第13話 恋人

文字数 5,714文字

「越して来たばかりですが、彼の家なら分かりますよ。お友達ですか?」
 表札を入れ替えていた男は、気さくに返事を返してくれた。僅かに白髪が混じっている。クラメンは戸惑いながら「ええ」と答えた。
「私も一緒に行きましょう。すぐそこだから大丈夫ですよ」
 作業着の男は、外した手袋で雪を払いながら遠慮するクラメンに手を振った。そして、少し胸を張ると、背すじを伸ばして歩き始めた。クラメンは、その姿に(作業着を着た紳士だ)と思った。
「あまり見かけませんが、彼はいつも家にいるのですか?」
 男は、クラメンに問いかけた。
「ええ、呆れるほどずっといます」
「ほう、ヘッジス君は家で何を?」
「彼は、歴史や考古学が好きなんです。だからいつも本を読んだり発掘した陶器なんかを触っているみたいです。信じられないでしょ?」
 男は少し驚き、頷きながら嬉しそうな顔をした。
「ほう、若い人にしては珍しいが、私にはその気持ちがよく分かりますよ」
「そうですか?、でもそのために彼は皆に変人って言われていますけど…」
 クラメンの半分怒ったような口調に、男は目尻に皺を寄せて笑った。
「変人ねえ。私にはそうは見えませんがね」
「ええ、本当は素敵な人なんですよ」
 クラメンは、言った後に口を押さえると顔を赤らめた。男はその仕草を見て、また嬉しそうに笑った。
 少し歩くと男は「あれがヘッジス君の家ですよ」と言いながら白壁の家を指差した。
 雪帽子を被った幾つかの家が細い小川に隔てられて並び立っていた。家同士は、適度な距離を保っている。その間にある小さな雪の膨らみは、どうやら背の低い木のようだ。男の指差した家の周りだけが雪が積もったままである。
 クラメンは想像もしていなかった立派な家に驚いていた。
 雪を踏む二人の足音に、側の小川で洗い物をしていた老婆が首をもたげた。そして何者かと聞きたげな顔を二人に向けた。
 男は、帽子を取ると腰の曲がりかけた老婆に声をかけた。
「エンヤさん、こんにちは。寒いですね」
「ここの寒さはこんなもんじゃないよ、まだまだこれから寒くなるよ」
 着膨れしたエンヤ婆さんは、水仕事で赤くなった手を服の裾で拭いた。
「で、グラントさん。こりゃまた綺麗な方をお連れで…娘さんですか?」
「はは、それなら幸せなのですがね。実はヘッジス君のお友達なのですよ」
「ヘ…ヘッジスの友達!、ヘッジスってあの家のヘッジスのかい?」
 エンヤ婆さんは驚いて目を白黒させ、クラメンを見つめ直した。
「はい。こんにちは、お婆さん」
 クラメンは愛想よく頭を下げた。エンヤ婆さんは、軽く相槌を打つと、頭の中でクラメンとヘッジスを並べて見たが、何度やってもそれは不釣り合いなことだった。
 エンヤ婆さんは、気を取り直すと「本当にあのヘッジスかい?」ともう一度クラメンに尋ねた。そして、歩き始めたクラメンを取り憑かれたように見送っていた。
 婆さんは、クラメン達が玄関を叩く音で我に返ると、弾かれたように自分の家の中に駈け込んだ。
「じ…爺さん、馬鹿ヘッジスの家に何とまあ綺麗な娘が入っていったよ!」
 その言葉に、爺さんはお茶を噴き出して咳き込んだ。

 冬休みの間、ヘッジスは外に出なくなったが、それは雪のせいではない。彼は黒表紙の本の虜となり、それが彼の生活のほとんどを占めていた。
 読もうとすればするほど分からなくなっていった。そして分からなくなるほど、それは彼を惹きつける。ヘッジスは(簡単なパズルじゃないのか?)と首を捻ってみせるが、本当は楽しくて仕方ないことだった。
 彼は、夢中で言葉を探した。分厚い辞書を捲った。まだ自分の知らない言葉を覚えては、黒表紙の本の文字列と突き合わせる作業を繰り返した。しかし、近い単語はあっても数文字に過ぎず、またそれは全く意味をなさなかった。
 彼は、すべてのページを調べ終えるのに三ヶ月の時間を費やしていた。冬休みは、既に一ヶ月過ぎている。
(やっぱり、分からない。また、だめか)
 ヘッジスはいつも、そして今日も落胆していた。別の方法を探さなければならなかったが、もう頭の中に選択肢はなかった。彼は、辞書を放り投げるとベッドに横になった。目を閉じると無意識の内にまた文字を追い始める。たが、それは玄関先の声で遮られた。
「ヘッジス、ヘッジス」
 窓を開けて玄関を見ると、クラメンと男が立っていた。窓を開けた拍子に落ちた雪がクラメンの肩に当たった。彼女は上を見上げると鼻の頭に皺を寄せて少し怒った振りをした。
「ご…ごめん、クラメン。でも、そんな所に立っていたら氷柱(つらら)で怪我をするよ」
 ヘッジスの言葉にクラメンは屋根を見上げ、そこから垂れ下がる透明で鋭利な氷柱に目をやった。そしてゆっくりと後ずさりした。
「やあ、ヘッジス君」
「あ、グ…グラントさん。こんにちは」
 ヘッジスはグラントに丁寧に挨拶をした。図書館の前で彼を助けてくれた男がこのグラントだった。彼は嬉しそうにクラメンの横で手を振っていた。
 ヘッジスは「すぐ降ります」と言うのと同時に階段を駆け降りた。
「こんにちは、ヘッジス」
 クラメンのご機嫌はもう戻っていた。
「こ…こんにちは、クラメン。きょ…今日だったかな?」
「もう、あれほど遊びに行くって言っていたのに忘れてたの?」
「い…いや。忘れていた訳じゃあないんだけど…」
 ヘッジスは、またクラメンの頬が膨らむのを見なければならなかった。グラントが二人を見て笑った。
「会った最初から喧嘩かね?、それじゃあ私は帰らせてもらうよ」
 クラメンは膨れた頬を元通りにすると、グラントに向って丁寧にお礼を伝えた。
「そうだ、クラメン。言い忘れていたけれど…私も素敵だと思うよ。さよなら」
 グラントの颯爽とした後姿を見ながら、ヘッジスはクラメンに問いかけた。
「何が素敵なの?」
「つ…つまらない話よ、何でもないわよ。それよりも寒いんだけど…」
 クラメンは、言葉に詰まりながら慌てて話題を変えた。
「ああ、ごめん。じゃあ中に入る?」
「遊びに来たんだから入るわよ」
「あ…あ、そう」
 ヘッジスは目を泳がせ、意味もなく左腕を擦った。そして玄関を閉めると入って行くクラメンに続いた。
 家に入ると薄暗い奥から大きな塊がゆっくりと彼女に近寄って来た。その塊は、腰を落としたクラメンの匂いを嗅ぎ、心配ないと確信すると彼女の笑顔を舐めまわした。
「可愛い犬ね。名前は?」
「ルベロスだけど、可愛い?、餌をやるときだけ寄って来る犬がかい?」
 クラメンは両手で太い首の辺りを撫でまわした。普段、ヘッジスの言うことを聞かないルベロスは、目を細めて気持ち良さそうな顔をしている。
「ここは寒いけど…部屋へ行くかい?」
 クラメンが頷くとヘッジスは廊下を埋め尽くす骨董品を器用に避けながら、階段に向って歩き始めた。
「すごい。これ全部あなたが集めたの?」
「そうだよ。山に行けばいくらでもあるんだ」
 クラメンは陶器の山に目を丸くしながらヘッジスの後ろを歩いた。その後ろにクラメンの足に体を擦りつけるように歩くルベロスがいる。ルベロスはヘッジスに叱られて、階段の下で二人を見送らなければならなかった。

 暖かいカップを両手で抱えるように持ったクラメンが部屋中を見回した。
「本がたくさんあるのね」
「う…うん、半分は僕のお爺さんの物さ」
 ヘッジスは落ち着かない。彼の部屋に人が訪ねて来るのは初めてのことだったからである。まして、それが女性となると彼の混乱は尋常ではなかった。何事もないように振舞おうとしたが、そう思えば思うほど彼の行動は奇異なものとなっていった。
 彼は、ストーブの前に行くと火を小さくしてからまた元に戻し、意味のない調節を何度も繰り返した。そして、それが終わると、今度は珈琲カップを持ったまま部屋の中を落ち着きなく歩き回っていた。
「ヘッジス、落ち着きなさいよ。何か心配事でもあるの?」
「い…いや、そう見える?」
「見えるわよ、だってさっきから同じ所を行ったり来たりしてるのよ」
「あ…ああ、これは僕の癖なんだ」
「変な癖ね。治したほうか良いわよ」
 あっさりと言われてヘッジスは少し腹を立てたが、クラメンはそれには気付かず机の上に置かれている黒表紙の本を見た。
「これが、あなたの言っていた本なの?」
 ヘッジスは「そう、僕が解読することになっている本さ」と仕返しをした。
「ヘッジス、嫌な言い方をするわね、だから私が悪かったって謝っているじゃない」
「謝られても…突然、馬鹿から天才なったのはこの世界で僕だけじゃないかな?」
「また嫌味な言い方をして!」
「まあ、いいさ。誰も本気にしちゃあいないさ、もちろん僕もだけどね」
「ごめんね…でも、あなたならできるわよ、絶対に!」
 クラメンは、罪悪感を感じながらも本気でヘッジスならできると思っていた。
 ヘッジスは、それには答えずに言い訳を続けるクラメンを見て笑った。彼は緊張感からゆっくり解放されていくのを感じていた。
「で、あなた分かるの?」
 クラメンは、興味がありそうに本をめくった。ヘッジスはお手上げとばかりに肩をすぼめて大きく首を振った。
 ヘッジスが「珈琲は?」と聞くと、クラメンは、軽く首を振って窓際まで歩いていく。そして窓枠に手をかけて外を眺めた。
「まだこれから雪が深くなるのね」
 ヘッジスもクラメンの後ろに立って窓の外に目をやった。クラメンの葦毛色の髪の匂いが心地よく香ってくる。クラメンは、頬に流れている髪を耳にかけ直した。
「ねえ、ヘッジス…」
「何?」
「あの…皆んなは町に遊びに行って楽しんでいるけど、あなたは行かないの?」
 クラメンは、振り返らずに窓枠に指を滑らせた。
「行ったことないよ。外には山と図書館くらいしか出かけないなあ」
「図書館に行って楽しい?」
「ああ、楽しいよ」
「何が楽しいの?」
「何がって…、知らないことが分かるし…」
「あなた、暇なときはないの?、私にはずっと暇そうに見えるけど?」
 クラメンは、ヘッジスを押し退けてテーブルまで引き返すと、音を立てて椅子に腰かけた。
「暇といえばずっと暇だし、忙しいと言えば忙しいような…」
 煮え切らないヘッジスの態度にうんざりしたようにクラメンは言った。
「だから、町に遊びに行かないかって誘ってるのよ!」
 その言葉にヘッジスは驚いて珈琲を喉に詰まらせた。
「ま、町へ?」
「そうよ」
「二人で?」
「そうよ」
「でも、ま…町に出ると…こ…恋人と間違えられる…」
 ヘッジスの目が落ち着きなく泳いでいる。彼はとっさに目を擦り、ありもしない塵を取るのに苦労した。クラメンは笑いを抑え、わざと不思議そうな顔をしてヘッジスに聞いた。
「へえ、二人で町に出ると恋人なの?」
「い…いや。もし、そう思われたら困るだろうと思って…」
 目の塵を取り終えてしまったヘッジスは、また意味もなく左腕を擦った。クラメンは、益々落ち着きをなくすヘッジスを見て意地悪そうに笑った。
「いいじゃない。私は全然平気よ」
「……」
「もしかして、私と歩くのが恥ずかしいんじゃないの?」
「そ、そんなことはないさ」
 ヘッジスは慌てて手を振った。
「じゃあ、いいじゃない」
「あ…ああ、町もいいかもね」
 ヘッジスは大変なことになったと思った。彼は女性と町に出たことがなかったので何をどうしていいのか分からない。少し落ち着きを取り戻した彼は、頭の後ろで手を組んだ。
(服を買っておかないと…)
 組んだ掌が汗をかいている。
「何しているのよ」
「何って…?」
 クラメンは、珍しいものを見るようにヘッジスを眺めている。
「今から行くのよ」
「えっ、今から!、だって、来たばかりじゃないか」
 クラメンは小さなバックを手に取り「場所も分かったし、いつでも来られるわ」と言いながらヘッジスの手を強く引いた。ヘッジスは唖然として、自分の擦り切れかけたセーターに目をやった。

 図書館とは違い、町は華やいでいた。道路の雪は除雪されて歩きやすい。どこからか音楽が流れてくる。店はそれぞれ暖かそうな飾り付けを施して客の入りを待っていた。
 ヘッジスはセーターをジャンパーで隠し、クラメンの後ろを歩いている。クラメンは、ショーウィンドウを覗きこみ「あれが綺麗」「これが可愛い」と値踏みしながら「どう思う?」とヘッジスに聞いた。ヘッジスがその度に首を捻ると彼女は「何とか言いなさいよ」と楽しそうに笑った。
 町は、品の良い老人や着飾った若者達が溢れ、活気に満ちている。店々から流れ出す音楽の華やかさに、ヘッジスもその喧騒が少しずつ好きになっていった。しかし、それはクラメンといるせいだとヘッジスには分かっていた。
 きは、きれいな王妃さま♪
 すは、すてきな王子さま♪
 かは、かわいいお姫さま♪
「懐かしい唄ね」
 両親に手を曳かれた女の子の歌う声にクラメンが聞き入っていた。
「小さい頃によく歌ったのよ、あの歌。私達はお遊戯しながら唄ったのよ」
「僕の田舎にはあんな歌はなかったなあ」
「可愛い唄でしょ?」
 去っていく少女の後姿を見送るヘッジスの顔を覗き込み、クラメンは目を輝かせて嬉しそうに聞いた。
「う、うん。子供の唄だからね」
 ヘッジスは目の前にあるクラメンの顔に戸惑った。彼には自分の顔が少しずつ熱を帯び紅潮していくのが分かった。
「あなたって、何事にも夢がないわね」
「…女性は、何を見ても可愛いって言うからね。基準が分からないんだよ」
「あなたが理解しないだけよ。それよりどこかで暖かい物でも飲みましょうよ」
 ヘッジスは、怒った振りをして足早に歩くクラメンに声をかけた。
「あまり急ぐと、また転ぶよ」
 クラメンは振り返り顔をしかめた。ヘッジスはその姿を見て笑うと、クラメンの後に続いた。
「町もたまにはいいかもね」
 ヘッジスが声をかけると、クラメンはそれには何も答えずに立ち止まった。そしてヘッジスが追いつくのを待って、そっと腕を組んだ。ヘッジスは硬直し、落ち着きなく目だけを動かして回りを確かめた。
 二人とも赤らんだ顔を下に向け、寄り添いながら歩いている。流れる音楽は聞こえない。ただ、自分の脈打つ鼓動の音だけが、忙しく耳に響いていた。
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