第45話 復学

文字数 2,590文字

 大学は、何一つ変わっていなかったが、すれ違う学生の表情は明らかに違っている。ヘッジスは、彼らの瞳の中に蔑みのないことが不思議で、知らない大学にいるような感覚を味わっていた。
「ほら、皆んながヘッジスに憧れているわよ」
 クラメンは、嬉しそうにヘッジスを冷やかすと、周りの学生に見せ付けるようにヘッジスに寄り添って歩き始めた。
「そんなことはないよ、皆んなにとって僕は骨董屋ヘッジスさ」
 恥ずかしそうに頬を染めたヘッジスが、いつものように背中を丸めた。クラメンは、ヘッジスの顔を見上げて「そうかな?」と笑った。
「さあ、行きましょう、リスト教授がお待ちかねのはずよ。さあ、早く」
 ヘッジスとキャンパスを歩けることが幸せでならないクラメンは少女のようにはしゃぎ、腕を引いて彼を教室の方へ向かわせた。
「クラメン、今日は授業じゃあないんだ。理事長に呼ばれただけなんだよ」
「理事長に?、なんで?」
「いや、分からないけど理事長室に来るように言われているんだ」
「そうなの…それじゃあ先に行って待ってるから。隣の席を空けてるからね」
 残念そうにヘッジスの腕を離しかけたとき、突然に後ろから声がした。
「おい、クラメン。やけに楽しそうだな」
 男は、嫌味な笑いを口元に浮かべ、甲高い声で言った。クラメンは嫌そうに「何よ、何か用なの!」と口早に罵った。
「いや、お前がまた退学野郎に騙されないように心配しているんだぜ」
「カーロン、退学野郎ってヘッジスのこと?、ヘッジスは今日から復学するのよ」
「そんなの、嘘に決まっているだろう。それなら必ず俺の親父に連絡があるはずさ、俺は親父からそんなことは一言も聞いちゃあいないぜ」
「嘘よ、本物の泥棒の言う事なんか信用できないわね!、口を開けば、親父、親父って子供みたいに!」
 ヘッジスは、カーロンの鼻先に噛み付きそうなクラメンの腕を引っ張った。
「行こう、クラメン。もういいさ」
 クラメンは、ヘッジスに引き摺られながらもカーロンを睨んでいる。
「おい、馬鹿ヘッジス、復学なんてできると思うな!」
 カーロンが、背を向けて歩くヘッジスに尖った声で叫んだ。側を歩く何人かの学生が驚いて立ち止まった。ヘッジスもその声に歩くのを止めると、振り返らずに叫んだ。
「僕は、馬鹿ヘッジスじゃない、骨董屋ヘッジスさ!」
ヘッジスは「さあ、行こう」とクラメンに声をかけると丸めていた背を伸ばし、大きな歩幅で校舎の方へ歩き出した。
 後ろから「いい気になるな、馬鹿ヘッジス!」とカーロンが吠えていた。ヘッジスは、その声に困った振りをして戯けて笑って見せた。
 クラメンは、その仕草にひどく驚いた。ヘッジスの中で何かが変わっている。彼女は胸を張っているヘッジスが眩しくて仕方なかった。

「ヘッジス君かね?」
 理事長は、頷くヘッジスに自分の机の前まで来るように手招きをした。彼は、柔らかそうな布を取り出し、眼鏡のレンズを拭き始める。そして眼鏡を光にかざしながら他人事のように「大変だったな」と言った。誰であっても、その抑揚のない口調に慰労の感情を感じ取る事は難しかっただろう。
「大学としても事実を確認するのに手間取ってね。それで君の処遇について決定が遅れたわけだ、済まなかったね」
 再び眼鏡を光にかざし、満足した理事長は必要以上に時間をかけて眼鏡をかけた。そして、机の上に両肘をつくと組んだ指を遊ばせながらヘッジスを見上げた。
「そこで、君の処遇についてだが…もちろん、退学の処分は取り消しとなる」
 理事長の言葉にヘッジスは、数分前に別れたクラメンを思い出した。その言葉は彼にとって嬉しいことだったが、それ以上に、喜ぶクラメンを想像する方が彼を幸せにさせた。
「ありがとうございます。では、今日から講義を受けても良いのですね?」
 ヘッジスは、破顔で感謝の気持ちを表して理事長に尋ねた。
 理事長はヘッジスに軽く手を振ると立ち上がり、机を回ってヘッジスの側に立った。しかし、彼は見下ろされる不快感からヘッジスに座るように勧めた。
「今日からではなく二週間後から来てもらえればいいんだよ、ヘッジス君」
「二週間後?」
 理事長は「ああ、そうだ」と言葉を濁すと腰を少し前に滑らしソファーに深く腰かけた。そして、手で葉巻を弄びながら「極めて異例の事だが…」と前置きをした。
「君は、国際考古学委員会を知っているかね?」
「は、はい。もちろん知っていますが…」
「実は、昨日電話があってね、君を考古学委員会の客員として迎えたいと言うのだ」
「……」
 言葉は確実にヘッジスの耳に届いたが、すぐには理解はできなかった。
「ヘッジス君、客員に就任してくれると大学としても嬉しいのだが…なにしろ国際考古学委員会だからね、どうかね?」
「僕が客員?、冗談は止めてください」
「なぜ私が冗談など言わなければならないのかね、ヘッジス君?」
「僕はまだ十九歳ですし学生です。そんな客員など聞いたことがありません」
「だから、私は異例の事だと言ったのだよ」
 理事長の真剣な目がヘッジスを捉えている。
「理事長、ほ…本当なのですか?」
 理事長は、険しい顔で大きく頷いた。ヘッジスは落ち着こうと大きく息を吐いたが、結局それは徒労に終わった。呼吸が荒い。
「理事長、僕に勤まるはずがありません。僕は学生のままで充分です」
 大きく手を振るヘッジスに向かい、理事長は「そうなれば私が困るんだ」と首を振った。
「ヘッジス君、君には二週間後に歴史の書について講演をしてもらおうと思っている。講演の内容は、もちろん君の発見した歴史の書をおいて他にはないだろう。その際、客員就任の挨拶をしてもらえれば嬉しいのだが。ジプト大学の品位を落とさないスピーチを頼むよ」
「理事長...ぼ、僕には無理です。断る事もできるでしょう?」
 理事長は首を振った。
「無理だ、君でなければならないんだ!」
「どうして、どうして僕なのですか?」
 理事長は考え事をするかのように額に手を当てた。そして溜息をつくと「驚いてはいけないよ」と言って言葉を続けた。
「これは大統領からの指名なのだ」
理事長の口から漏れた名前にヘッジスは言葉を失っていた。理事長は(君より私が驚いたよ)と思いながら、昨日の電話を思い出していた。
 彼は、ヘッジスの顔を見ながら、もう一つのことを伝えるべきかどうか悩んでいたが、最後まで決心が付かなかった。
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