4. 孤児

文字数 4,765文字




 まるで地下牢のような黴臭い書庫の中で、唯一壁に掛けられた小さなカンテラだけが明かりを発している。闇の中で浮かび上がる書棚に分厚く重い書籍を押し込むと、彼女は壁の光源を取った。
 重い金属のノブを引いて扉を開ける。石壁の廊下には窓ひとつなく、書庫と同じく闇に包まれている。彼女は背後の扉を閉めて鍵を掛けると、カンテラを掲げ慣れた足取りで廊下をわたって行った。
 しかし階段を上り始めて間もなく、すぐに明りが差してくる。太陽光で十分に足元が見えるようになると、アスカは手にしていたカンテラの中身を吹き消した。
 片手にカンテラを提げ、長いスカートから埃を払いながら階段を上る。藍色のスカートとエプロンは王宮で働く女性の制服だったが、その色はまだ若い娘である彼女にも、よく似合っていた。階段を登りきって完全に日の当たる廊下へ出たところで、彼女を待ち受けている人がいた。
「いた!アスカ」
 彼女を見て顔を輝かせたその人は、彼女の友人のアイリーンだった。アイリーンは彼女と同じ年頃の娘でやはり王宮に仕えているが、違う分野で働いているため、同じように藍色だが足首の細いズボンと革のブーツを履いている。アイリーンは一見少女のように小柄で愛らしい娘だが、実は近衛師団に属している戦士である。
「アイリーン、地下書庫まで来るなんて珍しい、どうしたの?」
 彼女が尋ねるが早いか、アイリーンは無言で何度もうなずくと、素早くアスカの腕を掴んだ。
「来て!」
 突然現れるなり慌ただしく歩き始める友人に、アスカは目を白黒させる。
「何、一体どうしたの」
「いいからいいから。このまま城下町まで行くよ」
 ええ?とアスカは声を上げた。
「私まだ仕事中なんだけど。あなたもそうじゃないの」
 するとアイリーンはわずかに歩調をゆるめ、辛うじてアスカに聞こえる程度の小声で言った。
「カーラーさんが呼んでるの」
 そう言った友人の目つきに常ならぬ真剣さを感じ取ったアスカは、そのまま口を噤むと黙って友人に腕を引かれていった。

 ところでアスカは、十歳で農民の両親を亡くし十三歳で王宮に引き取られるまでの三年間、孤児だった。彼女を教会から王宮へ連れ出したのはカーラーである。カーラーも当時はまだ大臣でもない若い王族の一人でしかなかったが、アスカに将来性を見出した彼女は、人脈を使って孤児の少女を奉公人の宿舎へ送り込んでくれた。カーラーがアスカに見出した将来性というのは、アスカがのちに王宮で書庫管理の仕事に回されたあたりから察することができるだろうし、彼女には勤勉さと誠実さという性格の他に、ひとつ特殊な特技もあった。
 王宮での生活と仕事に苦労がないわけではもちろんないが、市井で孤児院を出た子供たちの多くが浮浪者や盗人になってしまう事実を考えれば、アスカは自分の幸運に感謝するほかない。そして彼女の感謝と忠誠は、彼女を拾い上げ、また今も彼女に目を掛けてくれるカーラーに注がれている。
 そしてアイリーンは、アスカが王宮へやってきた時からの友人である。アイリーンの父親はなんとフランツ騎士団長のアンゾであり、だから彼女も女だてらに武器を取って戦うことを学んでおり、また子供の頃から王宮を出入りしている。しかし五人兄妹の末子だからなのかこの娘は随分奔放に育てられており、彼女の母親が農民の出ということもあって、アイリーンは貴族らしく気取ったところが全くない風変わりな娘である。稽古や任務のない時は、彼女はいつも城下町へ出掛けており、アスカはよくそれに誘われている。話を聞いた時は今日もその誘いなのかと思ったのだが、どうやら違うらしい。
 アイリーンは慌ただしくアスカを使用人の宿舎で私服に着替えさせると、彼女を連れて城下町へと出た。彼女たちが門を抜ける時、顔見知りの門兵がアイリーンに向かって声を投げかけた。
「ようアイリーン、昼間っからおさぼりか。パパに怒られるぜ!」
「今日は友達の誕生日なの。みんなには秘密にしといてよ!」
 門兵は「俺にもケーキの残りを持ってきてくれよ!」と言いながら笑った。
 気が向いたらね、と返すと、アイリーンはほとんど駆け足でアスカの腕を引いて行った。
 やがて彼女たちがたどり着いたのは、アイリーンがごく稀にアスカを連れて行く酒場だった。昼間は食堂として開いているそこに昼訪れるのは、アスカには初めてだった。思わずきょろきょろしながら、アスカはアイリーンの後について店へ入る。
 昼間は明かりを点けていないせいで意外に薄暗い店内は、食事のためにやってきたお客でそれなりに賑わっていた。そしてアスカはすぐに、奥の席に座っている人影に気が付いた。革の帽子の中に長い金髪を押し込んではいるが、それは間違いなくカーラーだった。
 カーラーさん、と思わず声をあげそうになったアスカの口を、アイリーンが横から塞いだ。それを見たカーラーが可笑しそうに笑う。
「ごめんなさいね、突然呼び出してしまって」
 いいえ、と首を振りながら、アスカとアイリーンはカーラーの向かいの席に座った。どうやらこれは緊急なばかりでなくお忍びの会のようだと察したアスカは、黙ったまま腰を下ろす。注文を取りに来たウェイトレスに向かって、カーラーは三人分の昼食を注文した。
 ウェイトレスがテーブルを離れるとすぐに、アイリーンが声を低くして「尾行はありません」と告げる。アスカは二人の顔を見比べた。カーラーが頷く。
「あのねアスカ、もうわかってると思うけれど、今日はあなたに、すごく重要なお願いがあって来てもらったの。すごく重要であると同時に、あなたにとっても重荷になると思うわ。だから私から、直接あなたに話したかったの。引き受けるかどうかは後で教えてくれればいいから、まずは聞いてくれるかしら」
 穏やかで落ち着いた口調で、カーラーは話し始めた。いつでも優しく、それでいて頼もしさを感じさせるカーラーは、アスカにとって憧れの対象でもある。はい、と彼女は頷いた。
「ありがとう。…あのね、あなたとアイリーンに、私の弟のエレンを、アストルガスへ連れていってほしいの」
 一瞬、アスカはカーラーの言っていることがわからなかった。エレンという名はフランツでは珍しくないが、カーラーに弟はいない。しかしすぐに彼女の脳裏には、カーラーが弟のように親しくしている相手、フランツの現国王の存在が浮かんだ。そしてアストルガスは、現在交戦中の隣国エールの王都である。アスカは次の瞬間には、目を丸くしていた。
「アストルガスって…」
「ええ、そうよ、もちろん普通の旅行なんかじゃないわ。わざわざあなたたちにここへ来てもらった通り、弟は堂々と日の下を歩けないの。でも長い喧嘩をやめさせるために、彼はどうしても行きたいんですって。私も彼に賛成しているわ。でも言った通り、弟は日の下を歩けない、友達も少ないしね。悩みぬいた結果、私はあなたに弟のお守りを頼もうと思ったの。あなたは私が最も信用できる人のひとりだし、あなたには私の弟を守る力もある。でも、あなたはこれを受けなきゃいけないというわけじゃないわ。だってわかるでしょう、危険な仕事になるかもしれないから」
 カーラーは暗号めいた言い方をしたが、アスカには彼女の言わんとしていることが理解できた。新王のエレンが置かれている不遇、大臣たちの対立について、王宮で働く彼女はもちろん知っている。カーラーがアンゾと同じ和平派で、彼らが今や王宮内での少数派になりつつあること、王宮の中には宰相ブロントの監視の目が張り巡らされていることも知っている。
 アストルガスへは、通常の旅でひと月近くかかる。今は国境での戦のために両国を繋ぐ主だった街道は封鎖状態であり、それを思うと旅は通常以上に困難なものとなるだろう。しかも危険なのは道中だけでなく、目的地に着いてからも同じだ。何しろ彼らは敵地の真っただへ孤軍で乗り込んでゆくのである。
 しかしカーラーが王に協力すると言ったからには、そこに勝機があるのだろう。それにアスカには、彼女にしかない特技がある。
 アスカは結界師だ。この世界には人間にも宿り、多くの動植物を生かしている精霊の力と呼ばれるものが存在しているが、一方でそれとは種類の違う力を宿した生き物たちが存在する。その力は魔霊と呼ばれ、その力を源として活動する生き物たちは魔物と呼ばれる。魔物は長い歴史の上で人間と敵対関係にあることが多く、現在の社会において、人間たちに忌み嫌われている。結界師というのは、定められた術を使ってある一定の範囲を聖域化し、魔霊の力を持つ生き物をその空間から排除する力を持つ人々を指す言葉であり、魔術師や霊媒師がそうであるように、生まれつき素養を持った人間のみがなることができる。その昔カーラーがアスカに見出した能力とは、この結界師の素質だった。
 状況から察するに王は正式な護衛を付けられないのだろう。またそういった条件付きならば、魔物の多い草原を抜けるのに、アスカの能力ほど有効なものはない。
 アスカはフランツから未だ出たことはないし、敵国のエールの、しかもアストルガスへ行くということはとても恐ろしく感じた。また、フランツの国王を守ってゆくという重責は、彼女の肩を押し潰しそうだった。しかし彼女は、ほとんど迷わなかった。いつだって彼女は、カーラーに恩返しをしたいと思っていた。
 いつの間にか、アスカはしばらく無言になっていたようだった。気が付けば、アイリーンが横から彼女の顔を覗き込んでいた。
「…私、行きます」
 彼女がそう言うと、隣のアイリーンが「やった!」と声をあげた。しかしカーラーはまだ先ほどまでと変わらぬ真剣な面持ちで、アスカを見つめている。
「本当に?…私に義理立てする必要はないのよ」
 カーラーの言っていることはアスカの図星を突いていたが、彼女は首を振った。
「私も戦…この喧嘩を早くやめさせたいんです。毎日、どこかで誰かが大切な人を失っているなんて…こんなこと長く続くべきじゃないと思っています」
 そしてまた、これも彼女の本音だった。孤児だったアスカは大切な人を人生から奪われる悲しみや理不尽を知っている。カーラーは、今度は何も言わず、静かに頷いた。
 テーブルには再び沈黙が降りるかと思われたが、そこでウェイトレスが、彼女たちのテーブルに料理を持ってきた。三人の前に食事が並んで店員が立ち去ると、重い空気の残り香を拭きとろうとするかのように、ねえ、とアイリーンが声をあげた。
「それじゃあもう今夜には出発するんですよね」
 それを聞いて、またアスカは目を瞬きさせた。あまりにも早急な話である。するとカーラーが、そうね、と呟いた。
「早ければ早いほどいいけれど。…でもアスカ、あなたは大丈夫?」
 辛うじて荷物をまとめる時間がある程度である。親しい友人たちに別れを告げる暇もない、と考えかけてから、そもそもこの旅は誰にも明かしてはならないものだということをすぐに思い出した。確かにそう考えれば、計画が漏れるリスクを少しでも小さくするためには、彼女たちはできる限り早く出発した方がいいのだろう。
「はい、大丈夫です」
 そう答えて、ふとアスカはもう一つの問題に思い至った。
「…でも、私はフランツから出たことがないですし、アイリーンだってアストルガスまで行ったことはないですよね?その、弟さんは、道を知ってらっしゃるんですか?」
 すると、それに対してはまたも彼女の横からアイリーンが答えた。しかも彼女の顔は、どこか愉快そうだった。
「大丈夫、もう一人道案内がいるから」



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