第49話 就任挨拶

文字数 2,369文字

 教室を埋めている人達の顔は、先程までとは明らかに違っていた。ヘッジスは掌に滲んでくる汗をズボンで数度拭った。そして、大きく息を吸い込むと真っすぐに前を見て話し始めた。
「カフル・ヘッジスです。僕…いえ、私にはこの挨拶で何をどう話せば良いのか分かりません。人前で自分の考えを話すのは始めてなのです」
 ヘッジスの話は稚拙(ちせつ)だったが声は落ち着きを取り戻し、それは少しの自信さえ感じさせている。
「これから、解読を終えた歴史の書について話しますが、脈絡のない話になると思います。ですので、残念ですがノートと万年筆は必要ないかと思います」
 教室に大きな笑いが起こり、ヘッジスの目には大統領が笑ったように映った。大統領の笑顔は、彼の緊張を取り去った。ヘッジスは、少しだけ胸を張った。

「二十万年前の文明は滅びました。この名前を持たない文明は私達の文明より遥かに優れていました。そのような優れた文明が何の痕跡も残さず、なぜ今まで発見されなかったのか皆さんは疑問に思われるでしょう。しかし、痕跡は二つあるのです。一つは、まだ発見されていませんが、もう一つは今、私達の目の前にあります。それは…この多くの緑、樹木です」
 ヘッジスは、窓の外でたおやかに揺れる緑を指差したあと、話を続けた。
   *
 二十万年前の人達は、自分たちの利益のためだけに技術の進歩を試みました。それは、彼らに大きな利便性を与え、また莫大な利益を生み出しました。外では雪が降っているのに、家の中では裸でも過ごせたことでしょう。三人のために七人分の食事を用意していたのかも知れません。また、使い捨てにされる人間さえも創っていたのかも知れません。
 しかし、彼らの幸せにも終わりが来たのです。絶え間ない生産にこの大地は疲れ果てました。大気の汚染と大地の荒廃のために、人が地上に住むことが困難になりました。もはや彼らの選択肢は、地下に移り住むしかなかったのです。
 彼らは将来、再び地上を取り戻すため、僅かな希望を持って大地に莫大な数の緑を植樹したのです。今、私達が眼にしている樹々は、その文明の痕跡なのです。そして、もう一つの痕跡は近い将来、地中深くから数多く発見されることでしょう。そうです、地下に移住した民の痕跡です。
 地下に移り住んだ人々は、この緑化事業を唯一の希望としました。しかし、実は希望はもう一つあったのです。この環境悪化を憂いた為政者は、遥か昔から壮大な計画に取りかかっていました。それは、他の星に移住すると言う途方もない計画でした。彼らの宇宙航空技術は他の星への移住も可能なほどのものだったのです。
 彼らは移住に最も適した星を決め、その環境を彼らに合うように変えるために技術者を送りこみました。しかし、その星の環境も整ったとき、彼らの取った行動は、あまりにも利己的でした。為政者とその家族だけがその星に向ったのです。ペットは連れて行っても他の国民を連れて行こうとはしませんでした。結果は定かではありませんが、移住する星に大きな異変が起こり、これは失敗に終わったようです。
 悲しいことですが、これが二十万年前の文明なのです。
 文明の定義は、文字の存在やモニュメントの有無など八個の要素で成り立つとされています。しかし、これですべてでしょうか。この二十万年前の文明を見て、近代的文明の要素には、九個目の要素が必要ではないかと私は思います。
 この大地の中心にいるのは人間だけではありません。私は、この…突然の准教授の就任に際し、過去の文明の暴走を教訓として、皆さんと九個目の要素についても学んで行きたいと考えています。その要素とは(自然との共栄)です。
 最後に…。これは私の空想ですが、夢のある話をしましょう。
 二十万年前、為政者が向かった星は既に私達の住める環境に変わっていました。もし、そこに大異変を生き延びた私達の祖先…移住を可能にした技術者達が生き延びていたならどうでしょう。自然を壊した私達の祖先は、新しい星を今どのように創り上げているのでしょうか。
 人は知恵を持っています。私は、彼らが同じ(てつ)を踏まず、私達が考える以上の文明を持つ素晴らしい星を創り上げていると確信しています。
 近い将来、その星がどこにあるのかも分かるでしょう。そして、私達がその星に行く事も不可能ではありません。私は、その時を楽しみにしています。
   *
 ヘッジスは背すじを伸ばし、前に座っているすべての人の顔を見つめた。そして、大きく息を吐き、深く静かに頭を下げた。
 多くの人の中で、一番に大統領が立ち上がり拍手を送った。拍手はすぐにすべての人の手から溢れ出した。喚声と指笛が交錯している。リストは、満面の笑みを浮かべてヘッジスに駆け寄り「素晴らしいスピーチだ!」と言って抱きかかえた。すべての人の顔が笑顔に満ちている。
 ヘッジスは、聴衆の暖かい拍手に小さく手を挙げると、ゆっくりと講演台を降りていった。エンヤ婆さんの目は、真っ赤になっている。彼女は、ヘッジスの腕を掴んで何度も頷いた。そして鼻をすすり終えるとヘッジスの背中に手を当ててクラメンの前に押し出した。クラメンの目から今にも涙が零れ落ちそうだ。
 ヘッジスは、照れくさそうな顔をしてクラメンの前に立つ。エンヤ婆さんが、涙目でヘッジスの背中を強く叩いた。
 彼は顔を赤くしながら少し膝を曲げた。そしてクラメンの肩に手を乗せる。
 ヘッジスは、彼女の頬に優しくキスをした。
 一瞬の静寂。
 そして、聴衆の中の学生達が地響きのような歓声を上げ、大きな拍手を浴びせかける。
 クラメンは、ひどく驚いてヘッジスを見上げた。それでも、すぐに輝くような笑顔を浮かべると、ヘッジスの胸に強く抱きついた。そして、腕の中で頬を真っ赤に染めながら大声で叫んだ。
「馬鹿ヘッジス!」
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