第47話 講演(准教授)

文字数 5,064文字

 遺跡から戻り、一ヶ月が過ぎようとしている。
 この僅かな間に景色は大きく様変わりした。深い緑色だった木の葉は、その使命を終えたように力なく風に揺れている。やがて訪れる季節のために、なぜか姿を暖色に染めていく。
 特別に開放されたキャンパスには、大学には不似合いな姿も見受けられる。歴史愛好家や報道関係者の姿もあったが、季節の移ろいを楽しむ者は一人もいなかった。すべての人が、ヘッジスの講演だけに興味を持っていた。

 遠くで理事長の声が聞こえる。隣ではリスト教授が目を閉じている。
 壇上に置かれた古い木製の椅子にヘッジスは座っている。彼は、意味もなく体を前後に揺すってみたが、椅子は軋む音さえ立てなかった。
 彼は目を閉じて、この選択について(自分)に問いかけた。
(お前は本当にやりたいのか?)
(やりたいと思っている)
(何がやりたい?)
(もっと、もっと多くのことを知りたい)
(学ぶことは学生でもできるだろう?)
(落ちてくる知識ではなく、落ちている知識を拾い集めてみたいんだ)
(集めてどうする?)
(多くの知らないことが理解できる)
(理解してどうする?)
(多くのことが繋がるだろう)
(繋がればどうなる?)
(更に大きなことが理解できる)
(やりたいことは分かったよ。結局、何が得られるのだ?)
(分からない、でも楽しみなんだ)
(お前にできるのか?)
(お爺さんの言っていたように、それは関係ない。それは人が決める事だ)
(本当にやるのか、ヘッジス?)
(ああ、やってみたいのさ。自信を持って!)
 ヘッジスは、腹の底に力を入れて目を開けた。

 理事長は水を飲み終えると話を続けた。
「それでは、残念ですが退任される教授を紹介しなければなりません。僅か一年ほどの期間でしたが考古学教授としてご活躍頂きましたリスト教授です。なお、リスト教授は退任のあと、国際文化省総長に就任されますことを、ここに併せてご報告させて頂きます。ではリスト教授、お願い致します」
 国際文化省総長の名前に会場は驚きに包まれた。リストは上着のボタンを留め直したあと、隣に座るヘッジスの肩を軽く叩き「お先に」と言って講演台に向った。
「グラント・リストです。皆さんは去る者にそれほどの興味はないはずです。新しく来られる方には大学を良くすることはできますが、去っていく者には難しいことですからね。したがって私から皆さんに言える事は、感謝と願望しかないのです」
 リストは言葉を区切ると集まった学生や関係者の顔を見た。
「ここに学び、輝いている皆さんが否応なくこれからの世界を支え、そして変えていくのです。皆さん全員に、自分にしかできないことがあります。その個性でこの世界を素晴らしいものに変えていってください。常に間断のない努力を期待しています。皆さん、短い間でしたが感謝しています。私は、ジプト大学を忘れません。ありがとう」
 リストは、軽く手を挙げて拍手に応えた。彼は、懐かしげに教室を見回したあと、理事長と入れ替わるように席に戻った。そして「簡単過ぎたかな」と笑いながらヘッジスに声をかけて上着のボタンを外した。
「リスト教授、短い間でしたが有難うございました。教授には、僅か一年程の間に当大学に傑出した一人の学生、カフル・ヘッジス君を育てて頂きました。心から感謝致します。彼には一時期、悲しい誤解により退学と言う憂いを経験させてしまいましたが、リスト教授のご努力のおかげで救って頂きました。大学としても心より感謝しております」
 理事長はリストに向かい、改めて頭を深く下げたあと、話を続けた。
「さて、皆さんは歴史の書の講演を楽しみに来られていると思います。しかし、講演の前に、どうしてもお伝えしたいことがあります」
 理事長は少し笑みを浮かべ、横に座っているヘッジスを見ながら言葉を続けた。
「ここにおります当大学のカフル・ヘッジス君は、今般の解読の功績により、あの国際考古学委員会の客員として指名を受けているのです。当大学としても歓喜に堪えません」
 聴衆から大きな驚きの声が上がった。カメラを持った報道関係者は驚きながらも、忘れずにヘッジスにフラッシュを浴びせかけた。ヘッジスは目を閉じた。
 フラッシュの音が消えると、理事長は大きな声を上げた。
「そして、もう一つお伝えしたいことがあります」
 理事長はリストを振り向き、意味ありげな笑いを浮かべた。リストも眉を持ち上げてそれに応えた。
「今般、リスト教授がご退任されますので考古学の教鞭を取って頂く方がおりません。この場を借りてリスト教授に代わる新しい准教授を紹介させて頂きます」
 聴衆は、誰が現れるのか講演台の左右を凝視した。理事長は構わずに話を続ける。
「新しい准教授は先日まで当大学の学生でした。彼の在学中の成績、考古学における造詣の深さは当然のことですが、最古の文献・歴史の書の解読において更にその卓越した能力が高く評価されています。就任につきましては、各方面からの推薦もあり、誠に異例のことですが、准教授への就任をお願いしたいと思います。彼が、考古学委員会客員、そして当大学の准教授としてその能力を遺憾なく発揮することに疑う余地はないでしょう。それでは、カフル・ヘッジス准教授を紹介致します」
 ヘッジスの名前を聞いて会場は大きくどよめいた。ヘッジスの准教授就任は、誰も想像すらしていなかったのだ。学生達は講演台の横に座っているヘッジスに目を向け、理事長の発言を疑っていた。
(あの、ヘッジスが…本当かよ!)
(あいつが准教授?)
 学生達は、誰彼なく隣に座った友人と驚きを共有しようとしたが、どの驚きもヘッジスの衝撃の比ではなかった。ヘッジス自身が、理事長を見つめていた。理事長の話は彼にとって、あまりにも大き過ぎる驚きだった。
(准教授⁉)
 ヘッジスは、混乱に朦朧となりながらリストの方へ首を捻った。リストは戯けたように肩を(すぼ)め、小さな笑いを返しただけだった。
「それでは、ヘッジス准教授、お願いいたします」
 ヘッジスは、理事長の促す言葉に、意識もなくただ立ち上がった。講演台に向かう姿は、滑るように歩く夢遊病者のようだ。クラメンは、驚きのあまり両手で口を押さえ、その姿を見つめている。
 集まった人々は、目の前に立った若い男を凝視した。考古学会の天才と噂されるカフル・ヘッジスを凝視した。そして、初めて見る人々は、口々に「あれがカフル・ヘッジスか」と囁いている。ヘッジスには会場を埋め尽くす人達の声が聞こえない。
 それでも、彼は講演台の前に立たざるを得なかった。
「カ…カフル・ヘッジスです」
 ヘッジスは、自分の口から出た声に驚いた。その乾いて裏返った声に、自分の耳を疑った。大きく深呼吸してみたが、混迷する頭は簡単には言うことを聞いてくれない。全身が脈打ち、血液を頭に押し上げる。顔が浮腫(むく)んでいる感覚がする。目の前では聴衆が歪んで波打っている。数百の目はただ一人、自分だけを見つめていた。
 今までは背中を丸め、足許に目を落とすことで逃げてきた。彼は今、逃れられない視線の中で何をどうすべきか見当が付かなかった。唇が少し震えている。それでも彼は必死に耐え、口を開いた。
「カフル・ヘッジスです…。あの僕…」
 雲の上を歩くような感覚の中で、ヘッジスが言葉を続けようとしたとき、一人の学生が大きな声を上げた。
「反対!」
 人々の目は勢いよく立ちあがった学生に集まった。学生は、隣に座る数人の学生をかき分けながら通路に出ると講演台の真下まで大股で歩いた。
「退学になったお前が准教授なんて絶対に反対だ!」
 理事長は慌てて学生に歩みより、周りを気にしながら「カーロン君、決定したことなんだ」と小声で囁いた。
 カーロンは、理事長の言葉を無視して後ろにいる学生達を振り返った。
「お前達、こんな准教授の講義を受けたい奴は立ってみろ!」
 学生達は歪んだ顔で叫ぶカーロンから目を逸らしている。報道関係者らは、何事かと、ただ事の成り行きを見守っていた。
「やめとけよ、馬鹿ヘッジス!」
 ヘッジスは、カーロンを凝視した。ただ凝視した。体が細かく震え始める。この震えは、今までのように恐怖からくるものではない。
 彼を支配していた緊張と混乱は、湧き上がり始めた別の感情にゆっくりと押しやられ始める。その怒りと言う名の凍える感情は、羽根が揺れ落ちるように静かに、そして確実に緊張を別のものに変えていった。
 心の底の箱蓋が静かに開き始める。もう自分にも止めることはできない。隙間から氷の中の少女が、湧き出るように舞い現れる。(たお)やかに髪を靡かせ、喜んでいるようだ。彼女は、暫くの間ヘッジスに(まと)わりついて戯れていたが、瞳のない顔に微笑を湛えたまま、ゆっくりと霧消していった。
 箱蓋はもう完全に開かれた。自分の姿が現れる。人の目を見ず、背中を丸めて足許を見ている。蔑まれても笑っている。そのすべてを忘れようと(もが)いている。
 そして、カーロンの姿が現れる。見下げたように笑うカーロンの目。理不尽に人を嘲り、殴りかかる血走った目があった。そして、やがてそれも薄れて去っていった。体の震えは止まっていた。もう、箱の中には希望さえも残っていない。
 ヘッジスの目からすべての幻影は完全に消え失せ、騒ぎまわるカーロンを冷めた目で見つめている。
「私は講義を受けてみたいわ、カーロン!」
 最前列に座っていたクラメンが立ち上がりカーロンを睨んで叫んだ。隣に座っていたエンヤ婆さんは、その声の大きさに驚いてクラメンを見上げた。
 カーロンは、もう一度うしろの学生達を確認するとクラメンに向かい言い放った。
「見てみろよ、こんな奴に教えて欲しいなんて思っているのは、お前だけさ!」
「違うわ、皆んなはあなたが怖いのよ。それだけのことよ!」
 カーロンは(どうしようもない)とでも言いたげに首を振ると、ヘッジスに向って言った。
「おい、馬鹿ヘッジス!、お前には似合わないさ、やめちまえ!」
 ヘッジスは身動きせず、静かな目でカーロンを見ている。
「馬鹿ヘッジス?、カーロン、それは僕の事かい?」
「お前以外に馬鹿ヘッジスがいるか?、退学ヘッジスと言った方が分かりやすいか?」
「……」
「お前の准教授なんて誰も望んでいないんだ、さっさと引っ込めよ馬鹿ヘッジス!」
 ヘッジスは、講演台を降りてゆっくりとカーロンの側に寄っていった。そして、頭の中を巡る幾つもの言葉の中から最も適当なものを見つけ出した。
「デラ教授のブレスレットを盗んだのは君らしいね、カーロン?」
 学生達は知っていても口にしてはならない事実を耳にして、一瞬にして凍りついた。それは、理事長を初めとする関係者も同じだった。
 カーロンは、予期していなかった言葉に目を血走らせ、顔を真っ赤にして食ってかかった。
「だ、誰が盗んだって?、詰まらないことを言うもんじゃないぜ!」
 ヘッジスの頭の中を再び苦悩の日々が巡り始める。そのほとんどの記憶の中には、目の前のカーロンがいた。ヘッジスは目を閉じた。そして、再び開かれた目は深く沈み込んだ怒りの色を見せている。
「盗んだのは君だと言ったんだが、聞こえなかったのか?」
「なんだと、この野郎!」
 カーロンは顔を一層真っ赤に染めてヘッジスに詰め寄った。
「いつもの君なら、もう殴りかかっているところだが、どうした?、人前では恥ずかしいのかい?」
「お前なんか殴っても何の役にも立たないさ!、けっ、馬鹿ヘッジスが!」
 ヘッジスは、カーロンを正面に見据えたまま大きく息を吐いた。
「僕は君のせいで退学になったんだ。それじゃあ、僕がやらせてもらうよ」
 ヘッジスは少し腰を落とすと、右肩を引いた。そして、大きな唸り声を上げながら固く握り締めた拳を力一杯に振り抜いた。
 次の瞬間、腹を突き上げられたカーロンは一瞬宙に浮き上がった。そして、腰を机に強くぶつけたあと、ボールのように転がり通路に倒れ込んだ。カーロンは腹を押さえ、うめき声を上げながら、苦痛と放心の混ざり合った顔でヘッジスを見上げていた。
 時間が止まった。
 学生達と関係者は目の前で起こったことが信じられず、誰もが驚きに目を見張っている。そして、誰もが胸がすく思いを感じていた。一人が小さな拍手を始めると、堰を切ったように拍手と喚声が教室の中に沸き起こった。
 すべての学生が今までの不満を解消しようとヘッジスに向かって大きな拍手を送っていた。
 拍手の音の中から、誰かの叫びが聞こえる。
「いいぞ!、ヘッジス!」
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