第12話 解読宣言

文字数 3,630文字

「ヘッジス!」
 鏡を見たときから分かっていた。腫れは思ったほど目立たなかったが、左目が赤く充血している。その下には、既に薄く紫の痣ができている。ヘッジスは、クラメンの質問攻めに合う前に言い訳をした。
「クラメン、昨日の帰りに転んで何かにぶつけたんだ」
「大丈夫なの?」
 クラメンは、ヘッジスの顔の痣を見ながら心配そうに聞いた。
「ああ、ひどく見えるだけさ」
「本当に?」
 ヘッジスは「ああ」と何事もないように応えた。そして辺りを見回し、カーロンの姿がないか伺った。
「誰かを探しているの?」
「い...いや。何でもないんだ」
「ならいいけど。そうそう、明日から冬休みね」
「うん。休みが楽しみだ」
 ヘッジスは表情を変え、心から嬉しそうな顔をみせた。それは、今日さえ乗りきれば三ヶ月の間は、カーロンに会わなくて済むからでもあった。
「大好きな解読ができるから…でしょ?」
「う...うん。そうだよ」
「あれっ、今日は歩いてきたの?」
「ああ、この雪道じゃあもう自転車は使えないよ」
 ヘッジスはそう言ったが、それは足の痛みのせいでもあった。彼は痛みに耐えながら歩いている。
「そうよね、これからもっと積もるものね。あっ、全然関係ないけど講義は決めたの?」
「講義?」
「そうよ、前に教授が言っていたじゃない、歴史か考古学って…忘れたの?」
 ヘッジスは首を傾けたが、すぐにデラ教授の萎れた姿を思い出した。
「あ、ああ、覚えているさ。でもまだ迷っているんだ。君は決まったの?」
「まだよ。どっちにしても得意じゃないし、少し点数の良い歴史の方かなあって思っている程度なの」
 ヘッジスは校門を潜り終えると、すぐに辺りに目を巡らせる。そして、キャンパスから教室の窓に至るまで、丹念に見て一つの顔を探した。
 彼は、教室の一つの窓にカーロンを見つけると、樹木の影に隠れるようにしてクラメンに言い訳をした。
「ごめん、クラメン。大事なことを忘れてたんだ、ちょっと先に教室に行ってるよ。君はゆっくり来ればいい…滑るとこんな顔になっちゃうから…また後でね」
 ヘッジスは、クラメンに話す時間を与えずに一息に喋ると、痛みに耐えながら急いで校舎の方に走っていった。

 クラメンが教室に入ると席はほとんど残っていなかった。ヘッジスは前の方に座っていて、その隣は塞がっている。
 クラメンは(今日はなぜこんなに多いのよ、ヘッジスも席を取っていてくれればいいのに!)と思ったが、仕方なく空いていた一番後ろの席に座った。
 扉の開く音がすると教室のざわめきが止まった。教授が僅かばかりの書類を教壇に置いた。
「お早よう、久しぶりの顔ばかりだな、元気だったかい?」
 滅多に講義に顔を出さない学生達は、教授の厭味に苦笑しながら目を逸らした。
「前にも言ったが来学期からこの講義が歴史と考古学の二つに分かれることになった。今日は君達にそのどちらを選択するのか決めてもらいたい。参考までに、私は歴史学を受け持つことになっている」
「教授、全員が考古学を選択したらどうしますか?」
 学生の現実味のある冗談は、教室が割れるほどの笑いを誘った。
 教授は自信ありげに頷いた。
「その心配はないさ。逆に考古学が一人もいない方を心配しているくらいだよ。なぜって歴史があっての考古学だからな」
「教授、考古学はどの教授が担当されるのですか?」
「まだ、正式に決定していないんだよ。休み開けまでには決まっているだろう。では順番に希望を聞いていくのでどちらか答えるように」
 教授は名簿を見ながら一人ずつ名前を読み上げ、その希望を記入している。教室の中は学生が答える度にどよめきが繰り返されていた。
「えっと、次は…。カーロン」
「はい」
 カーロンは後ろを振り返り、誰かを探しながら返事をした。彼の目がクラメンを捉える前に、デラ教授が声をかけた。
「カーロン!」
「はっ、はい…。れ…歴史でお願いします」
「そうか、カーロン」
 教授は、嬉しそうに声をかけた。カーロンは、それを無視して再び後ろを振り返り、やっと探し当てたクラメンをじっと見ていた。
「次は、ヘッジス」
「は…はい」
「ヘッジス、もっと大きな声で返事をしなさい。お前はいつも...おい、その顔はどうしたんだ」
「あ、じ…自転車で転んで…」
「お前って奴は、だからいつも皆んなに馬鹿にされるんだ」
 教授は、情けないといった素振りで頭を振った。カーロンの取り巻きが嫌味な声で笑って教授の話を引き取った。
「おい、骨董品に看病してもらっていたのかい?」
「……」
「まさか添い寝してもらっていたんじゃあないだろうな、ヘッジス?」
 教授はその言葉を無視し、咳払いをしただけでヘッジスに聞いた。
「で、ヘッジス。お前はどっちを選ぶんだ?」
「こ…こ、考古学を…」
 ヘッジスが答えると調子に乗ったカーロンの取り巻きが「やっぱり骨董品と寝てるんだ!」と騒いだ。
 その言葉に、席を埋め尽くした学生達は無責任に嘲笑(あざわら)った。ヘッジスは、その笑い声の中で背中を丸めて下を向いた。
 クラメンは、ヘッジスを見つめた。そして、ただ無責任に他人を傷つける学生達に目を移すと、机を叩きつけて大きな音を立てた。
 彼女は、教室に響き渡る声で叫んだ。
「あなた達!、人を馬鹿にして楽しいの?、ヘッジスはあなた達よりすごく優秀よ!」
 すべての目が一番後ろの席で立ち上がったクラメンに集まった。カーロンは驚いていたが、冷静を装いクラメンを振り返って聞いた。
「ほう、クラメン。勉強以外にこいつに何ができるっていうんだ?、骨董品と寝ることかい?」
 カーロンの言葉に、また大きな笑いが起こった。クラメンは悔しさに拳を握り締めた。大声で悪態をついてやりたかったが、なんとかそれは我慢した。そして、投げ返してやる言葉を急いで探した。
 しかし、彼女は少し慌て過ぎた。
「カーロン、あなた最古の文献って知っている?」
「は?、当たり前さ、新聞くらい読んでいるよ。それにデラ教授の講義も受けているんでね」
「そう、良かった。それじゃあヘッジスに何ができるかを教えてあげるわ」
 クラメンは、デラ教授とすべての学生をゆっくりと見回してからカーロンを見た。
「あの文献を解読するのはヘッジスよ!、いえ、彼にしかできないと言った方がいいかも知れないわ」
 クラメンの想定外の発言に、教室の時間が止まった。嘘のような静けさが支配している。呼吸の音さえもしない。
 やがて静寂を破り、デラ教授が小さく笑い出すと、それに続いて教室に嬌声と口笛が溢れた。カーロンは、机を叩きながら誰よりも大きな声を出して笑っている。
 ヘッジスは振り返ったまま固まり、クラメンの顔を唖然として見ていた。
 クラメンは、嘲笑にもひるまなかった。
「あなた達、見ていなさい!」
 学生達は、クラメンとヘッジスの顔を見比べ笑い続けていた。デラ教授は、肩を震わせながらも笑いに耐え、手許の名簿に目を移した。
 ほとんどの学生の希望が確認され、残りは数人になっていた。
「よく分かったよクラメン、取り敢えず聞いておこう。それで天才ヘッジス君の選択は考古学で良いのだね、では次の人に行かせてもらうよ」
「次は…クラメン。校内一の人気者にして天才ヘッジスの庇護者、君はどちらを選ぶのだね?」
 カーロンが振り返ってクラメンを見た。ヘッジスだけが、まだ消えた嘲笑の声を聞いていた。そして焦点の合わない眼で机の年輪だけを見ている。
 デラが再び聞いた。
「クラメン、どっちを選ぶんだ?」
 カーロンは唾を飲み込み、僅かな期待を持ってクラメンの回答を待っている。
「考古学を選択します」
 カーロンは、クラメンから自分の拳に目を戻すと歪んだ顔をした。
 教授は、全員の希望を聞き終えるとペン先で音を立て、名簿の数を数え始めた。彼は、二度同じことを繰り返した。
「思ったより考古学も多かったな。あと二人か…二人でうまくいくのだが…」
 独り言のように呟く教授の声に、カーロンは勢いよく立ち上がった。
「教授!、人数が合わないのでしたら私が考古学を選択します」
 カーロンは、クラメンを振り返った。クラメンは、カーロンの視線を無視して顎を窓の方に向けた。
「カーロン君、素晴らしい」
「いいえ、教授がお困りのようだったので…」
「君が優しい男だと言うのが改めて分かったよ。ありがとう」
「それでは、考古学でいいんですね?」
 嬉しそうに聞くカーロンに、教授は感謝に満ちた目を向けた。
「いや、君には歴史を選択してもらおう。なぜなら、二人少ないのは歴史の方なんだ」
 教室は、再び大きな笑いに包まれた。遠慮気味な指笛も聞こえる。カーロンは苦々しく顔を歪めて、デラ教授を睨み続けていた。
 彼は(デラの野郎!)と腹の中で吠えていた。
 ヘッジスは自分の話題が忘れ去られたことに安堵していた。そして、カーロンが笑われていることに心が少し軽くなるのを感じていた。ただ本当に心を軽くしているのは、明日から始まる冬休みのせいだと分かっていた。
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