第30話 展示会

文字数 4,668文字

 玄関を出ると、今まで膚を刺していた風は(ぬる)んでいた。雪は木の根元周りから丸く融け始め、残された雪は土埃にその表面を汚している。道にはもう雪はなく、乾いた春の道には小さな芽が顔を出し始めていた。
 ヘッジスが、いつものジャンパー姿で歩いていると、すれ違った子供が後ろから声を投げ付けた。
「泥棒ヘッジス!」
 彼が振り返ると、数人の子供が奇声をあげながら弾かれたように逃げていった。子供達は、物陰からヘッジスの動きを伺っているようだ。ヘッジスは、子供達の隠れている辺りに向かって大きな声で叫んだ。
「おーい、僕は泥棒なんてしてないよ」
 彼は、背中を丸めるともう一度「泥棒じゃあないんだ」と悲しげに呟いた。停学になって三ヶ月の月日が過ぎていたが、彼の無実を証明するものは何一つ現れてはいなかった。

 ヘッジスは、坂道の途中でクラメンを見つけた。彼女は明るい薄桃色のカーディガンを身に纏い、その姿はとても輝いて見える。彼は暫く立ち止まり目を奪われていた。
「やあ、クラメン、お早よう」
 クラメンは、朝日を背にした人影がヘッジスだと気付くと笑顔を浮かべた。その笑顔は朝日に照らし出されて、一層輝いて見えた。
「どうしてここまで来たの?」
 待ち合わせは坂の途中の公園だったので、ヘッジスは首を捻った。
「あなたが外に出たくないんじゃないかと思って迎えに来たのよ」
「約束したんだから必ず行くさ、それより教授は?」
 クラメンは、並んで歩きながら坂道の下を指差した。
「ヘッジスは喜ぶぞって、教授はそれが一番楽しみって感じよ」
「僕が喜ぶ?」
 ヘッジスは惚けて見せたが、彼はリストに誘われたときから既に興奮していた。九ヶ月程前に発表された最古の文献が幾つかの都市を巡り、この町へやって来たのだ。
 リストは講義の際に、学生達に見るように勧めたが彼が誘ったのはヘッジスとクラメンだけだった。ヘッジスは、停学中の自分を誘ってくれたリストの気遣いが嬉しくて仕方なかった。
 彼は、停学となってから改めて二人に多くの感謝を感じていた。誰とも話せなかった自分と友達になってくれたクラメン、暖かく見守ってくれるリスト教授。そして彼らは前より増して、多くの優しさを与えてくれている。ヘッジスの心は、信じられないくらいの喜びと失う怖さの間を行き来している。
 公園の木にもたれてリストが立ってこっちを見ている。
「お早ようございます、教授」
「やあヘッジス君、お早よう。楽しみかね?」
「ええ、もう胸がわくわくしています」
 ヘッジスは、破顔して戯けてリストに言った。クラメンは眼の端でヘッジスを睨んだ。
「あら、私にはそうは言わなかったけど?」
「ああ、あのときはね」
 ヘッジスがクラメンに笑いかけると、彼女は怒ってヘッジスの背中を叩いた。
「こら、また喧嘩かい?、君達には困ったものだな。さあ行くよ!」
「ヘッジス、覚えていなさいよ」
 クラメンはそう言うと、先を行くリストの所まで走っていった。
「泥棒ヘッジス!」
 小さな子供が、また遠くから叫んだ。ヘッジスは歩を止め、心配そうに振りかえるリストとクラメンに笑顔を作った。そして、見えない子供に向かって「僕は泥棒なんてしていないよ!」と大きな声で叫んだ。
 リストは、クラメンに目配せをすると何度も頷いた。二人の目にヘッジスは元気そうに映っていた。

 展示会場は、図書館からそう遠くない閑静な場所にあった。いつもは見向きもされない小さな博物館が展示会場に充てられている。
 三人が着いたときには、既に多くの人で溢れていた。辺りでは、近隣の商店が僅かな金にありつこうと即席の店を構えている。話題だけで訪れた客がすべての店に列を作っていた。
 会場の前には博物館の入口を隠すほどの看板が掲げられていた。看板には「最古の文献展示会」と大きな文字で書かれている。その横に意義を謳う小さな文字が書かれているが、誰も読む者はいない。
 リストはその文章の下に刷り出されている一枚の写真を歪んだ顔で凝視した。そこには国際文化総長シェブリーの笑顔が映っていた。
 開館の時間になると博物館の中に人が移動し始め、店の前から人の姿が消えていった。店主らは椅子に腰かけて客が出てくるまで辛抱強く待つことにした。

 三人は、押し合う人混みの中で揉まれたあと、館内に入った。館内は外と変わらず人の波だったが、奥に行くほど人の数は目に見えて減っていった。多くの客が、最古の文献だけに向かって行くからである。そのため三人は、他の展示品をゆっくり見ることができた。
「教授!、本物を初めて見ましたが、これ素晴らしいです!」
 ヘッジスが興奮に目を輝かせて一つの陶器に見入っている。
 リストにとって、この展示会は苦痛だった。彼は考古学委員長のとき、このすべての展示品を何度も見ている。中には彼ら自身が発掘した物も数多くある。しかし彼の最大の苦痛は、彼らを苦しめ、離散させた最古の文献を見ることだった。
 リストの楽しみのすべてはヘッジスだけだった。ヘッジスの輝く顔が何よりも彼を満足させた。
「この黒いお茶碗?、壊れてるじゃない?、こっちの方がいいんじゃないの?」
 クラメンが隣の青い陶器と見比べながらヘッジスに聞いた。
「いや、この白い縞模様は石膏なんだ、壊れた破片を継いでいるのさ。それより陶器の内側をよく見てよ…何て言ったらいいのかな…」
 ヘッジスは両手で忙しく頭を掻きながら言葉を探していた。乱れていた髪が、新しい形に乱れる。
「あっ、夜空みたい!、星みたいに光ってる!」
「そ、そうなんだ。焼き上げている途中で黒い釉薬の上に星が生まれるんだ。その周りが光の加減で…顔を動かして見てよ…ほら周りが瑠璃色に(きら)めいて見えるだろ?」
 興奮して説明するヘッジスを見てリストは笑い、話の続きを引き取った。
「クラメン、青も黒のどちらも素晴らしいんだよ。ただ黒の陶器で壊れていない物は一つも出土されてないだけさ。好き嫌いは人それぞれなんだ」
 クラメンは頷きながら首を傾げ、二つの陶器を見比べていた。
「君はどっちが美しく見える?」
 リストが聞くと、クラメンは青い壷を指差した。
「クラメン、それで良いんだ、自分がいいと感じた方が正解なんだよ。ただ、壊れた黒い陶器の方が国宝なだけさ」
 リストは笑っている。クラメンは「教授、ヘッジスだったら叩いているところですよ」と少し片方の眉を上げた。
 ヘッジスは、もう別の場所で目を輝かせていた。彼は展示品に鼻の先が付くほど近づいて見ていたが、警備員に注意されると恥ずかしそうに白線まで下がっていった。
「クラメン、君は人を見る目もあるようだね」
「やっぱり、馬鹿ヘッジスですね」
 二人は、楽しそうに大きな声で笑った。リストは、頬を赤く染めたヘッジスを見ながら話を続けた。
「でもね、あのデラ教授がこっそり話してくれたんだ。もう彼には考古学で教えることがない、講義の分割は助かったってね。それには私も同じ意見なんだ」

 出口近くに設置された一際目立つ展示室が目に入ってくる。部屋の中央には、四面すべてをガラスに囲まれたケースが立っている。それは、何かのモニュメントを思わせた。天井からは看板が吊り下げられ「二十万年の時を経て蘇る最古の文献」と書かれていた。周りは人で溢れている。
「何なのよあれ?、少しも分からないじゃない」
「まだちゃんと調べられていないのさ」
 不満そうに言う女に、夫らしい男が言い訳をしている。
「あなたがおもしろいって言うから来てみたけど、全然ね!」
 人混みから抜け出して怒ったように出口に向かう女を、男が慌てて追いかけていった。時折、警備員が拡声器を口に当てて大声を出している。
「見られた方は、次の方のために速やかに移動してください!」
 その声を待っていたかのように、不満気な人達がガラスの柱を離れて出口に向かった。そして期待を持った新しい人達と入れ替わる。
 ヘッジス達は、その人の流れの中で少しずつガラスの柱へ近づいていった。前の男が苛立ちながら体を左右に振っている。どうやら早く見たいらしい。隣の親子は、その度に押しやられ、母親が子供を抱いて守っている。
 クラメンは鼻の頭に小さな皺を寄せると、男の膝を後ろから軽く突いてやった。男は突然崩れ落ちたが、倒れる寸前で何とか持ち堪え、驚いた表情で辺りを見回した。ヘッジスは、男に見えないように舌を出すクラメンを見て肩を震わせた。
 警備員の声に前の人垣が流れ、三人の前にガラスの柱が現れた。ガラスの中には、ページをめくられた焦茶色の本がある。透明な糸で固定されているようだ。
 四方から見えるように配慮された四冊は、それぞれに向きを変えて展示されていた。最古の文献は、とても二十万年前の本であるとは思えないくらいの保存状態だったが、それは多くの人にはどうでも良いことだった。取り囲む人達は、それぞれに口喧しく勝手な感想を話している。
 クラメンがリストを見上げて聞いた。
「教授、これがそうなのですか?」
「そうだね、これしか見当たらないようだが…」
 リストは、見慣れていた本を前にして知らない振りをした。それが、発見された十二冊の内の四冊であることに間違いなかった。
「全然意味が分かりませんね。教授、分かりますか?」
「いやあ、分からないね。でも、すぐに専門家が解読してくれるだろう」
 リストは(解けていれば、ここに私はいなかったよ)と思いながらクラメンから目を逸らし、二人から少し離れていったヘッジスに目を向けた。
 忙しく揺れる人混みの中で、彼だけが動かなかった。ただ目を細めて何の感情も表さず、呼吸すら忘れたかのようにただ本を見ている。先程までの興奮は消え失せて微塵もない。
「ヘッジス?」
 クラメンが声をかけたが、彼はそれに反応しなかった。時折誰かに押されて、ただ風に揺れているようだった。目は本を見ているようだったが、ただ遠くを見ているようでもあった。抜け殻のようなヘッジスの肩にクラメンは手を置いた。
 やがて、氷が溶けるようにヘッジスの唇が開かれた。
「わ…我々は…自らが尊重され…自らの自由が守られ…自らの生命が守られる…自らの権利を有す」
「何、それ?」
 クラメンが小首を傾げた。ヘッジスはそれに応えない。不動のまま目を細めて、独り言のように言葉を続けた。
「わ…我々の権利は平等で…その権利を守るための代表者として…」
 リストは、最古の文献から目を離さずに呟くヘッジスを見て、大きく目を見開いた。彼は、ヘッジスの呟きに「嘘だろう…」と声にしたが、それは掠れて誰の耳にも届かなかった。そして小刻みに震える手をヘッジスの肩に乗せると、強引に彼の体を自分に向けさせた。リストは、息を整えようとしたが呼吸も小刻みに震えている。彼は小さな震える声で聞いた。
「よ…読めるのか?」
 ヘッジスは、目を細めたままリストを見つめ返した。そしてゆっくりと、静かに首を縦に振った。
 クラメンの目も大きく開かれている。彼女も震え始めた両手を胸に当てると、同じことを聞いた。
「あ…あなた、読めるの?」
 その言葉は、自分が思った以上に大きく、驚くほどの声となって口から溢れていた。周りの人々は自分達の会話を止め、三人を見つめている。ガラスの柱の周りは、動く者もなく静まり返っていた。その静寂の中で、ヘッジスはクラメンを見つめると、彼女にもゆっくりと頷いた。
 リストが「おお、ヘッジス!」と何度も叫びながら強く彼に抱き付いた。
 警備員が不満そうに拡声器で何か叫んでいる。
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