第27話 更迭

文字数 5,418文字

 国際氷河観測省は、その対応に追われていた。鳴り止まない電話の受話器のいくつかは、持ち上げられている。国際氷河観測省総長の突然の解任は、少なからず大きな事件として取り上げられた。それは、大統領選以外に大きな話題のない報道陣にとって紙面を埋めるための格好の獲物となっていた。
 大統領執務室では、メデスが額に手を当てて苦悩の表情を浮かべていた。
「隠し通すなどあり得ないし、公表は必然だった…解任以外にあり得ないだろう」
「しかし、あまりにも時期が悪過ぎますね」
 マランド秘書官は溜息をついた。
「シェブリーの人気に拍車をかけてしまったようだね」
「ええ、彼はこの件で大統領のイメージダウンを狙ってくるでしょう」
「そうか…。任命したのは私だからね」
「はい、大統領選を意識して派手に喚き散らすと思います」
 大統領は重たい頭を振ると話題を変えた。
「…で、氷河観測省の方はどうだね?」
「もう収拾がつかない状況です。なにしろ氷河観測省トップの収賄ですから」
「自己の利益のために権力を使う人間の何と多いことか…」
「世の中はそのような人間ばかりです。あなた以外は…ですが」
 秘書官は(おかしいのは、あなたの方だ)と言いたい気持ちを飲み込んだ。
 インターホンが冷たい音を立てたので、大統領はボタンを押した。
「メデスだ。何か用かね?」
「大統領、ハミル・シェスナー議員がお越しですが?」
 受付の言葉に秘書官は大統領に目をやった。
「ハミル?、お約束ですか?」
 大統領は「私が呼んだのだ」と応えると、インターホンに向かい「分かった、通してくれ」と伝えた。
 秘書官は、頭の中でその聞き覚えのある名前を探した。
「ハミル…。あっ、あの科学工学省の癒着を議会で緊急動議したハミル議員てすか?」
「そうだ。彼女は連邦議員の中で問題児として評価されているよ。シェブリーに至っては尻の青い議員だと公言している」
 乾いた音が二つしたあと、すぐに扉が開かれた。短いスカートを着た受付の女は腰をくねらせながら執務室に入り、外にいたハミル・シェスナー議員を中に招き入れた。そして来客がソファーに促されるのを見届けると、大統領に向かい慇懃な礼をして扉の向こうへ消えていった。
 ハミル議員が上着を脱ぐと鬱湿としていた部屋が鮮やかな色に染まった。そこには艶やかな薄い青色のシャツを着こんだ女性が立っていた。
 彼女は、落ち着かない様子で辺りを見回している。そして丁寧な口調で大統領に尋ねた。
「メデス大統領、私に何かご用でしょうか?」
 大統領は、ハミルの質問にすぐには答えようとせずに問い返した。
「ハミル議員、この執務室は初めてかな?」
 彼女は、促されたソファーの肘掛けに上着を置いて座ると、膝まで上がったスカートを上品に直した。
「ええ、大統領執務室なんて新人議員の入っていける場所ではありませんわ」
「新人議員?、君は何年になるのかね?」
「三年になります」
「ほう、ではあの科学工学省の一件は二年目議員の仕業だったと言うことになるね」
 大統領は目を細めて大きな声で笑った。
「あの頃は、少々熱くなっていましたから…、おかげで今でも議会では爪弾きのままです」
「連邦議会の中では…ね」
「……?」
「私は君の行動を高く評価しているよ。結果的に事実を解明できなかったのは残念だが、官僚に対して大きな戒めになったと考えている」
 大統領は、頷きながら話を続けた。
「悲しいかな連邦国民の声はここまで聞こえて来ないが、たぶん彼らも私と同じ気持ちだと思うがね」
 彼女は膝に両手を乗せ、大統領を真っすぐに見つめて嬉しそうに微笑んだ。
「大統領、あなたにそう言って頂けただけで充分です。ありがとうございます」
「ハミル議員、君に一つお願いがあるのだが…」
「何でしょう?」
「実は、私の部下に欠員が出てね。どうだろうハミル議員、私と一緒に働いてくれないかね?」
 マランド秘書官は怪訝な顔で大統領とハミルを見た。
「一緒に働く?、(おっしゃ)っている意味がよく分かりませんが?」
「そうだね、すまない。では単刀直入に言おう。私の下で国際氷河観測省の総長をやってくれないかね?」
 ハミルは、綺麗に描かれた眉を持ち上げ、目を大きく見開いた。隣に立っていた秘書官は、驚きに口を開けたまま大統領の顔を見続けている。
「わ、私が総長ですか!」
「何か不満でもあるのかね、ハミル議員?」
「いえ、光栄なことですが、私のような者が総長では…」
「知ってのとおり前総長は汚職で更迭となった。次の総長には誠実な人物をと考えて君にしたのだ。どうだね、やってくれないか?」
 ハミルは突然に訪れた夢のような話に驚きながらも、冷静に判断しようと努めた。
「ありがとうございます。しかし、議会が承認しますでしょうか?」
 大統領は椅子の背もたれにゆっくりと体を預けた。
「私に任しておき給え。では、承知と思っていいんだね?」
「は…はい、結構です。私でよろしければ...」
 ハミルは、現実とは思えない話の流れに不安と歓喜の混沌の中にいた。
「では、詳細はボーリック副大統領に聞いてくれ。大丈夫、彼にはもう話してある」
「大統領、最後に一つお伺いしたいことがあるのですが」
 ハミルは、頬に垂れてきた髪を耳に掛けながら尋ねた。
「何かね」
「今お話の氷河観測省についてですが、文献発見に関しておかしな風評を耳にしました」
「噂にしか過ぎないが私も聞いている。発見時期の件だね?」
 メデスは秘書官と目配せをした。
「それが、何か問題なのかね?」
「一年半もの間、この事実は隠されていたとのことです。ご存知だったのでは?」
「いや、考古学には全く興味がないのでね。それは大きな問題なのかね?」
「いえ、それだけ確認できれば充分です。では副大統領にご挨拶してきます」
 ハミルは、少し安心した様子で立ち上がると、大統領と秘書官に目礼して部屋を出ていった。ドアが閉まると秘書官が勢いよく口を開いた。
「大統領、正気ですか?、彼女の総長を議会が承認なんてするものですか!」
「総長の任期はいつまでかね、もうすぐ大統領選だと思うが…」
「あっ、大統領の任期と同じですね」
「そうだ、シェブリーはもう勝った気でいる。僅か一ヶ月程の総長職に何も口出しなどしないと思うがね」
「なるほど」
「それに、これはボーリックのアイデアなのだよ」
「副大統領の?」
 大統領は、軽く頷くと独り言のように呟いた。
「彼女は崇高な理想家だ、まだまだ若いがね。取り敢えず前のような騒動を起こしてくれなければいいのだが…」
 秘書官は「私も、そう思います」と言いながら、目の前の大統領と消えていったハミル議員の姿を思い浮かべて小さく首を振った。
(よくもまあ、青臭い政治家を揃えたものだ。副大統領の気が知れないね)

 副大統領の執務室は、三階下のフロアーに配されていた。ハミルはエレベーターの表示板を見て階段で降りることにした。彼女は大統領の言葉に精一杯の冷静さを装っていたが頭の中は全く整理できていなかった。(大変なことになった)と言う思いが次への思考を拒んでいる。階段を蹴るヒールの音が響いている。
 廊下からガラス越しに見える受付には誰もいなかった。古びたタイプライターには打ちかけの紙が挿されて垂れている。彼女は副大統領執務室に続く受付のドアを強くノックした。
 執務室の中から声が聞こえたような気がした。恐る恐るドアを開けると受付と執務室を隔てるドアは中途半端に開けられている。ドアの隙間に向かい「ハミル議員です、副大統領はご在席ですか?」と執務室の中に向かって声をかけた。
「いるよ、入ってきなさい」
 ハミルは、低い声には似合わぬ気さくな口調に少し安堵した。そして(でも拍子抜けだわ)と思いながら執務室に入っていった。
 この部屋は大統領執務室に比べて小さく、何よりも明るさに欠けていた。ハミルは目の動きだけで部屋中を見回した。それだけで事足りる程の広さである。
 副大統領は、机の上に書類を広げて何かを几帳面に書き込んでいる。上着は、椅子の背にかけられ、まくり上げた袖のために太い腕が剥き出しになっている。彼は書類から目を離さずに「えっと、君は…」と言った。
「ハミル・シェスナー議員です。大統領の指示で参りました」
「うん、聞いてるよ」
 ボーリックは「終わった」と呟くと、ペンにキャップをしてハミルを見上げた。そして「すまない、立たせたままだったね」と言いながら椅子に腰かけるように勧めた。
 大統領執務室とは違い、椅子は木製の布張りである。少し固かったがハミルは心地良さを感じた。副大統領の年代物の机を挟み二人は顔を見合わせた。
「あなたが、新総長のハミル・シェスナーさんですね」
 ハミルは軽く会釈をした。
「聞いていたより実にお若い、そして美しいご婦人だ」
 ボーリックは、老人の顔に子供のような笑顔を浮かべて嬉しそうに微笑んだ。
「副大統領がこんなにお上手だとは知りませんでした。滅多に演説を聞く機会がありませんので」
「はは、演説なんて大統領が倒れない限りあるもんじゃない。この口は演説ではなく真実を言うためにあるのだよ」
 ボーリックは低い声で言うと片目を閉じて見せた。
「もったいないですね、大統領になられれば思う存分にその真実を語ることができると思いますが?」
「ほう、連邦国民の前でハミル議員は若くて美しいと言えと?」
 ハミルは目の前の老人が副大統領であることを忘れ、大きな声で笑った。
「人にはそれぞれ得手、不得手があってね。副大統領なんて何もすることがない。大統領に足りないものを少し補うのが仕事といえば仕事だがね」
「副大統領のポストが得手だと?」
「さあね」
 ボーリックは、ハミルに向かってもう一度、片目を閉じて見せた。
 ハミルは、この僅かな会話にボーリックの実直な性格と強い信念を感じ取っていた。その感覚は不思議と懐かしさに変わっていったが、それがなぜなのかは、今の彼女には理解できなかった。
 ハミルは、ボーリックのウインクに笑いを返し終わると、苦心しながら顔を元に戻し、話を本題に移した。
「さきほど大統領から国際氷河観測省総長に任命されました。詳細を副大統領にお聞きするように言われたのですが…」
 ボーリックは口元に笑みを残したまま頷いた。そして目の前の分厚い書類を手に取るとハミルに手渡した。
「氷河観測省の業務内容や事務分掌は、これを読んでもらえれば理解できると思う。違うと感じた部分は訂正しておいたので参考にしてくれるといい。何せ官僚が作った資料だからね」
 ハミルは、受け取った書類のあまりの多さに呆れ果てて顔を左右に振った。
「ははは、実務は君の仕事ではないよ。君には方向性を示すことが求められているのだよ。問題が起きている今こそ…特にね」
 頷いて聞いていたハミルは、「副大統領、国際氷河観測省には、その他にも問題があると聞いていますが?」と聞いた。
「何かね?」
「あの最古の文献の発見時期を故意に遅らせたと噂されています」
「ああ、私も聞いたことがあるが…」
「この件について緘口令が曳かれたと聞いていますし、その時に多額のお金が動いたとも噂されています。副大統領はどうお考えですか?」
「科学工学省の件を思い出すねえ、血が騒ぐかい?」
「ええ、もちろん。一年半もの間、大統領にさえ発見を知らせなかったことからも氷河観測省が何かを画策していたとしか私には考えられないのです。これを期に少し調べてみようかと考えています」
「そうか。しかし、この件には少し慎重に当たる方がいいと思うがね。これにはシェブリーが絡んでいるようなのだ」
「シェブリー?、文化省総長の?」
「そうだ。奴は厄介な男だよ。彼が本気で動けばこの件は跡形もなく消え去る。君に汚名と苦痛を残してね。それに大統領は、この件が選挙戦に逆効果になると考えているよ」
 ハミルは、眉間を寄せてボーリックを強く見つめた。
「副大統領、大統領には申し訳ないのですが、私は選挙戦になど関心がありません。連邦国民に真実を伝えたいだけなのです」
「本気になると痛い目に遭うかも知れないよ、いいのかね?」
 ハミルは「もちろん、慣れていますから」と力強く頷いた。そして、勢いよく立ち上がり「今度は、すべてを明らかにして見せます」と言って足早にドアに向かった。
 ボーリックは、何度か満足そうに頷いたあと、ハミルを呼び止めた。振り向いた彼女に「ハミル、実は君に頼みが…」と言い出したとき、ドアから小太りの老女が現れた。
 大きな紙袋を抱えた老女は、少し驚いた様子で「あら、お客様でしたか、こんにちは」とハミルに挨拶した。そして、副大統領の机まで来ると、その紙袋を放り投げるように机の上に置いた。ボーリックは「すまないね」と笑いながら肩をすぼめた。
「いいのよ、でもそれだけ食べたら体を壊しますよ、ボーリック」
「分かったよ、少しづつ食べるから大丈夫だよ」
 老女は呆れ果てた様子で、ドアの前に立つハミルに向かって「ボーリックの大好物はドーナツなのよ」と困った顔を見せた。そして、ドアに姿を消す前に、もう一度「ボーリック、少しづつ食べるのよ」と人差し指を振りながら念を押した。
 ハミルは、副大統領を呼び捨てにする老女に驚き、呆気にとられてそのやり取りを見ていた。
「あの...副大統領、今の方は?」
 ボーリックは「ああ、私の受付嬢だよ」と言いながらドーナツを咥えた。
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