第41話 少年

文字数 3,544文字

 ボンデラ遺跡は都心から百五十マイズほど離れている。考古学は、百年ほど前に発見されたこの遺跡から始まったと言われている。この長い歴史を持つ遺跡は文化財に指定されてはいるが、現在も発掘が続けられている。ここは誰でも発掘の様子を見学できるため、考古学に興味のある人達で溢れていた。
 遺跡に向かう通りには、様々な店が軒を連ねていた。それぞれの店は、出土品の摸造品を陳列したり、有名な考古学者が立ち寄ったことで客を店内に曳き入れようと手を尽くしている。しかし、遺跡の発見当時からある古ぼけた一軒のカフェだけは別だった。努力を要せず、老舗と言うだけで多くの考古学愛好家で賑わっている。
 店の外に置いてあるテーブルに老夫婦が腰かけたのを見て、ボーイは伝票を持って店外に出ていった。
「外のテーブルは、すべての物が少し高くなりますが、いいですか?」
「高くなる?」
「ええ、テラス席は景色がよくて人気がありますから…その分、高くなるのです」
「そうかね、では中でご馳走になるとするよ。親切にありがとう」
 白髪の混じった老紳士は、笑顔を浮かべてボーイの腕を軽く叩いた。老紳士と上品な婦人は、孫らしい少年の手を引いて店内に入っていった。
 店長は、店内に戻って来たボーイを不満気な顔で呼びつけた。
「おい、外に座った奴はそこで飲ませろ、そうしなきゃ儲かりゃしねえんだ。分かったか?」
 ボーイは「すみません」と頭を下げると、老夫婦の注文を取りに向かった。
「私は珈琲で、家内には紅茶を…お前は何にする?」
 老紳士が、可愛くて仕方ないといった表情で孫に聞いた。少年は目の前の擦り切れたメニューを開き、婦人に聞きながら一つずつ読み始めた。老紳士はボーイを見て申し訳なさそうに首をすくめた。
「さっき店長に呼ばれて怒られたんじゃないかな?」
「い、いいえ。大丈夫です」
「君はアルバイトかね?」
「ええ、分かりますか?」
「なんとなくね。なぜまた、アルバイトを?」
「ここで発掘を見ていたいのですが…でもあまりお金がないのです」
「君も発掘に興味があるのかね?」
「ええ、僕もこの少年くらいの頃から大好きです」
 ボーイは、メニューを読み上げている少年を見て微笑んだ。
「そうかい、この子も発掘や考古学に目がないんだ」
 老紳士は、ボーイに顔を近づけると声を落として「でも、何も分かっていないんだよ」と笑った。
「僕は、冷たいミルクでいいよ」
 ボーイは少年の声に頷くと、遠くからの水の催促に急がされて走っていった。
 呼んでいたのは二人組みの中年の男だった。ボーイが水差しを持っていくと、男達は会話を止めず、コップを指差した。
「シェブリーが立候補を取り止めたらしいな」
「そりゃ仕方ないさ、討論会であんなことを暴露されたんだろ?」
「シェブリーも馬鹿だねえ、討論会なんて出なければ大統領になれたものを」
「やっぱりあの記事が気になったんだろうな」
「ああ、あの最古の文献の解読は正しかったって記事かい?」
「そうさ、おかげで選挙も中止だし、明日はゆっくりさせてもらうさ」
 男達の会話にボーイは水を注ぐのを止め、その話に割って入った。
「す、すみません。解読が正しかったと言うのはどう言うことですか?」
 男達は、驚いた顔でボーイを見ると再度コップを指差した。
「おい、水を入れろよ!、お前、新聞を読んでないのか?」
「は、はい…」
「最古の文献を学生が解読したって記事を知っているか?」
 ボーイがコップに水を注ぎながら頷いたので、テーブルに水が零れ落ちた。ボーイは慌てて水を拭き取った。
「でも、その学生が窃盗事件で停学中でね、こりゃ解読も嘘臭いってことになったんだ」
「ええ…」
「それが、この前の新聞は全く逆だよ。解読は正しい、学生も泥棒していない、退学も間違い、すべてが間違いでしたって大々的に載っていたんだ」
「間違い?、い、いつの新聞ですか?」
「五、六日前のガロー新聞だよ、もういいからあっちに行けよ!」
 男達は、眉間に皺を寄せてボーイを追い払った。
(泥棒していない?)
 ボーイは、水差しを持ったまま夢遊病者のように店内を歩き回っていた。
「ヘッジス!」
 店長が大きな声を出してボーイを手招きした。ボーイは我に返ると、怒られるのを覚悟して店長の元へ急いだ。
 ボーイは、店長から説教を受け終わると、決められたとおりの場所に立った。そして、決められたとおりに店内の様子に目を配ったが、心はそこになかった。
(泥棒していない?、退学が間違い?)
「ヘッジス、水だ!」
 店長は、怒った赤い顔をして遠くを指差していた。客の一人がコップを掲げて水を催促しているのが見える。慌てて客席に向かうボーイを見て、老夫婦の横に座る少年が笑いかけた。
 水を注ぎ終えたボーイは、戻る途中で少年の頭を撫でて苦笑して見せた。ミルクで白い髭を生やしている少年は、ボーイに笑い返しながら屈託なく言った。
「ヘッジスって、お兄ちゃんの名前はカフル・ヘッジスなの?」
 少年の言葉にボーイは不思議そうな顔をした。
 老婦人は、申し訳なさそうに「失礼なことを言って、すみません」と詫びながら少年を軽く叱った。少年は老婦人の言葉を聞き流し、もう一度聞いた。
「ねえ、カフル・ヘッジスなの?」
 ボーイは、戸惑ったように首を傾げた。
「そ…そうだけど…君がなぜ僕の名前を知ってるんだい?」
 その言葉を聞いた瞬間、老夫婦は息を呑んだ。動くことを忘れた二人の時間が止まっている。店内は変わらず雑踏のように騒々しい時間が流れていた。
 少年は大きな鞄から新聞のスクラップブックを取り出した。そして、言葉の出ない老夫婦に向かい写真を指差すと、得意気に言った。
「ねっ、このヘッジスさんだよ」
 老紳士は、ぎこちなくコップを掴み上げると喉に水を流し込んだ。そして写真とボーイを交互に見比べている。
「き、君が…あのカフル・ヘッジス君…かね?」
「僕を知っているんですか?」
 ボーイには、この老夫婦と少年に見覚えはなかった。
「あなたが私達をご存知ないのは当然だが、私達…いや、たぶんこの店にいるほとんどの人は…あなたのことを知っていますよ。あの解読は衝撃的でしたからね」
「……」
「それは、とても感動しましたよ。一目見て解読したと書いてありましたからね」
 老紳士はもう一度、水を飲んで話を続けた。
「神に讃えられた青年がどんな人物なのか会って見たかった…ここで会えるなんて奇跡だ」
 横で頷いていた老婦人がボーイに細い手を伸ばしながら言った。
「ヘッジスさん、握手を…握手をして頂けませんか?」
「握手?」
 ボーイは戸惑いながら老婦人に右手を差し出した。老婦人は遠慮気味に差し出された手を両手で包むとボーイに温かい目を向けた。
「新聞でしか知りませんが大変でしたね。可哀想に退学にまでさせられてしまって…で、もう大学にはお戻りなの?」
「い…いえ、分かりません」
「分からない?」
「すみません、ずっと新聞を見ていないのです」
「あら、ではあなたは何も知らないの?」
 ボーイは困ったように頷いた。老婦人は少年の前に置かれたスクラップブックを取り上げると細い指でページをめくった。
「この子は、切り抜きを集めるのが好きでね…あったわ、これよ」
 その指差された新聞の切り抜きは、八ページにもわたって丁寧に張り付けられている。ボーイは貪るように切り抜きを読み始めた。店長の呼ぶ声はボーイの耳以外の店内に響き渡っていた。
「リスト教授…」
 ボーイは、スクラップブックを震わせながら目を潤ませている。老婦人はボーイを見つめると、腕にそっと手を添えて何度も頷いてくれた。
 ボーイは、震える声で少年に「ありがとう」と言った。そして、スクラップブックを返すと優しく頭を撫でてやった。
 少年は、それが余程嬉しかったのか体を弾ませて楽しそうに笑った。彼は靴を脱ぎ、座っていた椅子に立ち上がると大きく息を吸った。そして、店内の客に向って大きな声で自慢気に二度叫んだ。
「ここに、カフル・ヘッジスがいるよ。僕の友達なんだ!」
 店内の考古学愛好家の目が少年に集まり、それからすべての目がボーイに集まった。やがてボーイは人垣の喧騒に包まれた。彼を見れないものは椅子の上に乗って爪先立ちをしている。人々は口々に「嘘だろ!」「あれがヘッジスか?」などと誰もが信じ切れないでいる。
 少年はその様子を見て、今度はテーブルの上に乗ると天井に向かい、前にも増して大きな声で叫んだ。
「これが天才ヘッジスだ!、僕達は友達だよね?」
 ボーイは、テーブルの上から嬉々として見下ろす少年を見上げた。そして煌めく笑顔を返すと抱きついてやった。
「ああ、もちろんさ。昔からの親友だ!」
 大きな声で叫んだボーイの潤んだ目から涙が零れ落ちた。
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