第42話 嗚咽

文字数 2,961文字

「クラメン、いるかい?」
 ノックのあと、暫くすると玄関のドアが大きな音を立てて開いた。
「ヘッジス!」
 クラメンは泣き出しそうになりながら玄関を飛び出した。そして、突然目の前に現れたヘッジスの胸に飛び込むと強く抱き締めた。
「どこへ行っていたのよ、心配していたのに!」
「ごめん、本当にごめんね」
 抱き締められたヘッジスは恥ずかしそうに「今からリスト教授の家に行くんだ、一緒に行ってくれるかい?」とクラメンを誘った。

 二階から走って降りてくる大きな足音が聞こえ、二人は目を見合わせた。リストは玄関を開け放つと「ヘッジス!」と大きな声で叫び、嬉しそうに抱きついた。ヘッジスもリストの体を力一杯に抱き締め、震える声を出した。
「教授、ありがとうございました」
 リストは抱き締めたまま「中に入りなさい」と頷いた。クラメンは抱き合う二人の姿に目を潤ませていたが、ヘッジスを招き入れるリストの足許を見て笑顔を浮かべた。
「教授、あの裸足ですが…」
 教授は、「あ、今度は私か…」と照れ笑いを浮かべた。

 クラメンは、湯気の立つカップをヘッジスの前に置いた。
「ヘッジス、心配したわよ、突然消えちゃうんだもの」
 リストは「皆んな、心配していたんだぞ」とクラメンの代わりに怒った振りをしてみせた。ヘッジスは、手に取った珈琲の香りを楽しむのを止めて恥ずかしそうな顔をした。
「逃げました。退学は本当にショックでしたから…」
「どこへ行っていたんだね?」
「ボンデラ遺跡を見に行きました」
「ボンデラ遺跡って何なの?」
 クラメンが首を傾げたので、リストは「講義みたいになるが良いかな?」と笑って言葉を続けた。
「百年ほど前に見つかった最初の遺跡だよ。大きな石を使って造られた建物群でまだ発掘が続いているんだ。しかし、まだ何の施設だったのかもよく分かっていない。それがまた愛好家にとって堪らない魅力なんだよ」
「さすが教授ですね」
「当たり前だ、あれは考古学委員会が発掘を続けているんだ。昔は私もよく行ったものだよ」
 ヘッジスは、何があっても同じように接してくれた二人を嬉しそうに見つめていた。
「でも、私達に何も言わずに逃げるなんて最低ね」
 クラメンが不意に話を戻したのでヘッジスは珈琲を少し噴き出した。
「ごめん…」
 ヘッジスは口の辺りを袖で拭いながら小さな声で謝った。その格好にリストは腹を抱えて笑った。そして、笑いながらクラメンを諭した。
「いいんだよ、逃げていいんだ。どうしても絶えられない時は逃げれば良いのさ、自分より大事な物なんて多くはないからね」
 ヘッジスは、不満気なクラメンに「もう逃げないよ」と言うと、真面目な顔でリストを見た。
「教授、…ありがとうございました」
「ブレスレットの件かね、ヘッジス君?」
「ええ、昨日新聞を読みました」
「昨日?」
「すみません。教授にはいつも助けて頂いてばかりで…なんて言ったら良いのか…」
 リストはゆっくりと首を振ってヘッジスの話を遮った。
「残念だが、君を助けたのは私ではないんだよ。エンヤさんなんだ」
 ヘッジスは驚きの目をリストに向けたあと、クラメンに移した。クラメンはゆっくりと頷いた。
「エ…エンヤさんが、僕を…」
「ああ、そうだ。犯人を見つけるまで何日もキャンパスに立ってくれたんだよ」
「あのエンヤさんが…」
 クラメンは、驚いているヘッジスに頷きながら「教授も一緒に立っていてくれたのよ」と言葉を添えた。
「君に見せたかったね、エンヤ婆さんはカーロンに対して一歩も引かずに、実に堂々としたものだった」
 リストは昔を思い出すように頬を緩めた。
「カーロン?」
「ヘッジス、犯人はカーロンだったのよ。結局、お父さんが揉み消してしまったけどね」
 クラメンは口の端を曲げて悔しそうに言った。ヘッジスはクラメンの言葉に頷くと「犯人なんてどうでもいいさ」と呟いた。
「教授、エンヤさんには帰りにお礼に伺います。でも、教授にもしっかりとお礼を言わせてください」
 ヘッジスはそう言うと椅子から立ち上がり、リストに向って長い間、深々と頭を下げ続けた。リストは、ヘッジスに優しい声をかけてやった。
「ヘッジス君、助けられるのには理由がある。それが君の中にあるんだよ。もうそれくらいで良いだろう、さあ座りなさい」
 ヘッジスは、リストのカップが空になっていることに気付くと、「今度は僕が淹れてきます」と言って奥に消えていった。
「教授、あれでもお礼のつもりなんですよ」
 クラメンは、ヘッジスに聞こえないように小さな声で囁いた。リストはクラメンを見て微笑むと奥のヘッジスに向って大きな声を出した。
「ヘッジス君、美味しい珈琲を頼むよ!」
「はい、分かりました!」
 奥からは今までに聞いた事のない元気な声が返ってきた。その声に、二人は戯けた顔で向き合い、大きな声で笑った。
「彼は本当に不思議な人間だ。なぜか手を差し伸べたくなってしまうよ」
 クラメンは、リストの言葉を聞きながら珈琲を淹れるヘッジスの背中を見つめていた。
「教授、ヘッジスは逞しくなりましたね」
「私も嬉しいよ。彼の中に自信が生まれたんだ。いろんなことがあったからね」
 クラメンは、リストの言葉に目が潤むのを隠そうと話を変えた。
「教授、ヘッジスの復学はどうなっているのですか?」
「ああ…まあ、そう急ぐ事もないだろう」
 リストは言葉を濁して意味あり気に微笑んだ。

「なんだい帰って来たのかい。何か用かい?」
 ドアが開き、エンヤ婆さんが顔を覗かせた。中から何かを炊く良い匂いが漂ってくる。
「あ…あの、リスト教授…グラントさんから聞きました…」
「何を?」
 エンヤ婆さんは腰に下げた手拭を両手で揉みながら不機嫌そうに言った。
「グラントさんと一緒に犯人を…」
「ああ、礼には及ばないよ、あんたのためじゃないさ。気にしないでおくれ!」
 エンヤ婆さんはヘッジスの話を遮ると口早に言って話を続けた。
「この村から泥棒なんて出したくないからね!、それで仕方なくやったんだよ」
 ヘッジスは、悪態をつくエンヤ婆さんの顔を見て「ありがとうございました」と頭を下げた。彼にできる精一杯の感謝だった。
「けっ、あ…あんたにそう言われると体中が痒くなっちまうよ。それよりグラントさんとクラメンにはちゃんとお礼を言ったかい?」
 ヘッジスが「はい」と言うと、エンヤ婆さんは頷いた。
「そうかい、お前は良い友達を持ったね」
 エンヤ婆さんは、自分の言葉に気恥ずかしくなったのか家の奥に目をやり、顔を逸らした。
「すまないが爺さんの晩御飯の用意で手が離せないんでね、これで失礼するよ」
 忙しく閉められたドアに向かい、ヘッジスは頭を下げ続けていた。ドアの向こうから咳払いに続いて、エンヤ婆さんの(こも)った声が聞こえた。
「今度、またケーキを焼くからクラメンと一緒に食べにおいで」
「は…はい」
「腕によりをかけて焼いてやるよ」
「あ…ありがとうございます」
 ヘッジスの体は少し震えている。エンヤ婆さんは、少し間を置いてドアに向かい、優しく小さな声で言った。
「ヘッジス…辛かったね」
 ヘッジスは、応えようとしたが湧き上がる嗚咽と震えで、何も言葉にすることができなかった。彼は台所に向かう足音を聞きながら、もう一度ドアに向って深く頭を下げた。涙が鼻先を伝って足許に落ち続けていた。
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