第40話 汚れた手

文字数 9,494文字

 討論会の会場は、満員の聴衆で埋まっていた。そのほとんどは各陣営に動員された者と報道関係者だったが、その熱気は作られたものではない。それは、二日後に迫った大統領選挙への期待と興奮を感じさせている。一瞬、聴衆はステージの動きに目を向けたが、それが係員であることが分かるとまた隣の支援者仲間との会話に没頭した。
 ステージ上には、背の低いテーブルが置いてあり、その中央に小さな白い花が目立つことなく飾られている。周りには、テーブルを中心にビロード張りの椅子が五つ並べられている。クッション部分の柔らかく脹れたビロードが、会場に上品さを漂わせていた。
 
 五つの椅子の中央に座る男がステージの端から現れる。聴衆のざわめきは一瞬の内に止まった。男は、歩きながら聴衆に向かい軽く手を上げ、テーブルを隠すように立った。
「皆さん、こんばんは。司会のコーン・ギルスです。大統領選挙を二日後に控えて皆さんも心中穏やかではないでしょう。どちらの候補に自分の一票を入れるべきか悩んでおられる方も多いことと思います」
 司会者は、聴衆に顔を叛けると軽く咳をした。
「そこで本来、予定になかったことですが両候補出席による討論会を開かせて頂くこととしました。この開催に当たって、メデス大統領、シェブリー文化省総長の両候補には快く賛同して頂きました。これこそ開かれた政治の第一歩と、心より敬意を表したいと思います」
 そう言うと、司会者は聴衆に拍手を求めるように語るのを止めた。少し遅れて会場に拍手が響き渡った。
「それでは、両候補にご登場頂きます。まず、メデス大統領、どうぞ!」
 メデスは、ステージの袖で上着の襟を直し終わると、隣で控えるマランドに不快そうに呟いた。
「できれば、出たくなかったよ。私は苦手なんだよ、こう言うのがね」
「どう転んでも今日で最後ですよ」
 マランドの役に立たない慰めに続いて、ボーリックが口を開いた。
「それは政治家にとって致命傷だね、無理せずメデス式でやるしかないね」
 ボーリックは、そう言って笑い、大統領の肩を叩いてステージへ促した。メデスは、肩を落として歩き始めたがステージ直前で胸を張り、笑みを浮かべて聴衆に手を振った。
 ボーリックは、その姿に拍手を送り終わると、続いてステージに出て行こうとするマランドを手で制す。
「マランド君、最後の仕事だ。今日は私がいくよ」
 彼はポケットを二度叩くと、呆気に取られるマランドに軽く手を上げ大統領の後ろに続いた。
 司会者は、二人との握手を終えて着席を確認すると聴衆に笑顔を向けた。
「続いて、シェブリー文化省総長です、どうぞ!」
 ステージに破顔のシェブリーがバルムを引き連れて現れた。彼は聴衆に手を振ったあと、ステッキを持ち替えて司会者と握手を交わした。
 メデスは、その様子を笑顔で見ながらボーリックに囁いた。
「シェブリーにやられたよ。私が討論会に出るなんて裸で戦場を歩くみたいなものだからね」
「メデス、どちらにしても不利な状況さ、最後のチャンスだと思えば気が楽になるぞ」
 ボーリックはメデスには目を向けず、上着についた塵を摘み取っている。
 司会者は、両候補の顔を見て(よろしいですか?)とマイクに拾われないように小さな声で聞いた。そして両候補の頷いたのを確認すると、再び聴衆に目を向けた。
「大統領、そして総長、今日はお時間を頂きましてありがとうございます」
 シェブリーが「喜んで参加させて頂きました」と言うのを聞いて、メデスは(お前が仕掛けたんだろう!)と舌を打った。
「それでは、両候補が揃われたところで始めたいと思います。まず、最新の支持率の調査結果では、シェブリー候補が四十二パーセント、メデス大統領...失礼、メデス候補が三十五パーセントとなっています。この支持率をどう思っておられるのか両候補にお聞きします。シェブリー候補いかがでしょう?」
「連邦国民の四十二パーセントは、健全で賢明な選択をされていると思います」
 司会者はメデスに目をやり発言を促した。メデスは咳払いをして軽く頷いて話し始めた。
「四十二パーセントの連邦国民の内、僅か四パーセントの方が真実に気が付いて頂ければ私が逆転できるのですがね」
 シェブリーは大統領の発言にニヤッと笑うと「あなたは、その四パーセントの連邦国民を愚弄しているのですか?」と言った。
「仮にそうだとしても君の騙している四十二パーセントには遠く及ばないがね」
 大統領の発言に、メデス派の聴衆から大きな喚声が上がった。
「大統領、私が連邦国民を騙していると(おっしゃ)るのですか?」
 シェブリーは沸き立つ怒りを笑顔の下に隠して言った。
「私の持論は環境と共存することです。それと正反対の意見を持つシェブリー候補が国民を騙していると考えてもおかしくはないと思いますが?」
 司会者は、二人の会話に割って入ると、急いで次の話題を提供した。
「今、メデス候補より環境の問題が出ましたが両候補の明確な相違点はこの問題に帰結すると思います。この点についてはどうお考えですか?」
 メデスに出鼻を挫かれたシェブリーは、司会者の指示を待たずに口を開いた。
「メデス候補は、どうも勘違いをされているようです。口を開けば私を環境汚染の牽引車のように言われるが、自然と共存したうえで連邦国民の更なる幸福を考えているのが私なのです。もちろん…道路に塵ひとつ捨てた事もありません」
 シェブリー派の聴衆は、取って付けたユーモアに反応したが、その喚声はあまりにも小さかった。バルムの目は心配気に聴衆とシェブリーの間を絶え間なく行き来した。司会者はシェブリーに向かって質問した。
「シェブリー候補、それでは大統領…失礼、メデス候補と同じ意見に聞こえますが具体的な違いを教えてもらえませんか?」
「メデス候補は人間の上に環境を位置付けていますが私は違うのです。私は、人間と環境を同じテーブルの上で論じています、過度の環境偏重から脱して環境を守りながら人間も進歩する、これが私の言う共存です。メデス候補の理論は、被害妄想の環境保護団体のようなものにしか思えません」
「環境保護団体を馬鹿にした発言は慎んでもらいたい!」
 メデスは大きな声を張り上げた。メデスの計算された行動に聴衆は大きな喚声を上げて答えた。ボーリックは、隣に座るメデスの発言に(ほう、メデスもやるものだ)と思った。
「大統領、私は被害妄想の(・・・・・)環境保護団体と言ったと思いますが?、すべての環境保護団体を指すものではありません。失礼ですが耳が少し遠くなられたのではないですかな」
 シェブリーは落ち着きを崩さず、笑いながら軽く受け流した。ボーリックは冷ややかな顔でシェブリーを見ていたが、すぐにその視線を逸らして司会者に目をやった。
「メデス候補のご意見は?」
「連邦国民の皆さんは私の意見を飽きるほどお聞きの事と思いますが?」
 メデスは足を組み直しながら司会者の反応を見た。司会者はメデスに向って「お願いします」と頷いた。
「シェブリー候補も共存と言われましたが、もちろん私もその意見に賛成です、と言うよりこれは昔から言われ続けて来たことなのです。私とシェブリー候補の違いは明確ではないかもしれません。それは、どこまで開発を認めるのかの線の引き方に違いがあるだけなのです。それは、こうした曖昧な言葉のやりとりでは決して理解できないでしょう。しかし、私は既に明確な線を引き連邦国民の皆さんにお示ししています。これに対してシェブリー候補が明確な異論を唱えて頂ければ国民の皆さんも分かりやすいのではないでしょうか?」
 司会者は大きく頷くとシェブリーに質問を振った。
「シェブリー候補、具体的に現制度の何を改善すべきなのか教えてください」
「まず、道路整備を始め、国民社会の基盤となるもの自体の機能を高めることが…」
 メデスはシェブリの発言を遮って言った。
「道路を作るために樹木を伐採し山を削ってかね?」
「メデス候補、私はまだ話しているのだがね!」
「これは失礼」
 射るように見つめるシェブリの視線を受け流しメデスは素直に謝って見せた。
「前にも言いましたが最も大事なのは電力の供給です。電力は万能の力を持っています。もし、今の二倍の電力を各家庭に供給することができたならば皆さんの生活は一変するでしょう。企業は生活を豊かにする魅力的な製品を作ることに躍起になり、これが経済を活性化させるのです。この相乗効果は素晴らしいものになるに違いありません。僅か二倍の電力でです」
 メデスは司会者に軽く右手を上げて発言を求めた。
「現在の電力は水力に依存していますが、これ以上の供給は不可能です。あなたは何をもって電力を供給しようとお考えですか?」
 シェブリーは質問に頷くと司会者を無視して話し始めた。
「化石燃料です。水力に比べて効率性に優れています。また水力発電設備は河川沿いに限られますが化石燃料であれば地域的な制限もありません」
「安全性についてはどう考えておられますか?」
「自然の産物を燃やすだけです、問題が起こるはずがありません」
 メデスが顔を曇らせた。
「危険だね」
「何が危険なのかね、メデス候補?、危険と言うのなら都心から離れた場所に建設すればいいと思うがね?」
「化石燃料が危険といったのではないよ、君の考え方が危険なんだよ。君も知っているとおり化石燃料については、まだ実験的に使用されているだけだ。安全性を確認するには期間が短すぎる。現段階では答えが出ていないのだ」
「メデス候補、あなたはいつもそう言って勇気ある前進をしない。あなたの任期中に何か大きな発展があったかね、あるのなら言ってみ給え!」
 シェブリーが声を荒らげて言うと、聴衆から「そうだ、お前は何もしていない!」と喚声が上がった。シェブリーは、メデスに語ったのではなかった。その発言は、巧みに連邦国民に向けられ、彼らの心の底を流れる欲望に訴えた。
 メデスは、取り繕うように「け、経済に大きな進展は必要ない。確実な成長が大事なのだ」と慌てて言ったが、その言葉に力はなかった。バルムは、メデスの顔に僅かな怯えを見つけると口元を緩めた。
「あなたは、守ってきただけだ。連邦国民の生活は、何ひとつ変わっていない!」
 傷ついた獲物を全力で捕獲する獣のようにシェブリーは、毅然とした口調でメデスを責め続けた。
「き…君は新聞を読んだかね。二十万年前に環境汚染で国民が苦しんだことを…」
「あれは考古学委員会を解雇された者達が言っているだけだろう?、考古学委員会は何の回答も出していないがね。まあ、どちらにしても私達は考える頭脳を持っている。二十万年前の知能の低い者達と同じと考えてもらっては困るね」
「……」
「私達連邦国民は、もっと良い生活がしたいと思っている。君の哲学か宗教なのかは知らないが、そのようなものに縛られて質素な生活を強いられるのが嫌なのだ。分かるかね?」
「数十年後になって後悔しても取り返しが…」
 メデスは、動揺を悟られないように胸を張って言ったが、口から出た言葉は聞き取れないほど小さな声だった。
「何かね、メデス候補?、よく聞こえないのだが。皆さん、聞こえましたか?」
 聴衆を煽ったこの言葉に、会場は大きく反応した。シェブリーへの賛同の声が沸き立ち、指笛が鳴り続けた。
 会場は、僅かの間に完全に支配されていた。メデスの頭の中にボーリックの(それは政治家にとって致命傷だね)と言った言葉が巡っていた。
 しかし、彼は何かを言わなければならなかった。目を泳がせるメデスの横で、ボーリックが足を組み直しながら大きな声を出した。
「二十万年前の人類は知能が低い?、新聞には私達と変わらない程の技術力を持っていたと書いてあったと記憶していますが?」
「ボーリック副大統領、揚げ足を取るのは止めにしませんか?」
 シェブリーは、小馬鹿にした口調でボーリックを攻撃した。
「あの新聞に出ていたリスト教授だが、昔は君の部下だったね?」
「そうです。少し前まではあなたの部下でもありましたね。何か問題でも?」
「いや、タイミングよく新聞に現れたのでね、何か君達がお願いしたのかと思って…」
 シェブリーは、ボーリックに疑いの目を向けた。
「私達が選挙戦に向けて何か画策したと?、私は君と同じ種類の人間ではないよ」
 シェブリーの顔が一瞬、引き攣るのが見えたが、ボーリックはそれを無視して頭上のライトに向って大声で笑った。シェブリーの顔は次第に赤く染まっていく。
 バルム委員長が、語気を荒らげて副大統領に噛み付いた。
「副大統領、失礼ではありませんか?」
 ボーリックは、笑顔でバルムを見据えたまま、(これが、ボーリック式の戦い方です)とメデスに小さな声で伝えた。そして、一度座り直してバルムを睨み据えた。
「国家機関を私物化する政治家に対して何が失礼なのだね、バルム委員長?」
 ボーリックの言葉は、マイクを通して明確に会場の隅々まで響き渡った。
 メデスは驚き、ただボーリックを見つめた。バルムの目は、皺を消し去るほど目を見開いたシェブリーを見つめていた。
 聴衆は、言葉を失っている。そして、固唾を飲んでシェブリーの次の言葉を待っている。シェブリーは半開きの口を元に戻すと、聴衆に分からないように深呼吸をした。
「副大統領、その発言は問題だね。私が何を私物化したと言うのかね?」
 静まり返った会場にシェブリーの声だけが響き渡った。ボーリックは少しも表情を変えずにシェブリーに頷いた。
「国際氷河観測省です」
「国際氷河観測省、ああ、ハミル・シェスナー総長の管轄の?」
「そうです」
「総長になったばかりの彼女が、私の悪口でも言っていたのかな?」
 シェブリーは、聴衆に目をやったが笑う者は一人もいなかった。
 ボーリックは鼻の頭を掻きながら「あなたの悪口を言うのは彼女だけではないでしょう」と軽く受け流した。
 シェブリーは奥歯を噛み締めて冷静さを保とうとしたが口調は怒りに満ちたものとなっている。
「では、私がどう私物化していると言うのかね?、心して発言しないと後で大変なことになるよ、副大統領!」
 ボーリックは、驚いたまま強張(こわば)っているメデスの膝を二つ叩いた。そして上着のボタンをゆっくりと外した。そして「どうなんだ、副大統領!」と叫ぶシェブリーに笑みを浮かべた。
「いくつもあって困っているんだよ、何から聞きたい?」
「貴様は、私や連邦国民を愚弄しているのか!」
 シェブリーは顔を紅潮させて叫んだが、まだ連邦国民を味方に付けようとする冷静さを持っていた。
「では、塵ひとつ捨てた事のないシェブリー総長にお聞きしたい。氷河観測隊が廃油の不法投棄を行っている事実をご存知ですか?」
 シェブリーの顔が、会場のざわめきよりも早く青ざめていく。
「い、いや初耳だが…。それは私ではなくハミル総長に言うべきだと思うが…」
「調査する者よりも実際に行っている者に聞く方が話が早いと思いましてね、シェブリー総長」
 一斉に会場がどよめきに包まれた。聴衆は落ち着きのない雛のように隣人と囁きあっていたが、シェブリーの大声にその動きを止めた。
「君は、私が不法投棄をやっているとでも言うのかね!」
 ボーリックは噛み締めるような口調で「そのとおりです」と言い切った。
 ボーリックに向かい、聴衆の一人が「嘘をつくな!」と叫んだ。
「嘘ではありません。彼はオーガン油製の廃油の不法投棄を手助けしているのです。廃油を氷河の下に眠らせているのです」
 ボーリックは立ち上がり、聴衆に向って毅然として言い放った。そして聴衆の静まり返ったのを確認するとゆっくりと椅子に座り直した。メデス大統領は蒼白な顔でボーリックを見つめている。
「根拠もなく何を言っているんだ、選挙のためのでっち上げだ!」
 バルム委員長がボーリックを指差して叫んだ。シェブリーは、バルムの腕を叩くようにして下ろさせると、冷静さを装いボーリックに言った。
「ボーリック副大統領、何を根拠におっしゃっているのかね?」
 ボーリックは暫く腕を組んでいたが、やがて上着の内ポケットから一枚の紙を取り出した。
「皆さん、これは氷河観測船の荷積み許可証です。ここに荷積み保証人として確かにあなたのサインが書かれています。申請は…オーガン油製」
 ボーリックは、聴衆に許可証を広げて見せてから、それを司会者に渡した。
 聴衆には遠すぎて読めるはずはなかったが、それはボーリックの発言の信憑性を強く印象付けることになった。シェブリーは汗ばむ手でステッキを握り締めていた。
「その許可証には、積荷が何であるか書いてあるのかね?」
 シェブリーが笑いながら司会者に聞いた。司会者は許可証を丹念に見ると「いいえ」と答えた。静まり返っていたシェブリー陣営が生き返ったように沸くのを聞いて、シェブリーは胸を撫で下ろした。
「副大統領、その紙切れだけで廃油の不法投棄だなどと言われても困るんだが…どうやら君達に残された手段は、私をスキャンダルに陥れることだけのようだね」
 頬の筋肉の動きから、ボーリックが奥歯を噛み締めたのが分かった。メデス大統領は、溜息をついて頭上から吊り下げられたライトに目をやった。
 シェブリーは、足元に目をやり(あと二日、あと二日さえ耐えればどうとでもなるんだ)と心の中で念じた。
「では、四十七キューブもの積荷は一体何なのですか?」
「申し訳ないが、突然そんなことを言われてもねえ」
 シェブリーは、真摯に思い出そうとする目で聴衆を見て、したたかな目でボーリックを見た。
 ボーリックはしつこく食い下がる。
「では、なぜそれに文化省総長のあなたのサインがあるのでしょう?」
「文化省として氷河観測省に依頼する物も数多くある。そのすべてを覚えていては仕事などできないのですよ、副大統領…閣下(・・)
 シェブリーは、久しぶりの笑顔を顔に浮かべてボーリックに言った。彼は椅子に深く(もた)れ込むと背中に冷たさを感じた。シェブリーは自分がひどく汗をかいていたことに驚いた。

 ボーリックの額に小さな汗が浮かんでいる。
(覚えていない…それで終わるのか…)
 ボーリックは小さく呟くと、何かを諦めたように大きく長い息を吐いた。
 メデスは、ボーリックの腕に優しく手を添えてやった。それは、彼への感謝を示すものだった。メデスは敗戦を悟り、落ち着いた笑顔を浮かべている。その顔は(もういい、ギャンブルは終わったのだ)と暗に語っていた。ボーリックは寂しげな笑いを返し、頷いて見せた。そして、ゆっくりと目を閉じ天を仰いだ。
 彼は、また大きく息を吐いて目を開けた。それから懐かしむように会場を見回して、ゆっくりと口を開いた。
「シェブリー総長、最後に一つだけ…」
「まだ、何かあるのかね?」
「あなたは、最古の文献の発表を故意に遅らせたことはありませんか?」
 聴衆から失笑が漏れる。もはや聴衆の誰もがボーリックの悪あがきに辟易していた。
「ま…また、そんな根も葉もないことを…、そんな事実はないね。初耳だよ」
 シェブリーは、大きく跳ねた鼓動を隠して冷静を装った。
「発見時期をずらして大統領選に利用したと言う噂も聞いたことがないのですか?」
「ないね。ボーリック副大統領、これ以上、君の馬鹿話に付き合っていられないのだが…、もっと建設的な討論をしようじゃないか」
 聴衆のひとりが後ろの方で「そうだ、そうだ!」と叫んでいる。
「本当に知らないのですね?」
「しつこいね君も、それでよく副大統領が勤まるね、任命した男の顔が見てみたいものだ!」
 話題を逸らすための罠にかかり、メデスは「シェブリー、私が任命したのだ。私は君よりボーリックの方が遥かに優秀だと思っているのでね」と言った。
 ボーリックは惑わされることなく「総長、本当ですね?、本当にあなたは潔白なのですね?」と念を押した。
「本当だとも、ボーリック。これ以上情けない姿を晒すなよ」
 シェブリーの声は、揺らぐ心とは裏腹に嘲りを装っている。
 ボーリックは「ありがとう」と言うと席を立ち、ステージの影に消えていった。そして、再び現れて椅子に座り直すと、今出て来たステージの奥に向って手を挙げた。
 暫く間があって会場に砂が流れるようなノイズが聞こえた。やがてスピーカーからノイズと共に男と女の濁った声が流れ始める。
 会場の聴衆は誰もが耳を疑った。その男の声は紛れもなくシェブリーの声だった。

―「まさか…子供を?」
―「子供?、何を言っているのか皆目検討も付かないがね」
―「卑怯な…」
―「世の中にはいろんなことが起こる、道路で転んで怪我をする者もいれば車に曳かれて亡くなる者もいる。総長、動かなければ事故には遭わないものだよ」
―「こ、これは脅迫ですか?」
―「そう取ってもらっても構わないよ」

「こ、これは!」
 シェブリーは驚きのあまり腰を浮かせ、ボーリックを睨んだ。
「こ…こんなことが許されて良いのか…。ボーリック、これは盗聴だぞ!」
 ボーリックは喚きまくるシェブリーを無視して静まり返った聴衆に向かって言った。
「相手は、この件の疑惑解明に当たっている国際氷河観測省のハミル・シェスナー新総長です」
 聴衆の固唾を呑む音が聞こえたようだ。
「皆さん、政治家の目的は連邦国民が永く幸せに生き続けられる世界に変えていくことだと私は思います。間違っても人を脅迫してまで大統領になることが目的ではないのです。私は、皆さんの良識ある判断を期待して止みません」
「ボーリック、こんな真似をしやがって、お前もただで済むと思うなよ!」
 シェブリーは、ボーリックにステッキを投げつけて狂ったように吼えた。ボーリックは立ち上がり、シェブリーを見下ろして言った。
「副大統領として最高の仕事ができたよ。ありがとう」
 メデス大統領は、シェブリーには見向きもせず立ち上がった。
「ボーリック…」と言いかけた大統領は、隣で喧しく喚き散らすシェブリーを振り返り、大声で言い放った。
「シェブリー、お前は黙ってろ!」
 この一言で静まり返っていた聴衆は爆発した。会場のあちこちから「メデス万歳!」の声が涌き上がる。やがて聴衆は声を合わせてメデスの名を呼び続けたが、メデスの耳には届いていなかった。
「ボーリック、なぜそこまで…」
 ボーリックは、大統領の肩に手を置くと「お前の方が奴より少しましだと思ったからさ、それだけだ」と微笑んだ。
「私は、君の方が大統領には適任だと思うがね」
「いや、大統領はお前のように頼りない奴のする仕事さ。誰もが放っておけなくなるからな」
 メデスは、首を振りながら俯くと右手を差し出した。メデスの手は少し震えているように見える。
 ボーリックはその手を固く握り返し「すまないが任命責任はよろしく」と笑った。そして、横で立ち尽くすマランドに言った。
「綺麗な水を(すく)えるのが汚れた手だけとは…虚しいね。大統領を頼む」
 ボーリックは、見つめていた自分の掌からマランドに目を移す。そして苦笑を残し、ステージを後にした。
 ボーリックは、ステージの袖に入ると奥に向かって小さく手を上げた。暗闇の中に浮かぶシルエットは女性のように見える。彼を待っていたそのシルエットは、両手を広げて笑っているようだ。シルエットとなったボーリックも大きく両腕を広げて戯けてみせた。
 シェブリーは、まだ目を剥いて吼え続けていた。会場を埋め尽くした聴衆は「メデス万歳!」と叫び続けている。
 メデスは、ボーリックを見送ると聴衆の喚声に手を上げた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み