさ。でなけりゃ悩まねえよ」
「爺さんの呆け話にも困ったもんだ」
爺さんは、愛想を尽かしているエンヤ婆さんを見て鼻で笑うとヘッジスに聞いた。
「客員ってのは何をするんだろうな?」
「たぶん…委員と一緒に何か難しいことや新しいことを考えるんだと思いますが…僕には無理だと思うんです」
「ほう、ではなぜそんなお前さんが客員に呼ばれたんだ?」
「分かりません」
「わしには分かるね」
爺さんは、何事でもないように言うと小さく切ったケーキを口に放り込んだ。
「お爺さんに分かるのですか?」
驚くヘッジスと同じように、エンヤ婆さんとクラメンも爺さんの顔を見た。
「簡単な事だ。今のお前が必要だからさ。誰も背伸びしたお前さんなんか欲しがっちゃいねえさ」
「このままの僕?」
「ああ、そのまんまだ。足さねえし引きもしねえ、そのまんまだ」
爺さんは、膝に溢れたケーキの粉を
「ヘッジス、委員会と言えば専門家揃いで頭の良い連中ばかりだ。そこで一緒に勉強して見たくはねえかい?」
「それはできることならして見たいです」
爺さんは「そうだろうな」と頷いて、納得顔で話を続けた。
「お前さんが悩んでいるのは、できなかったときが怖いからだろ?」
「……」
「そもそも、お前さんにできたかどうかが分かるのかい?」
爺さんは珈琲を飲み、それをテーブルに戻すとヘッジスとクラメンを見て言葉を続けた。
「自分の値打ちが分かる奴なんて一人もいやしねえ。それが分かるのは
婆さんが「爺さんの講釈が始まったよ。こりゃ長いよ」と茶化したが爺さんは話を続けた。
「お前さんの値打ちは大統領が思う以上かも知れねえんだよ。やりたいんだろう?、後悔を今からするのかい?」
包み込む優しい風が心地よい。また、鳥の囀りが聞こえた。
爺さんは、目を細めて珈琲を口にした。そして、言葉を足した。
「後悔は後からするものさ」
ヘッジスは、頷きながら爺さんの話を聞いている。身体から薄い膜がゆっくりと剥がれていく。肌が新しい風を感じ始めている。
「ヘッジス、いいかい?、恐れちゃいけねえ。楽しむんだよ。お前の良し悪しは、死ぬ頃までには人様が決めてくれるさ。お前さんの仕事じゃあねえよ」
木漏れ日が揺れ惑っている。
爺さんは、眩しそうに遠くの景色に目をやると気持ち良さそうに伸びをした。爺さんの言葉が、行き場のなかった心の隙間に染み込んで来る。彼は澄んでいく瞳で爺さんを見た。
「お爺さんに、後悔はないのですか?」
「ははは、後悔のない人間なんていねえさ。なあ婆さん?」
エンヤ婆さんが笑って頷くのを見て、爺さんも小さく頷いた。
「でもな…この歳になると後悔も良い塩梅に愉しみの一つになるんだよ。どうだい?、気が楽にならないかい?」
爺さんは照れたように笑った。
葉擦れの音が耳に優しい。
クラメンには、ヘッジスが少し胸を張ったように見えた。
「やってみなさいよヘッジス!、私は、会ったときから分かってたわよ、あなたが凄い人だって!」
クラメンが得意そうな顔でヘッジスの腕を揺すった。
「私は、爺さんの良さが今わかったよ」
エンヤ婆さんが笑いながら言うと、つられて爺さんもクラメンも笑った。ヘッジスは、爺さんの言葉を心の中で繰り返し聞いている。
(ダメだって決めるのは僕じゃない)
笑いが収まった頃を見計らって、エンヤ婆さんが似合わない真面目な顔で言った。
「ヘッジス、少しだけで良いから自信を持ちなさい」
それは、息子を諭すような優しい声だった。
遠くから声が聞こえる。どこかの樹の下にどこかの家族がテーブルを持ち出しているのだろう。どこにいるのか分からない。分かるはずもない。我々を育む数え切れない大樹は、テーブルの数を遥かに上回っているのだから。
もうすぐ風が吹き始める。また季節が変わる。