第26話 泥棒ヘッジス

文字数 2,698文字

 キャンパスに植えられた樹木が遠慮気味に小さな萌色の葉を出し始めている。真っ白な雪を頂く稜線からの風はまだ冷たいが、春は確実に近づいているようだ。
 リストは厚いコートを着込んだ学生を捕まえて声をかけた。
「あの日、誰かを見なかったかね?、デラ教授のブレスレットがなくなった日のことなんだが」
 彼は毎日、何人もの学生に声をかけていた。学生は最初、決まって「いいえ」と答えていたが、この数週間でその答えは変わっていた。
 問いかけられた学生はリストの問いに答えた。
「すみません教授、私に質問されるのは三度目ですが…」
 その答えにリストは、手に持つ鞄が重くなったように感じた。
 校門を出ると一人の学生を数人の学生が取り囲んでいた。リストにはそれがカーロンであることがすぐに分かった。カーロンはポケットに手を突っ込んで、コートをかけた肩をだらしなく揺らしている。囲まれた学生は緊張の表情で何度も頭を下げていた。
 リストは(またか)と思った。そして「カーロン!」と叫んだ。カーロンは眉を寄せて振り向いたが、それがリストだと分かるとすぐに笑顔を浮かべた。
「カーロン、何をしてるんだ?」
「いえ、こいつに借りてたものを返していたところです。なあ、そうだろ?」
 カーロンは萎縮している学生の肩に手を乗せて笑った。そして「勉強がありますので失礼します」と言うと足早に去っていった。取り巻きの二人が慌ててカーロンの後を追っている。
「何か言われていたのかね?」
 残された学生は、心配そうに目を泳がせながら「いえ…別に」と口篭もった。
「カーロンには言わないから本当のことを言いなさい」
 学生は困った顔をして暫く考えたあと、小さな声を出した。
「実は…このコートを見てしつこく欲しいって言うんです。カーロンは誰に対してもいつもそうなんです。誰も彼に文句を言えませんから…」
 リストは「そうか…」と言って頷くと言葉を続けた。
「君はカーロンの暴力が怖いのかね、それとも彼の父親かな?」
「その両方です。誰もがそう言うと思いますよ。それで皆んなずっと嫌な思いをしていますから」
 リストは、頷いて「気をつけて帰りなさい」と言った。彼は、再び鞄が重くなるのを感じながら、ヘッジスの家に足を向けた。
 リストは、何度かヘッジスの家を訪れていた。その度にもっと家を出るように言うのだが、彼は小さくなったまま頑として聞かなかった。今日も彼は、消え始めた雪を踏みながらヘッジスの家に向かっていた。
「こんにちは、最近エンヤさんを見かけませんが、お元気ですか?」
 長靴にズボンの裾を入れながら老人は顔を上げた。
「ああ、婆さんは孫の顔を見るんだって言って長いこと娘の所へ行ってますよ。旦那はこうして雪掻きですよ」
 老夫は残った雪に突き刺してあるスコップに目をやった。
「お孫さんに会いにですか、それは楽しみでしょう」
「わしはいつも留守番ですわ。あっ、今日もまたヘッジスに会いにですかい?」
「ええ、様子を見に寄ろうと思いまして」
「あんたも変わった人だねえ、誰も泥棒をしたヘッジスなんか相手にしねえっていうのに。今じゃあ子供までも泥棒ヘッジスって言ってるんですぜ」
 老夫は引き攣るような笑いを浮かべて嬉しそうだった。
「いや、彼はやっていませんよ」
 リストは疲れた声で言うと軽く頭を下げ、ヘッジスの家に向かった。
 ヘッジスの玄関前にはまだ多くの雪が残っている。リストは、人が一人やっと通れる程度の細い雪の溝を玄関に向って歩いた。

「き…教授、どうぞ」
 ヘッジスは彼の部屋にリストを招き入れた。部屋は塵一つなく、綺麗に片付けられていた。
「これはまた、綺麗にしたね」
「は…はい、他にすることもないですから…。教授、珈琲でいいですか?」
「ありがとう、では頂くよ」
 リストは無理して明るい声で答えてやった。彼は、綺麗になった部屋を見回したあと、机の上に積まれた本を手に取った。考古学、言語学そして歴史学と様々な本が積んであり、そのすべてに図書館の印が押されている。
「図書館にはよく出かけるのかね?」
「ええ、買物も時々…。珈琲をどうぞ」
「そうか、それは良かった。家の中だけでは気持ちも腐ってしまうからね」
「大丈夫です、慣れていますから…でも昔より…」
「昔より...どうしたんだい」
 ヘッジスはテーブルの上にコップを置くとそれをじっと見つめた。そして寂しそうに笑うと窓を指差した。その木枠で区切られた窓ガラスの一つに小さな穴が開き、そこから幾筋かのひびが走っていた。
「どうしたのかね?」
「子供です」
「子供?」
「泥棒…泥棒ヘッジス、そう叫びながら石を…」
「何てことを…」
 リストは目を閉じると額に手を当てて呟いた。
「子供が…子供の声が一番辛いです、遠慮がありませんからね」
 ヘッジスは、自嘲気味に抑揚のない声で応えた。うな垂れるヘッジスを見て、リストは珈琲に目を落とし、何もできない自分に歯痒さと怒りを感じていた。かける言葉もなく、ただ労わるような目をヘッジスに向けた。
 彼は、話題を変えようと明るくヘッジスに聞いた。
「そうだ、クラメンは来るのかね?」
「ええ、時々…彼女はいつも明るく慰めてくれます。その度に…自分自身が情けなくなりますけど」
「彼女は優しい娘だねえ」
「はい、でももうすぐ飛んで逃げちゃいますね」
「枝からかね?」
「ええ、もっと違う形で飛んで行くと思っていましたが…」
 ヘッジスは、悲し気にそう言って言葉を続けた。
「それと、もう少ししたら実家に帰ろうと考えています。ここにいても何もすることもないですから…」
「去っていくのはクラメンではなくて君の方なんだね」
「結果は同じだと思います…」
 ヘッジスは両手で包んだカップを見つめたまま動かない。
「教授、クラメンには、もう来ない方が良いと伝えてください。この家に出入りしていると良く思われませんから…」
 そう言うヘッジスの瞳がリストには潤んでいるように見えた。
「分かった、取り敢えず伝えておこう。でも、この程度の揺れで彼女が飛び立つとは思わないがね」
 リストは快活さを装って見せたが、彼は返事を返さなかった。
「それじゃあ、ヘッジスまた来るよ…それに…」
 リストが次の言葉を探している間にヘッジスは力なく答えた。
「ええ、大丈夫ですよ。昔から慣れていますから…教授…心配いりません」
 ヘッジスは最後までリストと目を合わせなかった。彼は、ひび割れた窓ガラスを見つめていた。
 リストが帰っていくと彼は窓際に歩み寄り、その後姿を見送った。やがてリストの姿が消えるよりも先に、その姿は歪んで溶けていった。彼は声を押し殺して泣いていた。
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