第31話 当確

文字数 3,882文字

 椅子に腰かけたハミルは、背もたれを使わず背すじを伸ばしていた。腕時計を見ると、既に約束の時間は過ぎている。次の会議まで残されている時間は僅かだった。
 何の装飾もない会議室は無機質な冷たさを感じさせる。目の前に見える大きな窓には風景はなく、ただ青い空に撒いたような雲が浮かんでいるだけだった。ここに季節はない。
 彼女が組んだ足を解き、席を立とうとしたときにドアがノックされた。
「お待たせしたね。ハミル総長」
 ドアからステッキが現れた。次に現れた男は、如才なく笑って声をかけると、向かいの椅子に腰かけた。
「シェブリー総長、次の会議がありますので用件は手短かにお願いいたします」
 ハミルは真っすぐにシェブリーを見て事務的に言った。シェブリーは意に介さない素振りで適当に手を上げて答えた。
「国際氷河観測省総長の椅子はどうかね?」
「どうと言われますと?」
「いや、仕事には慣れたのかと言う意味だよ」
「まだ着任して間がありませんので…」
「まあ、少しずつ慣れていけば良いことだ。もちろん次の選挙の結果次第ではどうなるか分からないがね」
「残念ですが、私の総長としての仕事はもうすぐ終わると考えています」
 ハミルは細い縁で作られた眼鏡の位置を直しながら早口で言った。
「ほう、次の大統領が君を任命しないとでも思っているのかね?」
「回りくどい言い方をされますね、次の大統領と言わず、私がと(おっしゃ)ればよろしいじゃありませんか」
 シェブリーは大きな口を開けて笑った。そして、近い将来に手に入れる人事権を弄んでいる。
「何事も君の行動次第さ。次の大統領は、君にそのまま総長でいて欲しいと考えているんだがね」
 ハミルは冷たい目でシェブリーを見て口元だけを緩めた。
「私は、不正を行う大統領の任命など受けようとは考えていませんが」
 シェブリーは睨んだが、彼女はそれを無視して時計に目を落とした。
「シェブリー総長、申し訳ありませんが用件がなければこれで失礼します。会議の時間が迫っていますので」
 シェブリーは、席を立ったハミルがドアに手をかけたとき、ステッキでテーブルを強く叩きつけた。彼女は、その壁に突き刺さるほどの音に驚いて振り返った。
「君は、あの件を調べているらしいね」
「あの件?」
「文献の発見時期の件さ、なぜそんな根も葉もないことを調べているのか不思議でならないよ」
「根も葉もない?、氷河観測省の省員が証言していることが根も葉もないことなのですか?」
「私への報告では、それは省員の記憶違いだったと聞いているがね」
「ええ、突然に証言が変わりました。たぶん誰かが裏で手を回したのでしょう。でもこんなおかしな話があるとお考えですか?」
 ハミルはシェブリーの座る椅子に近づいて上から見下ろした。
「おかしな話も何も、私は省員が事実を言っていると思うがね」
「まあ、いいでしょう。私は私なりに調べて見るだけですから」
 シェブリーは、それには答えず「ああ、そうそう。この前の怪我は大丈夫だったかな?」と聞いた。
「怪我?」
 ハミルは怪訝な顔をしてシェブリーを見た。
「そうだよ。この前、怪我をして帰って来ただろう」
「……」
「覚えていないのかね、これは母親失格だな」
 ハミルの頭に数日前の出来事が思い出された。それは子供が道路でつまずき、泣きながら帰ってきたことだった。
 ハミルは真っ青な顔をしてシェブリーを見た。
「なぜ、なぜあなたがそんなことを知っているのですか?」
「いやちょっと小耳に挟んでね。危険な道路なら建設省に指示を…」
「こ、子供に何かしたのですか?」
 ハミルは、シェブリーの腕を掴んで激しく揺すった。
「やめなさい、総長。落ち着いて座りなさい!」
 シェブリーは、ハミルの手を叩くように払い除けると上着の崩れを直した。
「まあ、どんな親にしても子供は可愛いんだね。ねえ、総長?」
「な、何が言いたいのですか?」
 シェブリーは手の中でステッキを擦ると窓の外に目をやった。
「君は大統領選をどう思う?」
「どうって、私には特別大きな関心はありません。それより、子供をどうしようと言うんです!」
「私が言ったのはどちらが勝つかと言うことだ!、私か奴か、どっちだと思う?」
 シェブリーは笑うのを止めて強い口調で言い放った。
「それを聞いてどうしようと?、自分の名前を聞いて満足したいの?」
 シェブリーは彼女の嫌味を聞き流した。
「いいや、客観的な意見を拝聴したくてね。国民は小さなゴシップに惑わされやすいものだからね」
「では、お答えしますわ。どう転んでもあなたの勝ちでしょうね、これで満足?」
「君もそう思うかね。しかし、小さな油断が命取りになることもある」
 シェブリーは、瞳だけを動かしてハミルの顔を見た。
「あなたなら油断でできた穴もお金で塞ぐこともできるでしょう」
「埋められない穴もあるのだよ、例えば君のようにね」
 シェブリーは首を振って答えた。
「私?、私などあなたにとって取るに足らないものだと思いますが?」
「私は、完璧主義者でね。まあ座りなさい」
「それは、お疲れ様ですこと」
 ハミルは、蔑むように言うと椅子に腰かけて足を組んだ。向かいに座ったシェブリーは歯を剥き出して欲深そうな顔をした。
「今の私には、一つの吉報と一つの心配事がある。その一つが君でね」
「吉報の方かしら?」
「残念ながらそうではない」
 シェブリーは意識して威圧する低い声で言った。
「君には、この件の調査から手を引いてもらいたい。この時期に身に覚えのないことで騒ぎ立てられては困るんでね」
「私は、嘘の報告など一度もしたことはありません。真実だけを大統領に報告しているだけです。」
「大統領は何と言っている?」
「時期が悪過ぎる、タイミングを選んで調査するようにと言われています」
「ほう、彼もなかなか優れた男だ。それでは君も静かにしていないとね…」
「いいえ、私には国民に事実を伝える義務がありますから」
「なるほど、次期国際氷河観測省総長の椅子を棒に振ってまでも?」
「ええ、もちろんです」
 シェブリーは目を細めて薄ら笑いを浮かべ、ハミルに言った。
「では、家族を犠牲にしてまでも…かね」
 ハミルは、驚いてソファーから体を起こした。シェブリーの顔は歪んで卑屈な笑いを浮かべていた。
「まさか…子供を?」
「子供?、何を言っているのか分からないね」
「卑怯な…」
「世の中にはいろんなことが起り得る、道路で転んで怪我をする者もいれば、車に曳かれて亡くなる人もいる。総長、動かなけれ事故には遭わないものだよ」
「こ、これは脅迫ですか⁉」
 ハミルは、テーブル越しのシェブリーを睨んで声を荒らげた。
 シェブリーはハミルに鋭利で冷淡な目を向けた。
「そう取ってもらっても構わないよ」
「……」
 彼女は、動くことができなかった。乱れた髪の毛に気付く余裕もない。ハミルの目には笑いながら走り回る子供の顔だけが浮かんでいた。
「さあ、総長。会議の時間はとっくに過ぎているよ、早く行ってあげなさい」
 ハミルは腕の力だけを頼りに立ち上がると、覚束ない足取りでドアの向こうに消えていった。開け放たれたままのドアがゆっくりと揺れている。
 シェブリーは、粘り付くような笑いを浮かべてドアに向かい、ステッキでドアを突いた。そして、ドアが閉まるのを確認すると近くの受話器から交換手を呼び出した。
「シェブリーだが、バルム君に繋いでくれ給え。うん、そう考古学委員長のバルム君だ」
 暫く待つと受話器の向こうでバルムの声がした。
(はい、バルムです)
「私だ。シェブリーだ」
(シェブリー総長、会議の方は終わられましたか?)
「ああ、今終わったところだよ」
(ハミル総長は何と?)
「人間には弱点があるものだが、どうやら彼女にもそれがあったらしいね」
(では、うまくいったのですね?)
「真っ青な顔をして、言葉もなかったよ。これで暫くは動けないだろう」
 シェブリーは得意げに話した。
(これで、あなたの勝利は確実ですね。おめでとうございます)
「いや、まだだ。例の件はどうなっているんだ?」
(いえ、まだですが…)
「時間がないのだ。なるべく早く探し出せ」
(お気持ちはよく分かりますが、噂に過ぎないのではないですか?)
「噂であればそれで良い。ただ本当のことならばこれ以上の宣伝はないからね」
(分かりました。しかし私達でさえ難解なものを一目見ただけで解読するなど不可能ですよ)
「私も、そう思うが取り敢えず確かめてくれ給え」
(分かりました、急ぐように伝えておきましょう。では失礼します)
 バルムは気のない返事をして電話を切ると(二年近くも解読できなかった文字だ。(たち)の悪い噂に決まっているさ)と鼻を鳴らした。
 シェブリーが会議室を出ると、廊下の向こうから白髪の大柄な男が歩いてくるのが目に入った。両手で書類を抱えたその男は、顎で書類を押さえるとシェブリーに片手を挙げた。
「やあシェブリー、元気そうだな。大統領選も順調そうで何よりだ」
「ボーリック…偵察かい?、もちろんお前が偵察では力不足だがね」
「偵察?、何か調べられて悪いことでもあるのか?」
「馬鹿な、それより身の振り方でも考えたらどうだ!」
「私はもう歳だよ、どうなっても食べていけるさ」
「それなら、敗戦を待つ必要もないだろう?、あとは俺が上手くやるさ」
「ああ任せたよ。ステッキが折れて転ばないように気をつけるんだぞ」
「ふん、お前のような奴が副大統領とは…、まあ、あの大統領の指名ではそれも仕方ないがね」
「ははは、なるほど」
 ボーリックは、シェブリーの言葉を聞き流すと、軽く手を上げて執務室へ向かって歩き始めた。
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