第11話 カーロン

文字数 3,079文字

 ヘッジスはクラメンと分かれると、図書館へ向かった。彼は、本棚に並べられた本の背表紙に長い時間をかけて目を走らせた。しかし目的の本は見つからず、そのすべては徒労に終わっていた。
 沈み込んだ気分で図書館を出ると、もう薄暗く雪が降り始めている。
「おい、ヘッジス!」
 不意の声にヘッジスは驚いて振りかえった。呼び止めた男は街燈を背にしていたため良く見えなかったが、男のコートには見覚えがあった。趣味の悪い黒いコートは、紛れもなくカーロンの物だった。
 近寄ってきたカーロンの後ろに、いつもの学生が二人いる。彼らはヘッジスを見てただ笑っていた。カーロンのガムを噛む音が汚く耳に届いた。
「今、帰りかい?ヘッジス」
「う...うん。今から…か…帰るところなんだ」
「へへへ、何をそんなに緊張してるんだ?」
「べ…別に…」
「俺ともクラメンと話すみたいに普通に話してもらいたいね」
「……」
 取り巻きの一人がカーロンの前に現れて、足許のシャーベット状の雪をヘッジスに蹴りつけた。
「何とか言ったらどうなんだい、ヘッジス!」
 ヘッジスは、足に張りついた雪がゆっくりと垂れ落ちていくのを黙って見続けている。
「おい、ヘッジス。最近クラメンと仲が良すぎるんじゃないか?」
「そ…そんなことは…ないよ」
「教室でも、帰るときだって一緒だろう」
「……」
「お前、知っているのか?、クラメンはカーロンの女だってことをさ」
「い…いや」
「何!、学校の誰もが知っていることだぜ、おい変人!」
 学生は、ヘッジスに近寄ると肩を鷲掴みにして捻り上げた。
「聞いていたとおりだぜ、こいつにできるのは勉強だけさ。なんとか言えよ、腰抜けの変人!」
「……」
「いい気になってるとどうなるか分かっているんだろうな?」
「い…いい気になんか…な…なってないよ」
 カーロンは、突っかかる学生を制して後へと追い払った。そして、ヘッジスに近づき、覆い被さるように見下ろした。そして口からガムを取り出すと、指で弾いてヘッジスの額にぶつけた。
「ヘッジス、何も難しいことじゃあない。クラメンと話さなければいいのさ」
 学生が「そうだ、骨董馬鹿は勉強だけしてろ!」と叫んだ。
 ヘッジスは湧いてくる怒りに息を止め、奥歯を噛み締めた。カーロンが威圧するような目でヘッジスを睨んだ。
「分かったのか、ヘッジス!」
 ヘッジスは、震える拳を握り締めてカーロンを見た。声も震えていた。
「ぼ…僕の…じ…自由じゃないか…」
 ヘッジスの言葉に取り巻きの二人は少し驚いたが、すぐに薄ら笑いを浮かべた。そして「カーロン、変人が口応えしてるぜ」とカーロンを煽った。
 カーロンは、理解できないといった素振りでヘッジスに向って首を傾げた。
「自由?」
 次の瞬間、ヘッジスは鼻の奥に焦げ臭さと生暖かいものを感じて道の上に倒れていた。
 ヘッジスは、背中に冷たさを感じた。それから遅れて、殴られた痛みが襲って来た。カーロンは右手の拳を擦りながらヘッジスを見下ろしている。
「分かったのか?」
 ヘッジスは、カーロンを睨みながらゆっくりと立ち上がった。カーロンは襟首を掴み、手を振り上げると唸り声を上げた。
「この変人が!、何を睨んでやがる!」
 ヘッジスは顔を殴られ、腹を蹴られた。息ができなくなり腹を押さえると、また拳が顔を襲った。彼は倒れ込み、体を小さく丸めて耐え続けていた。
 殴り疲れ、肩で息をする三人の後ろで大きな声がした。
「もう、いいんじゃないかな?」
 そこにはコートの襟を立てた男が立っていた。
「なんだよ、おっさん!」
「もう、それくらいでいいだろうと言ったのだが聞こえなかったかね」
 カーロンは荒い息をしながらも男に噛みついた。
「うるさいんだよ、どこかに行きやがれ!」
「これだけ痛めつけてまだやる気なのかい、カーロン?」
 突然、見ず知らずの男に名前を呼ばれてカーロンは驚いた。
「な...なぜ、俺の名前を知ってるんだ!」
 男は笑うと、取り巻きの一人を指差した。
「さっき、この学生が呼んでただろう、もう忘れたのかね?」
 カーロンは、歯軋りをして拳を強く握った。
「この野郎!」
 男は、殴りかかろうとしたカーロンの拳をかわすと、素早く自分の拳を彼の腹に突き入れた。カーロンは、グッと唸ってゆっくりと男の前に崩れ落ちた。
 男は(うずくま)っているカーロンを睨み据えてから、唖然とする学生達に目を向けた。
「君達、こいつを連れて帰りなさい!」
 二人は、男を威圧する素振りを見せたが、向かっていく勇気はない。そして、すぐにうめき声を上げるカーロンを抱えると、男から目を離さずに後ろ向きに離れていった。
「覚えてろよ!」
 薄暗い景色の中に遠吠えのような声が響いた。男は、何度も振り返りながら去っていく三人を見送ると、倒れているヘッジスに声をかけた。
「ヘッジス君と言ったかな、一人で起きられるかい?」
 ヘッジスは起き上がろうとしたが、体中の痛みで動けなかった。
「ほら、手を出しなさい」
 男は濡れたヘッジスの手を取るとゆっくりと引っ張り、その場に座らせた。
「ほう、ひどくやられたね」
 ヘッジスは唾液と一緒に血を吐き出すと息が漏れるような小さな声を出した。
「と…時々…あること…です」
「ほら、起きなさい。家は近いのかい?」
「パ…パームランド…公園の近くです」
「ほう、それは偶然だね。一緒に帰ってもいいかな、ヘッジス君?」
「は…あ」
 ヘッジスは、痛みに耐えながら立ち上がった。着ている服は水を含み、所々に溶けた雪が張り付いている。自転車を押そうとしたが右足を自由にすることができなかった。
「自転車は私が押していこう、君は私の肩に掴まっていなさい」

 天井を見上げてヘッジスは悔しさに歯を噛み締めた。頬と歯がひどく痛んだが、それでも噛み締め続けた。やがて天井が歪み、涙が腫れた頬を避けながらゆっくりと耳の辺りを伝っていった。
(いつものことなんだ、変人ヘッジスのいつものことなんだ)
 彼は滲んだ天井の一点を見たままで、そう自分に繰り返した。だが何度となく襲ってくる拳の幻影が消えることはなかった。
(なぜお前はいつもそうなんだ。たまには仕返しをしてやれよ)
 ヘッジスに(自分)が声をかけた。
(無理さ。僕は喧嘩も強くない)
(そう言う態度が、だめなんだ。何か、こう…人に自慢できるものはないのか?)
(ない)
(得意なものは?)
(ないさ!)
(ふん、それじゃあ仕方ない。また同じようにやられていればいいさ)

「ああ、このままでいいさ!」
 ヘッジスは、悔しさのあまり声に出して叫んでいた。頬がひどく痛んだ。
 悪態をつく(自分)から逃れようとして目を移すと、窓際に架かったコートが目に入った。ずぶ濡れになったヘッジスに男が貸してくれたものだ。
「風邪を引かないように」と、そう言って笑っていた。
(ちゃんとお礼も言ってなかったな)
 目はコートを透り抜けて、(おぼろ)げに浮かぶ優しい男と雪玉を投げるクラメンを見ている。そして、その二人の隣に情けない姿の自分を見つけると、体は小刻みに震え始めた。そして、また彼の口から途切れた嗚咽が漏れ続けた。
 それでも、眠っていたのだろう。ヘッジスは、窓からの明るい光に目を覚ました。彼は、全身の痛みに耐えながら、窓際まで歩いて外を眺めた。
 そこには、冬とは思えない程の明るい光があった。昨夜の雪で道路はまた無垢色に染まっている。樹の枝は、新しく積もった雪の重みに頭を垂れている。すべてのものが真っ白に染め尽くされ、そしてすべてのものが光に(あお)られて輝いていた。
 ただ、彼の心の中に光はなかった。それでも痛む腕を服の袖に通した。
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