第28話 自信

文字数 2,910文字

 残った雪を溶かすほどの勢いでクラメンは歩いていた。そのために彼女は二度ほど転んだが痛みも恥ずかしさも感じなかった。
(ヘッジスの弱虫!)と心の中で叫んでいた。
 彼女は、大きな音を立ててドアを叩いた。向かいの家の少年が何事かと部屋の窓から顔を出す。彼は、肩で息をするクラメンを見ると急いで窓を締め、部屋の中に姿を消していった。
「ヘッジス、来るなとは何よ!」
 クラメンは、玄関先で村中に響き渡るほどの大きな声を出した。家の中から、階段をを降りてくる大きな音が続いた。
「ク…クラメン!」
 ヘッジスは急いで玄関を開け、周りを見回した。そしてクラメンの腕を引っ張り、急いで家の中に引き入れた。
「ば、馬鹿な真似をするなよ!」
「何が馬鹿な真似よ、もう来るなって言うあなたが馬鹿よ!」
 クラメンは声を荒らげ、肩で大きく息をしながらヘッジスを睨み上げた。
「何よ、停学になったくらいで!」
「…なったくらい?」
 彼は後ずさりせざるを得なかった。手が小さな壷に触れ床に転げ落ちた。クラメンは壺など見向きもせず、押さえ込むような口調で叫んだ。
「そうよ、停学で死んだ人なんていないんだから!」
「いや…」
「何なのよ。言いなさいよ、馬鹿ヘッジス!」
 クラメンはまた叫んだ。
「い、いや…クラメン、落ち着いて…部屋で話そう、できれば玄関を締めて…」
 クラメンは、そっぽを向くと玄関をそのままに、大きな音を立てて階段を上がった。そして、部屋に入るなり怒ったように言った。
「リスト教授が言ってたとおりね。部屋なんか掃除して、男の部屋はね、汚いくらいが丁度いいのよ。本当にあなたは何をやらしても軟弱ね!」
 喚き散らすクラメンを避けてヘッジスはそっとキッチンへ向かった。
「だいたい、あなたはいつも…?、ヘッジス、どこよ!」
「い、いま珈琲でも入れようかと…」
「そうやって逃げてばかりいるからだめなのよ、僕はだめだから、何もできないからって何もしない、手も握れない。結局あなたは逃げてばっかりじゃない!」
「に、逃げたっていいじゃないか、誰にも迷惑なんかかけていないさ!」
 ヘッジスも怒ったようにキッチンから大きな声を上げた。クラメンはキッチンまで追いかけると、ヘッジスの真正面に立って見上げた。
「迷惑をかけていない?、よくそんなことが言えるわね。教授にどれだけ迷惑をかけていると思っているのよ!」
「教授?、ああ心配してよく来てくれているさ!」
「それだけ?、そんな馬鹿ヘッジスだから泥棒に間違われるのよ!」
 クラメンは、見上げたまま背伸びをすると鼻の頭が付くほどに顔を近づけた。
「教授はね、あれから毎日、帰りの生徒に、あの日に誰か見なかったかって聞いてくれているのよ。それに、この村中の家も聞いて回ってくれたのよ。誰のためだか分かる⁉」
「村中を…?」
「ええ、一軒一軒、丁寧にね!」
 クラメンは肩で息をしている。
 ヘッジスは二つの珈琲カップを持ったまま身動きを止めていた。
 記憶の中で、自分のことを信じてくれたのは両親だけだった。周りには彼を馬鹿にする人間はいたが、彼を信用してくれる人など一人もいなかった。
 彼の目は、冷たい風の中で学生一人ひとりに声をかけるリストを見ている。
(僕のために…)
 ヘッジスの肩が震え始める。彼は、腹の底から低く吼えるような大声を出して階段を駆け降りていった。クラメンは、ヘッジスの名前を呼びながら急いで後を追いかけた。
 走りながら絞り出す大声に、すれ違う人は(ヘッジスは気が狂った)と思っただろう。何度も吼え、何度も転び、シャーベットのように溶けた雪が服に張りついた。彼は喘ぎながら、リストの家の玄関を激しく叩いた。
「教授、教授、リスト教授!」
 リストは、ドアを開いてひどく驚いたが、優しく微笑んで彼を招き入れた。そして、遅れて現れたクラメンにも両手を広げて中に入るように勧めた。リストは水浸しのヘッジスを見て、近くにあったタオルを差し出した。
「その濡れた服を拭きなさい、それとその足もね」
 ヘッジスが足許を見ると、そこには寒さのために赤くなった裸足の足があった。
 部屋の中は暖かく、机の上には読みかけの本が開いたまま伏せてあった。リストは二人に椅子に座るように勧めると申し訳なさそうに言った。
「あいにく珈琲は切らしてしまってね、何か暖かいものを探してこよう」
 ヘッジスは立ち上がり、部屋を出ようとするリストを呼び止めた。
「教授、ありがとうございます!」
 彼の声は(かす)れていた。リストは足を止めて振り返り、不思議そうにヘッジスを見つめた。
「何のことだね?」
「ぼ、僕は、人に優しくされるような人間ではありません」
 ヘッジスの声は、感情を抑えきれず上ずっている。リストは意味が分からず首を傾げた。
「殴られたときだって、僕はいつも…すごく悔しいのに、悔しければ悔しいほど卑屈になっていくんです」
「覚えているよ。確かに昔の君はそうだった」
「何も変わっていません。僕は、皆んながそう言うなら自分は泥棒でいいと思っていました」
「いや、君は気付いていないが、昔とは変わっているよ」
 ヘッジスは、激しく頭を振った。
「変わっていません。僕は、嫌なことから逃げているだけなんです!」
「そうかい。でも変わったよ。昔の君は自分のことをこんなに素直に話す人ではなかったからね…」
 リストは、確かめるようにクラメンに顔を向けた。
「ヘッジス、私も変わったと思っているわ。だって、前のあなたは誰とも話をしなかったんだもの」
 ヘッジスは、クラメンに小さく頷くと、優しく見つめるリストを見た。そして、懇願するかのように聞いた。声が震えている。
「教授、僕のことを本当に信じてくれますか?」
 リストは優しく、それでいて射るように強い視線をヘッジスに向けた。
「ああ、私もクラメンも信じているよ」
 リストは頷きながら言葉を続けた。
「君だから信じているんだ」
 その言葉にヘッジスは溢れ出る涙を止めることができなかった。彼はリストの胸に飛び込むと子供のように泣きじゃくった。リストは小さな子供を可愛がるように背中を抱き締めてやった。
「生きていれば誰にでも辛いことはあるさ。泣いてもいいんだ…どうしても駄目なら逃げたっていい。それも間違いじゃないんだよ」
 ヘッジスはリストの胸で泣きながら大きく頷いていた。
「君は自分が人より劣っていると考えているが、私は決してそうは思わない。誰もが足りないものと優れたもの持っている。だからこそ、それぞれが素晴らしいのだよ」
 リストは、背中を優しく擦ってやりながら言葉を続けた。
「今、君に必要なのは自信だけなんだ」
 ヘッジスは、まだ涙を止めることができなかった。そして、涙で何かが柔らかくなっていくのを感じている。それは、踏み固められた自分への嫌悪が、ゆっくりと溶かされていく感覚だった。
 リストがヘッジスを椅子に座らせるのと同時に、クラメンが明るい元気な声を上げた。
「私、ヘッジスの家から珈琲を取ってきますね」
 急いで部屋を出ていったクラメンは、ドアを閉めるとしゃがみ込み、肩を震わせて嗚咽した。そして声が漏れないように掌で口を押さえ、階段を降りていった。
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