エピローグ

文字数 10,447文字

 月と星空の光でどこまでも歩けそうだ。目を凝らせば、溶岩でできた小山の稜線が間近に浮かんで見える。赤茶色の砂は、薄黒く錆びた蹉跌のように見えた。風は、草を揺らすだけで砂を巻き上げる力もない。ただ穏やかにゆっくりと流れていた。
 草は、この僅かな土地にだけ生えている。周りを見渡しても岩石と砂だけである。しかし、ここには泉が涌いていた。枯れることなく清らかな水が湧き出していた。
 羊は、寒くもないのに肌を寄せるように集まり眠っている。時折、眠りから覚めたのか一頭の羊が寂しそうに鳴いた。やがて呼応するように遠くの群れから何頭かの鳴き声が聞こえる。
 この小さな土地には、たくさんの天幕が張られている。天幕は厚く、灯火の明かりが漏れることはない。月と星の明かりを浴びてそこに在ることを窺わせていたが、それは岩と区別するのが難しかった。
 やがて一人の男と一人の女が天幕から現れ、別の天幕の中へと消えていった。
動くものは、また羊だけとなった。

「ここは、良い土地だ。木々や草は少ないが、ベル・シエバ(七つの羊の泉)は、いつも清らかな水を与えてくれる」
 天幕の中で横たわる老人が言った。
「主人アブラハム、そのとおりです。幾多の場所に暮らし、その時々に良い土地もありました。しかし、今、私達を育んでくれるこの土地に感謝しなければなりません」
 実直な老人が答えた。
「エリアザルよ」
「はい」
「お前は、ハランからずっと忠実に尽くしてくれた。そして、息子イザアクに素晴らしい妻を見つけてくれた。ありがとう」
 アブラハムは、思いを馳せるように言った。
「私は、皆と同じです。食べていくためにあなたに尽くしたに過ぎません」
 エリアザルも昔を思い出し、懐かしむように答えた。
「どこまでも慎み深い男だ。私は、この目が見えなくなって人の本当の姿が見えたような気がする。人間とは情けないものだ…。エリアザル、心から感謝しているよ」
「ありがたいお言葉です」
 アブラハムは、エリアザルの顔を撫で、確かめるように丹念に指を這わせた。
「お前も年を取ったなあ。皺だらけだぞ」
「はい。でも、あなたも立派な老人におなりですよ」
 アブラハムは、笑いながら話を続けた。それは昔の話を欲しているようだった。
「ハランのことを覚えているか?」
「ええ、覚えていますとも」
「あなたの財を成した町でもあります。この町とは違い、少々騒々しい町でしたが良い所でした」
「この町?、エリアザルよ、岩と砂のこの僅かな土地が町と言えるのか?」
 エリアザルは、天幕の入り口を開け広げ、月に照らされた土地を見回した。
「これだけの人と羊がいて、これだけの富があります。ここにないものは道くらいでしょう」
「道か…」
 アブラハムは、何かを思い出すように見えない目を遊ばせて言葉を続けた。
「険しい道ならない方が良いかもしれない。もうこの歳では越えられない」
「ハランからの旅のことですね」
 エリアザルは、思い出しながらアブラハムの手を取って(さす)ってやった。
「一人で越えるのも困難なものを、この多くの下僕や羊、財宝を持ってよく越えられたものです。アブラハム、あなたの力が越えさせたのです」
「私一人の力ではない。お前や皆のおかげだよ。山だけではない、砂漠も皆のおかげで渡って来られたのだ」
「砂漠は辛く、足を取られ続けました。あの辛さを思い出せば、この幸せと交換してでも良い道が欲しいと思うくらいです」
「険しい道は要らないと言い、砂漠では良い道が欲しいと言う。人とはつくづく勝手な生き物だ」
「はい、この旅の途中でも自分勝手な不満をよく耳にしたものです」
「お前には迷惑をかけた。すべてを任せていたのだからな…」
「いいえ、大地に山と川があるように、私の悩みを親切に聞き、そのうえ不満を一言も言わなかった多くの者達もおりました」
「ほう、私は覚えていないが…」
 アブラハムは首を傾げた。
「羊でございます」
 アブラハムとエリアザルは、天幕の外にも聞こえるほどの声を上げて笑った。
「今、その羊達とお前達に囲まれてここにいる。そして、ここには秩序がある。素晴らしいことだと思わないか?」
(おっしゃ)るとおりです」
「旅で多くのものを見させてもらった。そして学ばせてもらったよ」
「あなたの人生は、旅そのものですから。その教えがあなたの子孫を導いて行くことでしょう」
「そうあって欲しいものだ」
「そうなりますよ、必ず」
 二人は口元を緩め、慈愛に満ちた顔で見つめあっているようだった。

 アブラハムとエリアザルが話し続けているところへ、天幕を揺らして一人の男と一人の女が入って来た。逞しい男は、若い男がそうであるように将来の希望に輝いて見えた。女は滲み出る笑顔を持ち、快活さを窺わせている。
 アブラハムは、エリアザルとの語らいが一段落するのを待ってから尋ねた。
「エリアザル、そこに居るのはイザアクとレベッカか?」
「はい、そのとおりです」
「来たか。では悪いが席を外してはくれないか。家族に話すべきことがあるのだ」
「分かりました」
「すまない」
「お気使いのないように。私は休ませて頂きます。おやすみなさいませ」
「エリアザル、楽しかったよ。おやすみ」
 エリアザルは、イザアクとレベッカにも丁寧に挨拶をして、天幕を揺らすことなく出ていった。

「息子イザアクよ」
「はい、お父さん」
「イザアク、もっと近くへ来なさい。そう、私が手で触れられるように」
 彼は近づいたイザアクを撫でた。
「今、エリアザルと昔の話をしていたのだ。ハランからの旅の話だ」
「父さんは、話が好きですからね」
「そうだとも、私にできることと言えば昔話しかないのだから」
 天幕の中を照らす羊油の灯火が小さな音を立てた。
「そうだ、イザアク覚えているか。お前がまだ子供のころ、二人でモリアの山へ登ったことを」
「覚えていますとも。一生、忘れることはないでしょう」
「薪は重かっただろう?」
「薪の重さは覚えていません。真っ暗な闇だけ覚えています」
「怖かったのか?」
「はい。怖くてたまりませんでした」
「なぜ、怖かったのだ?」
「私の周りには常に人がいました。父さんや母さん、そして多くの下僕に多くの羊やロバに囲まれていました。二人っきりの時間はとても怖かったのです」
「私達が何をしたか覚えているか?」
「はい、山の中で二晩過ごしました。二人で山を歩き山菜を採り、食事の用意をしました。そう、泣きながら手を赤く染め…連れていった羊を食事のために屠りました」
「そうだ、それから星を見ながら眠ったことを覚えているか?」
「ええ、ひどく怖くて父さんにしがみついて眠ったことを覚えています。でも、山にはなぜ登ったのでしょう?」
 アブラハムは、イザアクの手を強く握りその問いに答えた。
「簡単なことだ。お前は、生まれながらにして富を得ている。エリアザルをはじめ、下僕達はお前を可愛がってくれる。お前は不自由のない生活に慣れてしまっていたのだ」
「……」
「寝具の用意をする者がいれば、手を血に染めて羊を屠り食事の用意をしてくれる者がいる。そのことを知って欲しかったのだ」
「父さん、ありがとうございます。今の私は常に人に感謝しています」
「感謝か…そう、感謝なのだ。良い言葉を聞かせてもらったよ。イザアクよ、ありがとう。星が綺麗だったなあ。モリアの山に感謝(・・)しなければならないな」
 アブラハムは笑みを浮かべ、イザアクの手を優しく叩いた。

「レベッカ。そこに居るのか」
「はい」
「お前は本当に良い義娘だ」
「ありがとうございます。お義父様が人を誉めるのを初めて聞きました」
 レベッカは快活に笑った。
「私は、精一杯に生きてきた。人を誉める余裕もなかったのかもしれないな」
「でも、お義父様に言葉は必要ありません。そのお顔で誰もが真意を理解できますから」
「私は、それほど分かりやすい人間だったのかい?」
 アブラハムは驚いたようだった。
「もちろんです。お義父様」
「私にも、分かりましたよ。父さんは単純な人ですから」
 イザアクも笑いながらアブラハムに答えた。
「親に向かってよく言えたものだ」
 アブラハムは楽しそうに笑い、寝返りを打って二人の方を見た。それから彼は、大きく、長く咳き込んだ。天幕の内側に映るアブラハムの影が大きくうねった。
「すまんが、水を一杯もらえないか」
「はい、お義父様。私が持ってまいりましょう」
「いや、イザアクよ。お前が水を持って来てくれないか。できれば泉の新鮮な水を」
「分かりました。父さん。おいしい水を持ってまいりましょう」
 イザアクはレベッカに小首を傾げて見せ、天幕を払い出ていった。

「レベッカよ。もっと近くへ来なさい。そう、私が手で触れられるように」
 彼は近づいたレベッカの顔を撫で、見えない目はレベッカをとおり抜け昔を見ているようであった。
「レベッカよ。エリアザルに会った日のことを覚えているか?」
「はい。お義父様」
「イザアクの妻を見つけに私がエリアザルを行かせたのだ。お前は疲れ果てたエリアザルに水を与え、宿も与えてくれた。明るく、親切な娘であったとエリアザルが泣きながら語ってくれたものだ」
「もし、お父様が疲れた旅人を見たらどうします?、そして、その旅人と家畜が水を欲しがっていたらどうしますか?」
「水を分け与えるだろう」
「では、その疲れ果てた旅人が宿に困っていたらどうしますか?」
「一夜の軒を貸すだろう」
「ほら、私もお義父様と同じことをしたに過ぎません」
 アブラハムと快活に笑うレベッカの手を握り、問答を繰り返した。
「では、他の誰もがエリアザルに水を与えてくれたのだろうか?」
「与えない者もいたでしょう…そう、いろんな人がいますから」
 アブラハムは満足そうに頷いた。彼は続けて語った。
「同じ行いでも心の持ちようはそれぞれなのだ。自分を見て善行をする者を偽善者と言う。だが、他人しか見えずに善行を行う者もいる。お前は後者の中のひとりであったのだ。だから、エリアザルはお前をここへ連れて来た。イザアクの妻にするために」
「私にはよく分かりませんが、誉めて頂いているのだけは分かります」
「ははは。レベッカ、お前で良かった。お前に感謝したかったのだ…本当に感謝したかったのだ。イザアクの前では照れくさいからね」
「それでお水を汲みに?」
 アブラハムは、返事の代わりに強く手を握ってやった。
「私には知識がありませんが、お義父様のように子供を導いてやることができるのでしょうか?」
 レベッカは不安そうに聞いた。
「人には、自分の経験(きず)から得たものしか伝わらないものだ」
 アブラハムは、見えるかのような眼差しでレベッカを見た。
「飾ってはいけない。ただお前の得た真実を伝えれば良いのだ」
 アブラハムは、また長い咳を続けた。レベッカはアブラハムの腕を優しく撫でてやった。
「真実と共に伝えて行かなければならないものが、もう一つある」
「お義父様、何でしょう?」
「レベッカ、難しいことではない。イザアクと共にお前達の子供達に伝えていくのだ。それは、必ずや生きていくための糧となる」
「分かりました。でも、真実と同じほどに大事なものとは、何なのですか?」
 アブラハムは、レベッカに感謝に満ちた表情を向け、目を閉じて言った。
「歴史だ」

 アブラハムは、水を一口飲みむと見えない目を二人に向けた。
「この泉をなぜ、ベル・シエバ(七つの羊の泉)と言うか知っているか?」
「はい。この泉を争ったとき七頭の羊と引き換えに共に利用しようと決めたのだと聞きました」
「そのとおりだ。互いに相手を認めつつ共存することだ。しかし、うまく行かないことが多すぎる」
 アブラハムは悲しげに溜息をつくと話を変えた。
「息子イザアクよ。そしてレベッカよ」
「はい」
「私は約束を守らなければならない」
「誰との約束ですか?」
「大きな民との約束である」
「大きな民とは誰ですか?」
「我々、人間の祖だ。この約束は常に守られてきた」
「何を約束されたのですか?」
「伝えることだ。我々がこの大地の上に現れてからのことを」
「……」
「私は、私の父テラからこの話を聞いた。そして父テラは、その父から。そして私はイザアク、レベッカに語り継ぐ。そしてお前達はこれから生まれるであろう子供へ語り継いでいかなければならない。これが約束である」
「私達には正しく伝える自信がありません」
「誰しもがそう思う。正しいことが重要なことではない。ただ欲を排して伝えよ。それだけで良いのだ。」
 アブラハムは重く、そして凛とした声を出した。アブラハムの威厳に圧倒されたイザアクとレベッカは、固まったもののように瞬きもできなかった。
 天幕の中は、何も変わりない。しかし、張り詰めた糸が切れる刹那の気配が支配している。そしてアブラハムの言葉が、その糸を断ち切った。その声は、静かだが大きく、柔らかだが厳としていた。
「民族には、永い時があり、それと同じだけの永い歴史がある。いつの話なのか父にも分からないと言っていた。ただ(遠い、遠い昔である)とだけ語った。なおも私が知ろうとすると(時間は重要なことではない)と言った。父は(その時)とだけ語った。これは、父テラから聞いたままの言葉である」

 今までに打ち寄せた波の数だけ昔のことである。
 そのとき、大地に私達の祖、大きな民が現れた。大きな民は万能を持ち、空をも歩んだ。大きな民は、この土地をアダンと呼んだ。
 彼らは、この大地を暖め始めた。まるで親鳥が卵を抱くように、柔らかくゆっくりとである。やがて極寒の白い大地が割れる。天翔ける大きな民の雛が生まれるように大地も生まれたのだ。
 氷は水とならず、ただ白い雲となり、天に向かい昇り始めた。やがて大地から水がほとばしり出る。大地はあらゆる場所で叫び声を上げ、轟音と共に崩れ始めた。
 水は、大地の裂け目を伝い小さな川を創った。その幾つかの小さな川が重なり大きな川となった。川は辺りの大地を飲み込みながら、赤茶けた濁流を運ぶ河となり海を創った。海は大地の色と変わらず、緩やかに波打つ柔らかな大地のようであった。
 光は海の水を空に運び、厚い雲を創った。空に白き水が生まれ、水が大地と空に分かれたのだ。
 「水が分かれた」と大きな民は言った。これが大きな民の第一期となった。

 やがて幾つかの山が激しく火を吹き始める。大地は鼓動し始めていた。すべての山が怒り猛り、噴煙は雲を遥かに越えて立ち昇った。その黒き雲が、天を覆い尽くすと、大地に永い漆黒の闇が訪れた。
 どれだけの時が流れたのだろうか。暗い世界に光を取り戻したのは白き水であった。白き水は雨となり、永い時間をかけ、黒き雲を洗い流した。そして光が現れた。
 光は、水に感謝した。そして感謝の証として、光は水の中だけを透り抜けることを約束した。それから、水は清らかな透明となった。
 「光が現れた」と大いなる民は言った。これが大きな民の第二期となった。

 大地が穏やかさを取り戻すと、大きな民は植物を放った。そう、荒廃した大地に。
 大地の上には、死に絶えるものもあった。そして、生き残った植物には天を目指す物、地の果てを目指す物があった。海の中に生きる植物には漂う物や根を張る物があった。そして、それぞれが生きる場所を広げていった。この中から我々の生活の糧となる果実が生まれたのである。大地に植物が広まった。
 「実を熟す果樹が根付いた」と大きな民は言った。これが大きな民の第三期となった。

 大きな民は、時を計ろうとした。大きく強く大地を照らす太陽があった。優しく弱く大地を照らす月があった。大きな民は、太陽の照らす時を昼とし、月の照らす時を夜とした。太陽を以って日を定め、年が、そして月が、季節が決められた。
 「時が始まった」と大いなる民は言った。これが大きな民の第四期となった。

 大きな民は、生き物を放った。各種を(つがい)で大地に放った。やがて海には泳ぐもの、空には翼をもって翔けるもの、大地には走る物や這う物が現れた。
 「生き物が現れた。生めよ、増えよ」と大きな民が言った。これが大きな民の第五期となった。

 大きな民は、山を創り始めた。万能の大きな民の男達は、螺旋を描きながら石を軽々と空まで運んでいった。石山は自らの知識を収めるものであった。
 大いなる民は、山の名前を「アッシュ」と言った。「男創りし物」と言う意味である。大きな民は、石版に刻んだ「知識」を高く掲げると石山の中にそれを収めた。大いなる民は、この知識の名を「エッシャ」と言った。「女収めしもの」と言う意味である。大きな民は、「このすべての知識を伝え、与えよう」と言った。そして大きな民は、一際大きな声で言葉を続けた。
「この知識をもって大地を汚すなかれ。我らのように身を滅ぼすこととなるからである」
 そのとき、大きな民に一つ目の戒めが生まれた。これが大きな民の第六期となった。

 大きな民は、一つの仕事を終えていた。安息の時である。創造した生き物を見守ることだけが許され、残されていた。
 安息の中、大きな民の中に約束を違えた二人が現れる。何があったかは定かではない。大きな民は激怒して、彼らを追い放った。大地の上に放り投げたのである。一人は男であり、一人は女であった。大地に人が放たれた。
 大地には幾種もの植物があり、海には幾種もの泳ぐものがいた。天翔けるものも増え、大地を走るもの、這うものも増えていった。男と女は、大地に根を張る果実を食べて暮らした。やがて辺りに果実がなくなると、居場所を変えて消えていった。
「安息の中、事成れり。あらゆる物の住める場所となった」と大いなる民は言った。これが大きな民の第七期となった。

 知識の石山「アッシュ」に、知識「エッシャ」を収めて間もない頃である。大きな民は、多くの人を残して天へ帰っていった。アダンに残った大きな民は、口々に言った。
「私達は罪人ではない。どうして救われないのか」
 その後、遠くで災いの音がした。耳を裂く雷鳴が轟き、大地は長く震えた。激震が治まると、彼方から低い音が這い寄ってきた。その音は少しずつ大きくなる。気がつくと空を覆い尽くすほどの波が聳え立っている。やがて波がすべてを飲み込み、激震に生き残った人々の姿は消えていた。二人を除いてすべての人が消えた。

 大地に放たれた男と女は、林の中でこの音を聞いた。地を這う物の鳴き声かと辺りを(うかが)った。大地には牙を持った地を這う物が息づいていたからである。
 男は、太陽を隠すほどにせり上がる波を見た。山をも飲み込む津波を絶望の眼差しで見つめていた。やがて、女に「木に掴まれ」と言った。
 男と女には最初から言葉はあった。
 そして、木を伝う蔓を引き千切り、近くの大きな枯れ木に体を強く結んだ。男と女は枯れ木にしがみつき、時の来るのを震えながら待った。津波より早く風に煽られ、そして雨が襲った。そして、男と女は消えていった。
 豪雨と暴風と波は、四日間続いた。風が止み、波が穏やかになると雨も弱くなり始めた。五日目のことである。男と女は生きていた。
 二人は目を覚ますと辺りを見回した。遠くに山が見えたが辿り着けない。男と女に水を漕ぐ力は残っていなかった。ただ手を繋ぐ力だけが残っていた。
 それから十五日目に背が大地に触れる。男と女は、ゆっくりと這うように大地に上がり、橄欖(かんらん)の実を口にすると、大地に溶け込むように眠った。
 洪水を生き残ったのだ。そして、男と女は、唯一の「大きな民」となったのである。

 やがて、大地は急激に冷えていった。大地の至るところが氷に閉ざされていく。理由は分からない。辺りは、常に夜明け前のように薄暗く寒い。大きな民は、暖かな場所を求めなければならなかった。永い氷の時代が訪れたのである。
 氷の時代に大きな民に子供が生まれた。子供は、寒さの中にあっても大きく健康に育っていった。男は立派になった子供に言った。
「約束である。今から語ることをお前の子供に、その子供はまたその子供に伝えよ」
 これが大きな民の約束である。

 それから、また星の数だけの時が過ぎてからのことである。氷は緩み、大地に植物が返りつつあった。氷の時代の終わりである。洪水と氷の時代を生き延びた大きな民は、大地の植物、海を泳ぐ物、天翔ける物、大地を走る物、這う物と同様に増えていった。

 それから、また砂の数だけの時が過ぎてからのことである。大きな民と同様に、洪水と氷の時代を生き延びた生き物が姿を変えていた。星の数だけ遡った昔に放たれた四足であったものである。
 彼らは、二足を天に掲げ二足で歩み初めた。大地を二足で歩むものは、大きな民に比べ細く小さかった。大地に「小さな民」が生まれたのである。小さな民の最初に言葉はなかった。
 大きな民は小さな民と暮らし、彼らに知識を与えた。小さな民は言葉を覚えた。種の違う者同志が同じ言葉を理解し得たのである。もはや、小さな民に、背丈以外に大きな民と変わるものはない。小さな民は、大きな民の言葉を聞いた。
「小さな民の祖よ、良いか。大地を汚すなかれ。身を滅ぼすこととなるからである」
 小さな民には、この時から大きな民と同じ一つの戒めがあった。

 小さな民は、大きな民がそうであったように、そして大地の植物、海を泳ぐ物、天翔ける物、大地を走る物、這う物と同様に増えていった。
 大きな民と小さな民は様々な場所で集落を作った。集落から集落が生まれ、また様々な場所へ広がった。

 やがて、その中の幾つかの集落が淫れる。これが時の流れの必然とは思いたくない。小さな民には、力がなかった。大きな民の悪行に小さな民は恐れることでその身を守った。
 幾つかの集落の大きな民は、ありとあらゆる悪行を行った。暴れる者、意味もなく生き物を屠る者、そして人を殺める者が現れた。
 他の集落から盗みを働く者も増え、やがて働くこともしなくなった。酒を飲み、享楽に溺れた大いなる民は、やがて小さな民との淫行を繰り返した。種を越えた淫行は、やがて予期せぬ災いをもたらす。大きな民と小さな民の間に子供が授けられたのである。
 周りの集落の大きな民は、大きな怒りに震え、この集落に石を投げ火を放った。その集落の一つは、ソドムと呼ばれていたらしい。
 そのとき、大きな民は、大きな声で言った。
「姦淫するなかれ。新たな種が我が身を蝕むこととなるからである」
 このとき、大きな民と小さな民に二つ目の戒めが生まれた。

 ソドムに住むすべての民が死んだのではない。生き延びた者もいた。それは、大きな民と小さな民の間に生まれた子供も生きていたことを意味する。大きな民は、新しい民を「罪深き民」と呼んだ。
 罪深き民は、大きな民も小さな民もそうであったように、そして大地の植物、海を泳ぐ物、天翔ける物、大地を走る物、這う物と同様に増えていった。
 大地に「罪深き民」が生まれたのである。罪深き民には最初から言葉があった。

 大きな民は平和をもって身を守り、小さな民は恐れることで身を守り、罪深き民は戦うことでその身を守った。
 時を経て、罪深き民の戦いは姿を変えていく。欲望のため罪深き民同志が争い、力に勝るものがその集団を大きくしていった。
 淘汰が始まる。
 やがて罪深き民の集団の一つが、大きな民の大地を襲った。それから、幾度も大きな民の大地と財産を奪い続けた。罪深き民が、大きな民を駆逐し始めたのである。
 大地はまだ広かった。大きな民は、抗うことなく罪深き民を逃れて東へと旅立っていった。

 罪深き民のすべてが戦いを好んでいたのではない。東の大地の罪深き民は、大きな民を友人として迎え入れた。大きな民は、自らが持つ知識とともに、二つの戒めを伝えていった。罪深き民には、このときから二つの戒めがあった。
 知識は力である。罪深き民は、やがて大きな民を恐れ始める。大きな民の知識を恐れたのである。東の大地の罪深き民もまた、大きな民を駆逐した。
 大きな民は、東の大地に知識と戒めを残してまた東へと旅立っていく。そして、新しい大地でも駆逐され続けるのである。
 陸を歩き、海を渡り、島に暮らす。幾度となく繰り返される旅は、大きな民を船を操る者とした。

 山から海へ流れる黒き水の如く、大きな民の幸福な土地には罪深き民が現れる。すべてを奪い取っていく。そして破壊、略奪は波の数ほど繰り返された。
 行き場所を失った大きな民は、閑居の地を険峻な山地に求めた。誰も知らない山頂に石を用いて静かな小さな町を築いた。しかし、ここも安住の地ではなかった。黒き水が山頂にまで流れ込むのに多くの時間は必要なかった。大きな民はここに滅んだのである。

 やがて小さな民も淘汰と言う名のもとに駆逐され姿を消した。罪深き民の罪深き時代が訪れた。
 大きな民と小さな民の子にして「罪深き民」、これこそが私達なのである。よいか、これが二つの戒めと言葉を授かった私達なのである。

「大地を汚すなかれ。我らのように身を滅ぼすこととなるからである」

「姦淫するなかれ。新たな種が我が身を蝕むこととなるからである」


 灯火が消えかかっていた。そして、アブラハムの命も消えかかっていた。アブラハムは、ゆっくりと体を横たえる。レベッカは、背中を優しく支えてやった。
 アブラハムは、静かに語った。
「これが私の知るすべてであり、私達の歴史である。イザアク、レベッカよ。子に伝えよ。必ず伝えよ。そして知識の石山、アッシュを見るが良い。エッシャに学ぶが良い。それは今でも…今でも、ナイルのほとりに在るのだから…」
 アブラハムは、差し出された水を僅かに口にすると、急がされた者のように語った。アブラハムの目は、既に輝きを失っていた。
「イザアクよ、我々の行いは大きな民の意に叶っているのだろうか…。戒めを、約束を守るのだ。イザアクよ、レベッカよ…讃美せよ、大きな民を讃美せよ…」

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