第19話 休日

文字数 3,402文字

 瞼は重く、開きそうになかった。眠り始めてまだ何時間も経っていない。それでもヘッジスはベッドから体を持ち上げると靴下を探した。
 見渡すと部屋はごみ箱のようになっている。書きなぐられた紙が床を覆い、その上に丸められた紙が自分勝手に転がっていた。
 ズボンを履きながらでも、頭の中には血液より速く(文字)が駆け巡っている。
 彼は、靴下の中にも文字を探している。毎夜、方法を変えて考えてはいたが、黒表紙の本は、彼に一言も語りかけてはくれなかった。彼は無駄な努力のために睡眠時間を失っていた。

「ヘッジス、おはよう」
 外からクラメンの明るい声が聞こえた。ヘッジスは、二階の窓から見下ろしてそれに応えると、クラメンが手に持った大きな紙袋に目をやった。
「何を持って来たの?」
「これ?、クッキーを焼いてきたのよ、教授へのお土産よ」
 ヘッジスはクラメンの周りを見回した。
「他に誰かいるの?」
「いいえ、どうして?」
「どうしてって、それ…じゃあそれ三人分?」
「そうよ」
 彼は、肩をすぼめて呆れた顔をした。そして、何か思い付いたのか小さく頷いた。
「そうだ。それを少し分けてくれないかい?」
「どうするのよ?」
「いや、ちょっとね。今から出るから待ってて」
 ヘッジスは、分けてもらったクッキーを小袋に詰めかえると嬉しそうな顔をした。そして少し歩いて、隣の小さな家のベルを鳴らす。暫く誰も出てこなかったが、やがて玄関先に老婆が姿を現した。
「おや、ヘッジス。何か用かい?」
「い…いえ、前に懐中電灯をお借りしたお礼に…これを…」
「何だね、これは?」
「彼女の作ったク…クッキーです」
「ク…クッキー!、ヘッジスが私にクッキー?」
 エンヤ婆さんは驚いてはいたが、紙袋を覗き込み一つ摘んで口に放り込んだ。
「こりゃ、うまいもんだ。えっと彼女は…」
「クラメンです」
「そう、クラメンだったね。クラメン、とっても美味しいよ」
「ありがとうございます、エンヤさん」
 クラメンは老婆に誉められたのが嬉しかったのか頬を少し赤くした。
「ああ、ちょ、ちょっと待ってなさい」
 エンヤ婆さんは家の中に戻ると大騒ぎをしながら包みを持って戻ってきた。
「私が焼いたケーキだよ、残り物だけど持って行きなさい」
 包みを押しつけるエンヤ婆さんにクラメンは何度もお礼を言った。
 ヘッジスが「エンヤさん、あ...りがとうございます」と言うと、エンヤ婆さんはヘッジスの顔を睨み上げて「お前にやったんじゃないよ!さあ、行った行った!」と手を振ってヘッジスを追い払う真似をした。
 その様子を見て、クラメンが大きな声で笑った。お礼を言いながら去る二人の後姿を見て、エンヤ婆さんは首を振っている。
「ヘッジスがお礼?、あのヘッジスが?」
 そして、クッキーを口に放り込んだ。
 道端では真っ赤な頬をした子供が大きな声を上げながら遊んでいた。

「うん、これは美味しいよ。では、私も珈琲を提供しようかな」
 リストは、ストーブの上で湯気を立てるケトルを手にするとキッチンに向かった。
「デラ教授のことは聞いたかい?」
 キッチンからの教授の声にクラメンは大きな声で答えた。
「ええ、聞きました。あのブレスレットがなくなったそうですね」
「うん、教授はお金もなくなったと言っているんだよ」
「それじゃあ、盗まれたのですか?」
「そう言っている。ただ、理事長はお怒りだがね」
「学校の名誉が大事なんですよね」
 リストは、芳ばしい香りを漂わせながら珈琲をテーブルに運んで来た。そして「困ったものだ」と首を振った。
 クッキーを取ろうとしたリストは、外から聞こえる声に手を止めた。
「子供か。子供は無邪気でいいねえ」
「教授、子供さんはおられるのですか?」
「ああ、もう大きくなって自分勝手に生きてるよ。でも、それはそれで嬉しいことさ」
 ヘッジスはクラメンの肩を叩き、エンヤ婆さんからもらった包みを指差した。そして大きな欠伸を一つした。
「これ、エンヤさんからもらったケーキなんですよ。召し上がってください」
「エンヤさんが?」
「はい」
「ほう、では頂きましょうか、それで君達は食べたのかね?」
 クラメンは、激しく首を振った。そして、切られ始めたケーキを見て喉の辺りに手をやった。彼女は、それぞれの皿に盛られるすべてのケーキを嬉々とした目で追っている。
「食べたければ僕のも食べていいよ」
 ヘッジスの言葉に、クラメンは「結構です!」と顔をしかめて舌を出した。
「うん、クッキーも美味しいがこのケーキも美味しい!」とリストが頷いた。
 クラメンは、頬張り過ぎたケーキに()せたのか慌てて珈琲で流し込んだ。
「本当、すごく美味しい!、どうヘッジス?」
「うん、美味しい」
「クッキーとどっちが美味しい?」
「…ケーキ」
 笑いながら叩かれているヘッジスを見てリストも笑った。
「ヘッジス、エンヤさんに凄く美味しかったって伝えておいてね。絶対によ!」
「うん、分かった。必ず言っておくよ」
 二人は、若者だけが持つ輝くような笑顔で語り合っている。そして小さな子供のようにじゃれ合った。(鳥は逃げそうにないな)とリストは思った。
 外で遊ぶ子供の声が大きく聞こえる。子供達は大きな声で歌を唄っていた。
「あら、あの歌、ヘッジス、あの歌よ」
  きは、きれいな王妃さま
  すは、すてきな王子さま
  かは、かわいいお姫さま
 クラメンはゆっくりと体を左右に振り、リズムを取りながら同じ歌を口ずさんだ。
「ほう、よく知っているんだね」
「はい、小さいときによく歌いました。教授は男性ですからご存知ないでしょう?」
「歌った記憶はないなあ。ヘッジス君、君は?」
「ええ、僕もありません。あまり友達と遊びませんでしたから」
 クラメンは、わざと悲しそうな顔をすると、大げさに「ああ、可哀想なヘッジス。それじゃあ、私が教えてあげるわ。女の子の歌だけどね」と言って悪戯っ子のように笑った。

 ヘッジスは、途中までクラメンを見送ると、家までの雪道を走って戻っていった。彼は、走るリズムに合わせて「きは、きれいな王妃さま」と無意識に口ずさんでいる自分に苦笑した。
 彼は、エンヤ婆さんの家の前まで来ると大きく深呼吸をした。そして、言われたとおりの伝言を伝えるために玄関のドアを叩いた。
「おや、ヘッジス。またかい?」
「あの…クラメンがケーキ…とても美味しかったと言っていました。エンヤさんは天才だと伝えてくれと…すごく喜んでいました。僕も、とても美味しかったです。それじゃあ、さよなら」
ヘッジスは、返事を待たずに走って帰っていった。エンヤ婆さんは家に入ると、そこにいる爺さんに語るでもなく「あの子はやっぱり変人だよ」と呟いた。

 眠い。
 部屋に入ると、ヘッジスは紙屑の中に倒れ込んだ。眠気に襲われる体に逆らい、頭の中ではリストとクラメンが走馬灯のように巡っていた。楽しかった。文字が巡っている。クラメンが笑っている。そして歌を唄いながら彼を追いかけた。文字が巡っている。リストは遠くで椅子に座り、頷きながら二人を見ている。リストの顔はよく見えない。クラメンが唄っている。
 ヘッジスは深い漆黒の眠りに落ちていった。

 どれだけ眠ったのだろう。長かったようで短い眠りだったのかも知れない。
 目覚めたヘッジスは目を閉じていた。横になったまま目を開かず眉間に皺を寄せている。
 寒さのせいで目覚めたのではない。彼の頭の中で、何かが小さく尖った音を立てていたのだ。何かが繋がりつつあった。
 彼は細く目を開けると天井の一点を見つめ、その何かを探し始めた。
 答えは、空から訪れる牡丹雪のように、ゆっくりと舞い降りて来ている。彼はもどかしく手を伸ばして掴んでみる。だが、掌を開くと答えは溶けて跡形もない。
 彼は、漂い揺らめいている物が消えないように、そっと体を起こした。そして、机の上のコップに冷めた湯を注いだ。
 ストーブは消えている。窓の外は、もう真っ暗である。窓に近づくと、街灯の丸い明かりの中にだけ雪が降っていた。
 光の輪の中の雪にも、吐息に曇るガラス窓にも彼の焦点はなかった。僅かに瞳孔が開いているようだ。彼は、気の抜けた半ば(ほう)けた声で口ずさんだ。
 きは、きれいな王妃さま…
 ヘッジスは総毛立ち、身体を硬直させた。皮膚のすべてが強く張りつめている。彼の目は、大きく見開かれている。
 そして、手からコップが滑り落ちた。
「…分かった」
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