第 8話 亜種

文字数 2,452文字

「ヘッジス、昨日はごめんね。余計なこと言っちゃって」
 ヘッジスは目の前に立ったクラメンを避けるように背後に回ると、教室へ続く階段を急いだ。そして歩きながら自分の名前の載っている掲示物の前では目を伏せた。
「ヘッジス、待ってよ。怒っているの?」
 腕を掴まれ、見つめられたヘッジスは言葉に詰まって「あ、あ…」と奇妙な声を出した。そして、見る当てのないものを探して目を泳がせた。
「怒っているのかどうか聞いているのよ」
「べ、べ…別に…」
「別にって、完全に私を避けているじゃないの」
「か…風邪…風邪をひいたんだ。昨日、ひど…い熱が出たんだ。うん、そうだ」
 クラメンは、逃げる間も与えずヘッジスの額に手を当てると「そうかしら?」と疑うように下から覗きこんだ。
「も…もう、大丈夫さ」
 ヘッジスは動揺し、慌ててクラメンの手から逃れた。そして彼女の目の中に、またあの情けない自分の姿が浮かび上がるのを感じて目を逸らした。彼は、この動揺がそのせいだけではないことを知っていたが、それが何なのかは分からないことにした。
「そう、それじゃあ教室に行きましょ。今日は隣に座るのよ」
 クラメンは腕を掴んだままの格好で教室へ歩き始めた。すれ違う学生が意外な組み合わせに驚いて何事か囁き合っている。しかし、一番驚いていたのは腕を取られて真っ赤な顔をしたヘッジスだった。
「ヘッジス!」
 髪の長い学生が二人を見つけて、冷やかすようにヘッジスを呼んだ。その男は大学には場違いな黒皮のコートを着込み、下から派手な色のズボンを覗かせている。
「や...やあ、カーロン」
 ヘッジスは目を避けながら返事をした。
「おや、そこにいるのはクラメンじゃないか?」
 カーロンはヘッジスのことを無視して意味ありげな声をかけた。クラメンは相手にせず、馬鹿にした口調で答えた。
「それがどうかしたの?、カーロン」
「クラメン、今日の帰りに食事に付き合えよ。旨い物を食わしてやるぜ」
「あなた、何度言えば分かるの?、何度誘われても嫌なものは嫌なの。それに今日はヘッジスと帰るのよ!」
 クラメンは、眉間に皺を寄せて嫌そうに首を振った。カーロンは、髪を掻き上げながら舌打ちするとヘッジスに目をやった。そして片方の唇を吊り上げた。
「ヘッジス、お前は骨董品でも触っていろ!」
「…」
「ほっときなさい。お父さんがいなければ何もできない人なんか」
 クラメンは、俯くヘッジスの腕を強く引っ張ると、急いで廊下を走り始めた。
「急がないとまた、教授に怒鳴られるわよ」

 二人が席に着くとすぐに教授が現れた。デラ教授は、いつもと違い胸を反り返してはいない。彼は、覇気のない顔で音も立てずに資料を教壇に置いた。
「今日まで、私がこの歴史考古学を受け持っていたのだが、大学の方針により来学期から講義が歴史と考古学に分かれることになった。個人的にはこの二つの分野は非常に密接な関係にあると思っている」
 教授は、話を区切ると力なく息を吐き出して話を続けた。
「残念だがこれも致し方ない。来学期からどちらの講義を選択するのか考えておくように」
 教授は、それだけ言うと教科書を開いた。
「では、第一世代から第二世代にかけての途中だったな…」
 ヘッジスは、いつもどおり目を輝かせている。クラメンは、隣に座らせたヘッジスを肘で突いて小さな声で聞いた。
「ねえ、歴史と考古学ですって、ヘッジスはどうするの?」
「い…いや、分からないけど...」
「分からないって、どちらか選ばなきゃならないのよ。どっちにするのよ?」
「今日聞いたばかりだよ、ゆっくり考えるさ」
 クラメンは、真剣に話を聞こうとしないヘッジスに頬を膨らませた。そして、講義の内容を書き取っていノートを悪戯に奪い取ってやった。ヘッジスは「あっ」と言ったが、膨れっ面で睨むクラメンには抗わず、呆れた顔をしてデラ教授の話に耳を傾けた。
 それは不思議なノートだった。教授が黒板に描いたものとは明らかに違っており、自分の興味のためだけにノートが使われている。開いた右のページに疑問がいくつも乱雑な字で書きつけてあった。

□第一世代が第二世代後期のレベルにも劣る根拠は?
□第一世代から第二世代への移行期の人口減少の原因は?

 そして反対のページには、その質問に対するデラ教授の答えが几帳面な文字で書かれてある。

□第一世代の文明レベルについて
 第一世代の遺跡から交通機関の発達を示すものが発見されていないため、第二世代後期以前の文明レベルと考えられている。

□第一世代末期の人口減少について
 第二世代初期の文献「伝承の書」を根拠に人口減少は事実とされているがその原因については不明

□文字の進化について
 発見された最古の文献「伝承の書」以降(少なくとも約十五万年前から)言語・文字に大きな変化は見られない。

「進化?、こんなこと教授言ってた?」
 ノートを指差しながらクラメンはヘッジスを見た。
「いや、ちょっと図書館で調べて見たんだ」
 クラメンがページをめくると左ページの余白に小さな文字で〈言語に亜種はあるのか?〉と書かれていた。
「何なのこれ?」
「な…何でもないよ。何となく書いてみただけだよ」
「嘘ね。あなたが、意味ないこと書くはずないじゃない、教えてよ」
 彼は、クラメンの瞳の中に負け犬ヘッジスの姿を探したが、それを見つけることはできなかった。目の前には屈託のない顔だけがあった。ヘッジスは、自分を見つめるクラメンに少し頬を緩めた。彼は仕方なさそうに、それでいてとても嬉しそうに口を開いた。
「聞いてもおもしろくないと思うけど、いいの?」
「ええ、ヘッジス先生。お願いします」
 クラメンが戯けて頭を下げる。ヘッジスは教壇をチラチラと見ながら胸を反り、いつもの教授の真似をした。
「ほう。今日は積極的だね。はち切れんばかりのやる気が君の胸に表れているよ」
 クラメンは、大きな声で笑いたくなるのを口を押さえて我慢した。
「ヘッジスったら、案外おもしろいのね」
 そう言うとまた笑いに耐え、肩を震わせ続けていた。
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