第38話 鍵

文字数 5,349文字

 キャンパスのざわめきは納まっていなかった。
 学生達は一躍有名になり、数日のうちに汚名を報じられて退学となったヘッジスを笑い者にしていた。大きな出来事のない田舎で、それは格好の話題となっている。
 当初、ヘッジスの解読を知った理事長はカーロン議員を罵り悔しがったが、窃盗の件が新聞に報じられると今度は胸を撫で下ろした。すべては大学の人気と自分の保身のためである。
 ここ数日、キャンパスに若者の華やかさには縁遠い老婆が立っていた。彼女は、終業を告げるベルが鳴る前に現れて、学生が帰って行くのを見守っている。学生達は、不似合いな茜色に唇を染めている老婆を笑い、不思議そうに見ては家路を急いだ。
 今日も老婆はキャンパスにやって来ると縁石に腰をかけてベルの鳴るのを待っていた。彼女は自分の周りの草をむしり、時間を潰している。ベルが鳴り学生達が現れ始めると、ずり落ちた片方の靴下を気怠そうに引き上げて立ち上った。そして、目の前を通る学生達の顔を一人ひとり丹念に見続けている。
 リストは、老婆を見つけると申し訳なさそうに微笑んだ。そして傍らに鞄を置くと、彼女の横に立って通り過ぎる学生達に「さようなら」と挨拶を繰り返した。
「エンヤさん、毎日すみません。ご迷惑をおかけしてしまって」
「なあに、家にいたってあの爺さんと二人ですよ。こっちの方がよっぽど良いねえ」
 エンヤ婆さんは、リストに気を使わせないように戯けて見せた。
「私の頃と、ちっとも変わってないねえ」
「エンヤさんもここを卒業されたのですか?」
「そりゃそうさ、ここいらに大学はここしかないんでね。もちろんヘッジスと違って頭は悪かったがね」
「謙遜ですか?」
 リストは老婆の顔を覗きこんだ。エンヤ婆さんは「私が謙遜なんてするもんかい」と言うと胸を張り、嬉しそうに言葉を続けた。
「だがね、自慢じゃないが私は大学一の美人だって言われていたんだよ。おかしいかい?、だったら爺さんに聞いてみたらいいよ」
「い、いえ。おかしくはありませんが…それではクラメンと同じですね」
 リストは、若い頃のエンヤ婆さんを頭に描こうとしたが、彼女の顔の皺一つも消すことができなかった。
「おや、クラメンもそうなのかい?、こうして見ているけど確かにあの娘より気立ての良い娘は見当たらないね」
「ええ、不思議なくらいに良い娘です」
「でも、選んだ男がヘッジスだよ。私はそれが不思議でならないね」
「ヘッジス君も素晴らしい青年です。私はお似合いだと思いますよ」
「そうかね?」
 エンヤ婆さんは理解できないと言いたげな表情を浮かべたまま、帰っていく学生達に目を移した。
「どうです?」
 リストが、真剣な口調で聞いた。エンヤ婆さんは背伸びして「私がクラメンなら、あの茶色の帽子の男を選ぶね」と一人の学生を指差した。
「エンヤさん!」
 リストは、叱るような口調で言った。エンヤ婆さんは額の前で拝むように両手を合わせると「冗談ですよ、冗談」と謝って見せた。そして、申し訳なさそうに「いないねえ」と呟いた。
「そうですか」
「まあ、何度も言うけど暗かったんでね。自信がないんだよ」
 それから長い間、二人は話しもせずに流れていく学生達を見ていた。
 学生がリストに挨拶をしたので、彼は「気を付けて帰りなさい」と手を振った。これをきっかけに、彼はエンヤ婆さんに声をかけた。
「エンヤさん、今日はこれくらいで帰りましょうか?」
「すまないねえ、力になれなくて…」
「いえ、迷惑をおかけしているのはこちらですから。さあ、帰りましょう」
「毎日毎日、一緒に帰ったら村の人に変な目で見られないかね?」
 エンヤ婆さんは元気のないリストを力付けようと冗談を言った。
「そう見られたら、私達もまだ若いと言うことですよ」
「まだまだクラメンには負けないよ。でも、爺さんが怒るからね」
 エンヤ婆さんが大きな声で笑ったので、リストもつられて笑った。
 二人が校門に足を向けたとき、キャンパスの中から大きな喚声が聞こえた。振り返ると数人の学生が鞄を投げ合い戯れている声だった。一人が自分の鞄を取り戻そうと投げ渡される鞄の後を追いかけている。エンヤ婆さんは自分の若い頃を思い出したのか「変わらないねえ」と言ってその姿を暫く見ていた。リストはエンヤ婆さんの後ろに立つと、頃合いを見計らって「帰りましょうか?」と声をかけた。
 ゆっくりと振り向いたエンヤ婆さんの目が、鋭くリストを見返している。そして乾いた小さな声で呟いた。
「いたよ」
 リストは驚いて、その戯れる数人の男子学生に目を向けた。
「ほれ…今、鞄を受け取ったあいつだよ。髪の毛の長い真中の学生さ」
「ま、間違いありませんか?」
「グラントさん、思い出したよ。絶対に間違いないね」
 エンヤ婆さんは強く言い切った。リストは、エンヤ婆さんに頷くとキャンパスの中に戻っていった。彼は、何人かの学生とぶつかったが見向きもせず、大声で騒ぐその学生だけを睨んで真っすぐに歩いた。エンヤ婆さんはリストの後ろを小走りに付いていく。走る度に鈴の音がしている。
 エンヤ婆さんは、学生達の中にいたクラメンを見つけると走るのを止め「クラメン!」と手を振った。クラメンは、笑顔で手を振り返すと二人に走り寄った。彼女はリストにも声をかけたが、彼は厳しい顔をしたまま何も言わずに通り過ぎていく。
「エンヤさん、教授どうしたの?」
 エンヤ婆さんはニヤッと笑って「秘密だよ」と言うとリストの方を顎でしゃくり、目配せをした。クラメンは、リストの向かう先にいる学生を見ると露骨に嫌な顔をした。
 リストは大声で騒ぎまくる学生の前に立つと心持ち足を踏ん張った。その姿に目を取られ、鞄を受け損ねたその学生はリストを見つめた。この隙に落ちた鞄を取り戻した学生は足早に去っていった。
「リスト教授、何か用ですか?」
 学生は不思議そうに聞いた。腕組みをしたリストは、少し冷静さを失った声を出していた。
「カーロン、ヘッジスを知っているか?」
「知っていますよ、この前まで友達でしたよ。あの有名な泥棒でしょう?」
「そうだ、君の言う泥棒ヘッジスだよ」
 リストは吐き捨てるように言った。カーロンは「奴が何か?」と首を傾けた。
「彼は色々な名前を持っていてね。骨董屋、弱虫、馬鹿、そして泥棒と呼ばれている。しかし、少なくとも泥棒だけは間違いだったらしい」
 カーロンは、リストの言う意味がすぐには理解できないでいる。リストはカーロンを睨んで言葉を続けた。
「彼は泥棒ではないと言ったのだ、実は本当の泥棒が見つかってね」
「ほ、本当の泥棒?、そ…そうですか」
 カーロンは、落ち着きのない眼を取り巻きの学生に向けた。そして「良かったですね」と引き攣った顔で答えた。
「ああ、私もホッとしているよ」
 何事かと足を止めた学生達が耳を傾けている。そして口々に「ヘッジスじゃあないんだって」「ヘッジスに間違いないさ」と無責任なことを囁きあっていた。
 リストはカーロンを見据え、ゆっくりと間を取ったあと、口を開いた。
「君はあの夜、どこにいたのだね?」
「あの夜?」
「そうだ、ヘッジスの家にブレスレットが投げ込まれた夜だよ」
 カーロンはリストの言っている意味を理解すると大きく目を見開いた。
「教授…俺を疑っているのですか?」
 リストは感情を抑えることができず、眉間に皺を寄せて大声を出した。
「疑っているんじゃない。私は君が犯人だと言っているんだ!」
 集まった学生達は、驚きのあまり言葉を失った。学生達は張り詰めた顔でカーロンとリストを見つめている。カーロンは激しく手を振った。
「お、俺じゃない!、俺は…そうだ…あの夜は家にいたんだ!」
「家に?、確かに家にいたのかね…カーロン?」
「ああ、家にいたさ、間違いない!」
 カーロンは冷静さを失い、口から唾を飛ばしながら叫んだ。リストは感情を抑え込み、カーロンを指差して冷やかな声を出した。
「ほう、不思議だねえ。あの夜、君をヘッジスの家の前で見た人がいるんだがね」
「俺を…家の前で…」
 カーロンの顔は青ざめ、中途半端に口をだらしなく開けている。さっきまでカーロンと戯れていた仲間の一人が「カーロン、お前…」と呟きながら彼から一歩退いた。
「嘘だ、そんな所に俺は行ったことがない!、だ…誰が見たって言うんだ!」
 カーロンは、彼を取り囲む人垣を忙しく見回しながら叫んだ。すると、リストの肘の辺りから小さな皺だらけの顔が現れた。
「あんたを見たのは、私じゃよ」
 すべての目がエンヤ婆さんに集まる。カーロンは突然現れた小さなエンヤ婆さんを見下ろして苦々しげに睨み据えた。そして大きな声で叫んだ。
「嘘をつくんじゃない、この婆!」
 エンヤ婆さんはその大声を意に介さず、片方の手でポケットの中の鈴を(もてあそ)んだ。
「あんただよ、間違いない。あんた、あそこに来たのは始めてだろう?」
 エンヤ婆さんは、カーロンを見ながら話を続けた。
「歳を取るとすぐに目が覚めるんでね。あの夜遅くに雪を踏む音がしたんだよ、それで出てみたら誰かが私の家の前にいるんだ。何をしていたと思う?、あんたには教える必要はないね」
 エンヤ婆さんは思い出すのではなく、目を細めてその日のその姿を今見ている。
「あんたは表札に積もった雪を落としていたねえ。そして、坂道を登っていったんだ、私は窓に顔を付けてずっと見ていたよ。あんたは、ヘッジスの家の前で何か一仕事やったあと、坂道を走って降りていったよ。それも、ものすごい勢いでね」
「嘘だ、嘘を言っているんだ!、婆さん寝ぼけていたんじゃあないのか!」
 カーロンは凄い剣幕でエンヤ婆さんに食ってかかった。
「次の日にねえ、私は村中を歩いて聞いて回ったよ、昨日誰か親戚の人でも来ませんでしたかって言ってね。まあ、小さな村だからそんなのあっと言う間だよ。でね、村の皆んなは誰も知らないって言うんだよ」
 カーロンは、エンヤ婆さんの話を聞き終わると一つ大きな深呼吸をした。
 彼は、落ち着きを取り戻すと固まっていた腕組みを解き、エンヤ婆さんを指さした。そして、唇の片方だけを上げて汚い笑いを口元に漂わせた。
「だから、婆さんの夢だって言ってるんだよ。婆さん以外にそいつを見た奴はいないんだろう?、それだけで俺を泥棒だって言うのかい!」
「ヘッジスはブレスレットを届けただけで退学になったんだ。そう騒ぐな」
 リストが冷静な声で遮った。クラメンが、エンヤ婆さんの肩に優しく手を乗せた。エンヤ婆さんは振り向かずその手を軽く叩いた。そして大きな声を上げた。
「私が何のために村中を歩いたか知ってるかい?、あんたは本当の馬鹿だね!」
「馬鹿だと!」
 カーロンはムッとしてエンヤ婆さんを睨み据えた。
「あんたの家には玄関はあるかい?、どんな馬鹿でも玄関くらいは分かると思うけどね…」
「玄関はどこの家にもあるものさ、この呆け婆さんが!」
 カーロンは、眉間に皺を寄せて顔を真っ赤にして叫んだ。
「そうかい、安心したよ…あんた私らの村に来たことはないって言ったね?」
「しつこい婆さんだな、行ったことある訳ないだろう!」
 エンヤ婆さんは「そう言ってもらうと助かるよ」と言うとポケットから(もてあそ)んでいた鈴を取り出した。そして紐を掴んで目の前に吊るし、揺らしてみせた。
「あんた、これ何だと思うね?」
「呆け婆さん、鈴だよ。鈴にしか見えねえよ」
 カーロンは愛想を尽かした声で言った。エンヤ婆さんはニヤッと笑った。
「これでもかい?」
 エンヤ婆さんは、鈴を吊り下げた手を軽く振った。すると掌の中に隠していた物が落ちて鈴と当たり、綺麗な澄んだ音を立てた。エンヤ婆さんが鈴を摘むと、紐で繋がれた鍵がゆっくりと左右に揺れている。カーロンの顔が見る間に色を失っていった。
「これはね、次の朝に私の家の前に落ちていたんだよ。落とした人は困っていると思ってね、それで村中に聞いて回ったんだ。結局、どの家も心当たりはないと言ってたよ」
「……」
「あんた、家に玄関があると言ったね?」
 エンヤ婆さんはいつのまにか大勢になった人垣を嬉しそうに見てから、カーロンに言った。
「これで、あんたの家の玄関が開くかね?」
 誰も口を開こうとしなかった。吊り下げられたままの鍵を風が何度か揺らした。カーロンの長い髪も風に揺れている。風が止むとカーロンの歪んだ口が開いた。
「ふん、ああ…俺だよ。でも、泥棒は馬鹿ヘッジスのままで良かったんだ!」
 クラメンがカーロンを睨んで叫んだ。
「あなたのせいでヘッジスは、苦しんでいるわ!」
「馬鹿は苦しめばいいんだよ!、奴にはそれがお似合いなんだよ!」
「お前は退学だな」
 リストは体中の震えを無理して押さえ込み、冷たく言い放った。
 カーロンは唾を吐き捨てると、薄ら笑いを浮かべてリストを見た。
「教授、親父に言えば何とでもなるんですよ」
 周りを囲む多くの学生は眉間に皺を寄せ、笑いを浮かべるカーロンを冷たく睨んでいた。中には、隠れて「また親父かよ」と揶揄する者もいた。
「おい誰だ、文句があるなら言ってみろ!」
 リストは殴りつけてやりたかったが、大きく息を吐き出して何とかその感情を抑え込んだ。
 リストは、去っていくカーロンを睨みながら理事長室に向かって歩き始めた。
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