第15話 グラント

文字数 4,074文字

(なぜないんだ?文字は同じなのに…)
(この言語の延長線上に今の言語があるはずだ)
(文字が同じなんだ、類似点くらいあっても不思議はないんだ)
 ヘッジスは、文字が同じなのだから少なからず単語や言語規則も継承されていると考えていた。そして、現代語の理解の範疇でその一端は解読できるはずだった。
 彼は様々な手法で何度も解読を繰り返した。最後には、容易に読ませないための仕掛けがあるのではないかとも考えた。文字を逆から読んでみたり、一文字ずつ飛ばして文字列を調べてみるなど滑稽な方法までも試してみた。
 彼は、自分に考えられるすべての方法を試していた。そして時間だけが過ぎ、三ヶ月の冬休みも残り一ヶ月程度となっている。
 ヘッジスが(自分)に問い始めた。
(他に糸口を見つけないと)
(今までやって何一つないんだから、単語や言語規則はもうないんだよ。どこかで変化してしまっているんじゃないの?)
(でも、十五万年前から文字は進化していないんだよ。文字以外だけが大きく変化するなどあり得ないよ)
(言語だって生き物と同じだよ。分化して想像できない形を得る。そして淘汰され、その中の優れたものが行き残るんだ)
(この言語も?…それが本当なら奇跡だろ)
(腕が翼になり空を飛ぶなんて奇跡みたいだからね。ただ、本当は偶然の積み重ねさ)
(偶然の進化?、それが今の言語?)
(そうかも知れない)
(まったく同じ文字を使ったまま?)
(なかなか考え難いことではあるけどね)
(じゃあ、やっぱりこの単語や言語規則はもう消えてしまってるのか…)
(分からないよ。でも、この星の生き物だって僕たちだけじゃないから…)
(淘汰された結果が一つとは限らないってこと?)
(そう)
 彼は、部屋の中を歩き回り、「分化した他の…」と、うわ言のように繰り返した。そして「あっ」と大きな声を出した。
(君は、最初からそれを知っ…?)
(いや、君と同じだよ。僕たちは思い込んでいたんだと思う。だって僕は君なんだから)
 ヘッジスは、無意識に余白に書き込んだあの言葉を思い出していた。
〈言語に亜種はあるのか?〉

 彼はそれから毎日、遠い道を歩いて図書館に通い詰めた。しかし、どこを探しても別の言語に関する書籍は一つもなかった。最後には仕方なく植物学の棚にまで手を伸ばして失望していた。
 探すのは今日で最後にしようと決めていた日のことだった。僅かな希望も持たず、いつもの階段を昇り終えると、書棚で本を探す一人の男が目に入った。
 男はヘッジスに気付かない様子で本に見入っている。
「あの…」
 ヘッジスは、戸惑いながら声をかけた。男は険しい顔のまま目を向けたが、それがヘッジスだと気付くとすぐに柔和な表情を取り戻した。
「やあ、ヘッジス君」
「やっぱり、グラントさんでしたか。こんにちは」
「こんな所で会うとはね。今日はクラメンと一緒じゃないのかい?」
「いつも一緒じゃあないですよ、今日はひとりです」
「そうか、残念だね。それにしてもあの子は明るくていい娘だね」
「そ…そうですか?」
 ヘッジスはクラメンが誉められることが嬉しかったが、何と答えて良いのか分からず曖昧な返事をした。グラントは、落ち着かない素振りのヘッジスを見て微笑んだ。彼は(思ったとおりの青年だ)と思って一人で満足した。
「君も探し物かい?」
「ええ」
「それで、見つかったのかね?」
「いいえ、全部探したんですけど結局ありませんでした」
「全部?、ほう、これだけの書籍があるのにないなんてねえ」
「グラントさんは?」
「暇潰しに何か良い本があればと思ってね。私は求職中なんだよ」
「そ、そうですか、大変ですね」
 グラントは「早く仕事を見つけないと食べられなくなるよ」と苦笑した。
「ここにいるという事は考古学の本を探していたのかな?」
「いや、あの…言語の本…を」
「言語?、それなら別の棚じゃないのかい?」
「ええ、見落としがないかと、また見直しているところなんです...」
「そう、それは大変な事だ、君は言語に興味があるのかね?」
「はい。今は使われていない別の言語があればと思って調べに来ていたんです」
「誰も興味のない本は、この規模の図書館にはないからね…」
 グラントは、深く息を吐き、何かを思い出すように額に手を当てた。それは、まるで長い間忘れていたかのような下手な演技だった。
「カプル語…、セプト語…、そしてアルダヌ語…だったかな」
「何ですか、それ?」
「いや、君が知りたがっている言語だよ」
 ヘッジスは、予期せぬグラントからの言葉に驚き、目を大きく見開いた。
「グラントさん、あ…あなたはそれを知っているのですか?」
「知っているかどうかは別にして、その本なら私の家にあるのだが…」
「えっ、家に?、どうしてそれをお持ちなんですか?」
「私も君くらいのときに興味を持ってね、それ以来ずっと書籍の収集家だよ」
「み…見せてください。見せてください、グラントさん!」
 ヘッジスは怖いほどの形相でグラントを見つめ、袖を強く引っ張った。
 ヘッジスの異常な興奮にグラントはひどく驚いた。それは、彼の知っているヘッジスとは全くの別人だったからである。グラントは、その真剣な眼差しに驚きとともに懐かしいものを感じていた。
(遠い昔の自分がいる)
 彼は確信を持ってそう思った。
「よろしい。来なさい」

 グラントの借家の前はいつも通っていた。家は古ぼけている。しかし、昔ながらの石造りで、この集落で一番古いものだと言われている。今は雪に覆われて見えないが、その石造りの姿は実に堂々としたものだった。
 促されて部屋に入ると、そこにはまだ解かれていない荷物が幾つか残っている。
「申し訳ないね。越して来てからまだ手付かずの物があるんだ」
「いえ、それにしても素晴らしい家ですね」
「こんな家はもう建てられないさ。昔の高度な石組みの技術はもう消えたよ」
 グラントは、残念そうに言うと壁に露出した石組みを撫でた。
「そうですか、でも石の家はまだ建てられていますよ?」
「比べ物にならないさ。昔はもっと大きな石を使って建てられていたのだよ。男が十人でも持ち運べないような石を使ってね」
「そんなに大きな石をですか?、この辺りでは見たことありませんが…」
「今はもう家とは言わないよ。遺跡と言われているからね」
 グラントは、ヘッジスの背中を押しながら自分の書斎に案内した。書斎は広く、壁の一面すべてが書棚になっている。そこには上部まで本が溢れ、もはや一冊の本も入れる隙間もなかった。
 ヘッジスは暫くの間、その本の多さに見惚れていた。彼は(まるで小さな図書館だ)と思った。グラントに肩を叩かれなければずっと見ていた事だろう。
 部屋の隅にコートがかけられている。彼には、それがあの時に貸してくれた物だとすぐに分かった。
「グラントさん、あの時はありがとうございました」
「ヘッジス君、何度もお礼なんていいよ。それより何か飲むかね?」
「いいえ、そのセ…セプ…語」
 ヘッジスは恥ずかしそうに、早る気持ちをそのまま口にした。
「なるほど、飲物よりも本が先か。えっと…確かこの辺りにあったような…」
 グラントは大きな本棚の前で腕を組み目を走らせる。そして、三冊の本を探し出すと嬉しそうに本を撫でた。
「カプル…、セプト、アルダヌ。ヘッジス君、これだよ。読んでいなさい。珈琲でも淹れてこよう」
 カップを持って部屋に戻るとヘッジスが食い入るように本を見ている。目は異様に輝き、ページをめくる以外に身動きをしない。グラントには、その姿から殴られているヘッジスの姿を想像することはできなかった。
「ヘッジス君、珈琲でも飲んだらどうだね?」
 ヘッジスは、その言葉に気付かず、貪るように本を読み続けている。
「ヘッジス君。誰も本を取り上げたりしないよ。珈琲でも飲みなさい」
 ヘッジスは、驚いた顔をして頷き、珈琲を一口飲み込んだ。そして、グラントに尋ねた。
「この文字は今と同じですね?」
「そうなんだ、文字だけが同じと言うべきだと思うが…」
「グラントさんは、この言語が読めるのですか?」
「ああ、読めるよ」
「教えてもらえませんか?、僕に教えてもらえませんか?」
 ヘッジスの興奮は抑えきれない。グラントは時間を置き、少し考えてから答えた。
「この本を読むのは楽しいかね?」
「ええ、もちろんです」
 ヘッジスは大きく頷いた。
「それなら、私には何も聞かない方が良いよ」
「なぜですか?」
「ヘッジス君、教えるのは簡単なことだが自分でやってみてはどうだろう。時間がかかってもいいじゃないか。私は、君の楽しみを取上げたくないのだがね」
 グラントは昔を思い出し、自分がこの本から得た大きな喜びと僅かな自信を懐かしんでいた。
 ヘッジスは、目を輝かせ「分かりました。自分でやってみます。グラントさん」と叫んだ。
「よろしい。それがきっと君のためになるんだ、私もそうしてきたんだよ」
 グラントは、笑顔でヘッジスを見つめている。
(私もこんなに輝いていたのだろうか)
 彼は、昔を思い出そうとしている自分を笑った。
「ヘッジス君、その本を貸してあげよう」
「い、いいんですか!」
「必要なくなったときに返してくれればいいよ。その方が本も喜ぶはずだ」
「グラントさん、ありがとうございます。本当にありがとうございます」
 ヘッジスは抱き付きたいほど嬉しかった。彼は、本に額を押し付けながらグラントに感謝を示した。
 その素振りを見れば、少しでも早く読みたいのだと誰にでも分かる。グラントは、ヘッジスを引き留めなかった。彼は、玄関を出たヘッジスに声をかけた。
「ヘッジス君、何か分からないときは相談に来なさい。そのときは一緒に考えよう」
「はい、分かりました。この本は大事にします」
 グラントは「気を付けて帰りなさい」と言ったあと、ヘッジスに聞いた。
「一つ教えて欲しいのだが、あのカーロンという学生のお父さんは何をしている人かね?」
 ヘッジスは、カーロンの顔と図書館での光景を思い出して顔を曇らせた。
「議員をしているようです、この辺りでは有名な人ですよ」
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