第22話 解読

文字数 3,655文字

 ヘッジスの部屋の壁には、白い紙が何枚も貼り付けられていた。それはドアの上部にまで被さり、出入りする度に乾いた擦れる音がする。紙には、一枚にただ一文字が書いてあるだけであり、文字を覚えるための子供部屋のようになっていた。
 ヘッジスは、黒表紙の本を開くと文字を見る。そして、その文字で始る単語を頭の中から捻り出す。満足のいく単語を見つけると手許の紙に書き、壁の紙の下に貼り付ける。彼は数日の間、この作業を黙々と繰り返していた。少しずつではあったが、黒表紙の本の文章が姿を現し始めていた。
(アルダヌか?)彼は心の中で叫びを上げた。彼は一文字ごとに分かるまで調べ、机と壁の間を規則的に歩き続けた。そして、ひと通りの貼り付けが終わると部屋中の紙を見回して嬉しそうに笑った。そして、そのまま寝転ぶと床に溶け込むように深い眠りに落ちていった。

 目が覚めると外はまだ暗かった。朝はもう少し待たなければならない。良く眠ったのだろうか。眠気は感じない。むしろ冴え切っている。彼はまた黒表紙の本を開いた。
 ヘッジスは、昨夜から一つの仮説を持っていた。彼は本の文字を追いながら壁の紙と見比べた。そして、その文字探しの途中で仮説は確信へと変わった。
(やっぱり、そうだ)
 彼はその言葉を繰り返し、拳を固く握り締めて自分の膝を何度も叩いた。
(この文字の意味は、アルダヌ語だ。規則性もアルダヌ語と全く同じだ!)
 ヘッジスは、彼の考える意味とその規則性に従い、本の文字を壁の紙と見比べながら読み解いていった。
「わ…私達は…大きな…過ちを…××××…すべては…××××…分かっていた…」
 何行かを目で追うと彼は震え始めた。読み解ける自分に震えを止めることはできなかったのである。そして背中に手を回し、強く自分を抱き締めた。
 彼はページをめくった。読み進めていくと所々に意味の合わない文字がある。調べてみると、張られた壁紙の半分は意味を成さないことが分かった。
(これでは読めたものじゃあない...)
 彼は、また時間を忘れて考え続ける。何度も階段を降りて珈琲を入れ直した。苛立ち、大きな足音を立てて部屋中を歩きまわった。その音が気になったのか僅かに開いたドアの隙間からルベロスが中を覗いている。彼はルベロスに気付くことなく、もう一人の(自分)に向き合った。
(規則性がアルダヌ語と同じと言うことは、文字もアルダヌ語からの引用で解決できるはずなんだ)
(でも、アルダヌ語はすべて試してみたんだろう?)
(うん。間違いがあったとしてもこれほど多くはないはずだよ)
(じゃあ、アルダヌ語だけじゃないってことさ)
(アルダヌ語だけじゃない?、規則性はアルダヌ語なんだよ?)
(知らないよ)
(アルダヌ以前の言語が混じっているのか?)
(知らないって)
(規則性だけでアルダヌ語だと思い込んでしまってる?)
(……)
(アルダヌ以前の言語は、アルダヌの規則性を使用していた。そして幾つかに分化して…意味と規則性が変化…文字をそのままに…)
 もう(自分)は黙って聞いている。
(アルダヌ語、そして…カプル語とセプト語…)
 ヘッジスは壁紙を見つめ、意味の合わない文字を見つめた。そして、頭の中にあるカプル語とセプト語に付き合わせ始めた。思いつくと紙に新しい単語を書きなぐり、意味を成さない紙の上に張り付けた。それは何度も、そしてまた何度も繰り返され、紙は千切れ落ちそうなほど厚くなっていった。

 彼は、真っ暗な外を歩いていた。火照った体を癒したかったのだ。夜明け前の空気は、容赦なく彼の膚を突き刺した。あてもなく歩き続けた。寒さに震え始めた手で顔を覆うと(今度こそ…)と呟いた。そして、厚く積もる雪に手を広げたまま倒れ込んだ。柔らかな雪は彼のすべてを包み込んだ。
「解ったぞ!」
 その叫びは大きな喜びのためであり、また同時に彼の楽しみが消えた悲しみのためでもあった。
   *
 私達は大きな過ちを犯していた。すべては早くから分かっていた。誰もがそれを分かっていながら放置した。最初は、脆弱な幾つかの種が消えていく程度だった。私達は、遠からずこの標的になるものに気付いていたが、気づかないふりをした。私達は恐れたが、誰も戦おうとはしなかった。今の豊かさを放棄してまで、誰も戦おうとはしなかったのだ。
 すべての人間が、自分を除く誰かが解決するものだと信じようとした。遠い昔から勇気ある人が発した警告、それを私達は理解していた。しかし、誰も自分の利益を削ろうとはしなかった。私達は気が付くべきだったのだ、その時に。
 すべては、簡単な理由から始った。自らの行動を惜しむためにあらゆる物が作られた。それは人を堕落させ、私達からあるべき行動を失わせていった。私達は自らの足で歩くことさえも苦痛になっていった。回りには不必要なほどの食物が溢れ、そのほとんどは口に触れることなく捨てられた。やがて私達は自分の口で食べることさえも放棄することだろう。
 人間は、多くの利益と利便を求めた。そのためにあらゆる物が作られたが僅かな間に放棄され、いくつもの大きな廃墟の山を作っていった。その新しい山が一つ生まれると樹木を育んだ山が一つ消えた。そして多くの自然、多くの種が消えていった。空は曇り、川は汚れ、私達の心は腐り始めた。次は人間の番だった。
 やがて大気が汚れ始める。当初、人々は昔の大気を希求した。それを私達は家の中に求め、フィルター越しの空気の中に束の間の安堵を感じていた。しかし、吐き出される穢れた大気は、早々にフィルターを無用の物に変えてしまった。
 人間は、地上に生活の場を失った。新鮮な空気を密閉する空間、私達はそれを大地の下に求めたのだ。
 地上のあらゆる物が痕跡もなく綺麗に取り外され、地下へと移された。地上にはこの惨事の原因となった建物だけが残っていた。地上では変わらず灰色の煙が立ち昇っていたことだろう。なぜなら、まだ私達は不必要なものを必要としていたからである。
 ここにはまだ少し生き永らえるだけの空気がある。浄化機の創り出す画一的な空気、私も今その中にいる。
 人間は、太陽を失って初めて自分たちの過ちに気が付いた。厚い汚れた雲の中にぼんやりと二つの光が滲んでいる。あれが私達の見た最後の太陽なのだ。
 私達は一つの試みを行った。それは大きな規模の計画であり、すべての人間が期待を持っていた。この大地に緑を取り戻すためのものである。私達は地上の環境にも負けない強い植物を植樹していった。その植物は枯れることはなかったが、その成長は百年経った今も遅々として進んではいない。
 罰を受けても仕方のないことだ。人間がこの大地を壊したのだ。祖父が見た川の姿を私は知らない。煌く太陽の光、せせらぎを映し揺れ動く川底、驚いたように敏捷に泳ぐ魚、この祖父の語った寝物語の光景を私は知らない。
 僅か三百年ほどの間に人間はこの大地を別のものに変えてしまった。私達に残されたのは、この緑化計画だけとなってしまった。この計画の顛末を私が知ることはないであろう。奇跡が起きるとしても気の長い話である。
 今でも人々はこの計画を…自分以外のものが行う計画を…唯一の希望だと大事に見守っている。何もせず不満しか言わない私達にも、もう一つの慈悲が施されていたとも知らずにである。
 神は罰だけではなく慈悲も与えるものである。しかし、手に触れられず見ることもできない慈悲は罰である。政治家は神に成り代わり、人々に手を差し伸べようとした。この事は密閉された空間に住む人々には知らされていない。
 私は、彼らの慈悲について語ることにする。
 政治家の救いの手は緑化計画より早くに差し伸べられていた。この壮大な計画は(フロスト)と言ったらしい。
 当初、この計画を知っているものは政治家五十七名と技術者二百四十一名だけだった。多額な費用のかかるこの計画は人々の目から隠された。秘密裏に議会に諮問されたこの計画は彼らの独断で可決された。人々に審判を仰げば承認を得るのは不可能だったからである。議会はたった一名の反対を無視した。私はこの勇気を持つ男が誰であったのか知らない。どうなったのかも私は知らない。
(フロスト)計画は、一握りの者達の手によって静かに始っていた。
 ………………
 …………私はペンを置く。もう終わりである。私の伝えるべき歴史はこれで終わりだ。未完で良いのだ。私の伝えるべき息子が逝ってしまったからである。もう伝えることになんの意味もないのだ。
 ………………
 ………………
 久しぶりにこの本を手に取った。息子が逝ってもう二年が過ぎてしまった。私の記した歴史は忘れることにしよう。哀しみを思い出すからだ。
 もう私には何もないが、虚無な時間だけはある。私は再びペンを取ろうと思う。ここからは私ではなく父が語ったことを記すことにする。私の歴史と重なることを許して欲しい。
 私は誰に謝っているのだ?、息子なのか?
 私は誰に記しているのだろう。
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