12. 謡歌

文字数 6,219文字


 その晩彼らは夕食のために、皆で焚火を囲んだ。運んでいた果物やパンを分け合って食事が済んだ後も、彼らは暫くのんびりと火を見つめていた。
 レヴィが小さな弦楽器を膝の上で鳴らしながら、耳慣れない言葉で歌を歌っている。エレンがもう休もうかと言い出さないのは、そのせいもあるのだろうとアスカは思った。陽気だがどこかに哀調を含んだジプシーの音楽は、彼女の耳にも不思議と心地よかった。
 彼女と同じように火を見つめていたエレンが、その時ふと言った。
「君たちは皆音楽を習うのか?」
 言葉はレヴィに向けられたものだ。楽器を奏でていたジプシーの手が止まり、黒い瞳が火をはさんだ向こうのエレンの方へ向いた。
「皆、が習うわけではないかなぁ。でも多分ほとんど皆が、自然と覚えるんじゃないかな。俺は母さんにこれを習ったけれど」
 レヴィはのんびりと答えてから、抱えていた楽器を掲げた。
「弾いてみます?」
 いいや、とエレンは微笑して首を振った。
 すると今度は、それを横から眺めていたディガロが口を開いた。
「…レヴィ、お前さんはご主人たちの道案内なんだろ。今回の仕事で手前はいくら貰うんだ?相場が俺と同じなら、お前らロマには随分な大金じゃねぇか」
 その瞬間、レヴィとアスカの間で弓の手入れをしていたアイリーンの目が、ぎろりと護衛を睨んだ。
「あんたに関係ないでしょ」
 ディガロは彼女を睥睨し、「てめえにこそ関係ねえだろ」と単調に答えた。どうにもこの二人の相性はよくないようだと、アスカは一昨日から思っている。
 一方でレヴィは肩を竦める。
「ここでは言えないかな。俺の流儀じゃないし、品性を損なって旦那に嫌われたくないし」
 へらりと笑ったレヴィを、ディガロはふんと鼻を鳴らして退屈そうに見つめた。一瞬流れた短い沈黙が、なぜかアスカを落ち着かなくさせた。そう、確かに奇妙だろう。厳つい護衛もなしに、ジプシーの案内人と武器を振り回す娘をお供に旅をしている貴族の兄妹などそうそういるものではない。もしかしたらこの男は疑っているのでは、そう思い始めると、アスカはその沈黙をそのままにしておけなくなった。
「ねえ、…あなたは、どうして一人で旅をしているの?その、故郷はどこなの?」
 彼女がそう言うと、彼女から少し離れたところに座っていたディガロの顔が、ちらと彼女の方を向いた。男は首を傾げる。
「別に…俺みたいなのが一人でぶらぶらしてんのに理由なんてねえだろう。他にすることがねえからこうしてるんだ。俺も、まあ俺みたいな奴は大体そうだろ」
 妙なことを訊く女だな、とでも言いたげに、金髪の前髪の間で目が顰められた。すると、今度はエレンも、ゆったりとした調子で尋ねた。
「ディガロというのはこの辺りではあまり聞かない名前だな。出身はどこなんだ」
「…実際、この辺りじゃなく、もっと北東の方だ」
「フィルノルドか」
 エレンが口にしたのは、フランツの北東に広がる草原を越え、聳える山脈も越えた向こうにある北東の国の名前だった。フランツとの間に国交はあるそうだが、もちろんアスカは行ったことも、フィルノルド人を見たこともなかった。
「まあそんなとこだ。森と海しかない、寒いばっかの憂鬱な場所だ。ミースみたいに立派な町もねえしな。あんたみたいな魔法使いもいない」
 気が付けば再びあの両目が自分の方を向いているのに気が付いて、アスカはどきりとした。しかしそこで、エレンが言葉を挟む。
「しかしフィルノルドも、昔は多くの魔術師や預言者を抱えていたんだろう。フィルノルド人の祖先はかつてオークを味方につけて、エルフと争った人間たちだ。結果的には最後までオークと闘った人間たちでもあるが…それについ五十年ほど前まで、フィルノルドの王宮にはソーサリーがいたと聞いている。それは本当かい?」
 そう、エレンの学問における優秀さは、アスカも王宮に努める召使いの一人としてよく伝え聞いている。山脈の向こうの国の歴史くらい、彼にはお手のものだろう。しかしディガロは、眉間に深く皺を寄せた。
「オーク?ソーサリー?俺は知らねえよ、自分が生まれる前のことなんざ。フィルノルドのことも、そこで生まれたってだけで大して知らねえ。俺は学のある貴族様じゃねぇからな」
 しかし一方で、レヴィが身を乗り出した。
「俺は興味あるなあ。俺たちは北へはほとんど行かないからよく知らないけれど、フィルノルド人がオークとつるんでたってことは、フィルノルド人の祖先はガンダルジア人なんだ。オークってエルフと違って、実は結構最近までいたんでしょ?パルティアの山襞の洞窟には、今もまだ連中の生き残りがいるなんてお伽話が、ジプシーの間ではあるんだよ」
 アスカは、隣のアイリーンがどこまでも興味なさげに眠い眼をこすり始めたのに気が付きつつ、しかし彼女も昔学んだ魔術史の記憶を掘り起こそうとしていた。結界師の術を修めるにあたって、その辺りは彼女も王宮で詰め込まれたのである。
「オークが歴史上から姿を消したのは、二百年ほど前、エールとフランツの軍隊の力を借りて、フィルノルドがフーデン・パルティアの戦いでオークの軍団を殲滅し、その生き残りを皆殺しにした時だ。ごく一部は生き延びて、君の言う通り山へ潜ったか、はるか東へ落ち延びていったという説もある。しかしその時から我々人間の間では、オークの姿は見かけられなくなった」
 流暢なエレンの講義が流れる中で、ディガロは荷物の中から水筒を取り出した。中身はどうやら酒らしい。レヴィが言う。
「絶対しばらくはまだどこかにいたと思うな。たかだか数千しか残ってなかったっていっても、ひとつの種を滅ぼすなんてそう簡単じゃないだろ」
「しかし、当時のフィルノルド王スタニスラフは、パルティアの麓で最後のオーク兵の首が落ちるまで、剣を手放さなかったというね。フーデン・パルティア一帯の丘の土が黒いのはオークの黒い血が浸み込んでいるからだと、今でも人々は言う。…実際にはパルティア山脈の土も常に雪に覆われているから僕らが目にすることがないだけで、全て黒いんだけれどね」
 男たちの声を聞きながら、アスカはまだ少女だった頃に習った、人間と異種族たちの間の戦いの歴史について思い出していた。今ではこの地上からほとんど姿を消してしまっているが、はるか昔には、今見かけられる魔物だけでなく人間並み、あるいはそれ以上の知恵を備えた異種族たちが大勢いたのである。
 まず、エルフと呼ばれる、白い皮膚をした賢く美しい生き物たちは、何千年の昔から人間を見守ってきたが、人間が自分たちで歴史を記し始めた頃から数を減らしてゆき、五百年くらい前からどこかへ消えてしまった。少しずつ人間と交流を絶っていったのだという彼らがどうしてどこへ消えたのだか、人間の歴史家たちはまだ解き明かせていない。
 そして同じように古くからいるドワーフやピクシーは、今でも少しだけ人間社会の中で見ることができる。しかしオークが滅ぼされた二百年前辺りから、急速に人口を増やし縄張りを拡張し始めた人間との争いに敗れて住処や暮らしを奪われ、生き延びているものは文明とは離れた野山の中で獣たちに混ざって生を繋いでいるか、人間たちの暮らしの中で奴隷としての生を送っている。
 ソーサリーと呼ばれる者たちは外見が人間と非常に似通っているということ、もとより極端に個体数が少ないこともあって人間と衝突した記録はなく、また人間が修得した魔術の多くは彼らから伝えられたものだというが、エルフのように少しずつ姿を消してゆき、この大陸にはわずかに一人か二人がひっそりと生き残っているだけだという。
 そしてオークはエルフやドワーフと同じくはるか昔からこの地上に暮らしていたが、獰猛な外見と好戦的な性格から、人間には嫌われることの方が多かった。フィルノルドがスタニスラフ王によって統治されていた二百年前には、人間たちの間ではオークを忌避し蔑視する風潮が既に根付いており、スタニスラフは自分たちの国からかつての共闘者を追い出すことを決めた。しかし流民となることを拒んだオークたちの抵抗に遭い、事態は戦争へ発展して、スタニスラフ王は敵を全滅させるまでに追い込まれた。
 オークの最後の王カゾフは彼らを裏切った人間、スタニスラフ王とその子孫を呪い続けると誓った。オークの血には呪いの力があるとされ、呪いを恐れた王は女子供も含めたすべてのオークを最後の一人まで殺しつくすことにしたのである。
 いくらそこに憎しみや脅迫があったとはいえ、いくら相手が自分たちとは似ても似つかぬ別の生き物であったとはいえ、同じように言葉を操って話し同じように感情を抱くことのある生き物を根絶やしにするまで殺しつくすというのは、どういう情緒と判断によるものだろうか。その物語を聞いた日の晩、幼いアスカはそればかりを考えて、ベッドに入っても眠ることができなかった。
 オークは青白い肌をし、黒い血を流すという。その黒い血で大地が染まるほどのオークを、女や子供を含めて、フィルノルドとエールとそしてフランツの人間たちは皆殺しにした。どんな理由があったとしても、そんなことが許されるのか、どうしてそんなことが起きてしまったのか、幼いころの彼女には理解ができなかった。今でもわからない。彼女はただ、そういう時には死んでしまった両親のことを考えた。そんな恐ろしいことが二度と起こることがないように、少女は死んで今はどこか遠くへ行ってしまった両親に向かって呼びかけ、どこにいるのかわからない精霊に向かって祈った。
「……、アスカ、大丈夫かい?」
 はっと、彼女は我に返った。気が付くと離れた位置から、エレンが彼女の様子を窺っていた。彼女は自分が思考に沈んでしまっていたことに気が付いた。彼女は慌てて答えた。
「あ、ああエレ…エレン、大丈夫よ。今日もたくさん走ったし、少し疲れたのかも」
 いつの間にか、彼女の隣のアイリーンは、彼女の肩に頭を預けて船をこぎ始めていた。レヴィとディガロも彼女の方を向いている。レヴィが「アイリーンと一緒に、もう休んだら?」と言った。
 すると、横からディガロが言った。
「おい、アスカが寝ちまってもあの結界ってやつは働くのか?」
 まだ上手く舌が回らないアスカより先に、エレンが答えた。
「ああ。弱い魔物なら結界があるだけでその内側には立ち入ることはできない」
 ディガロは片眉を上げる。「強いやつなら?」
「状況によっては結界を壊すこともできるが、…そういう奴が近づいてきたら、結界に達する前にアスカが気が付くだろう」
 レヴィとディガロの顔が彼女の方を向いたので、アスカは頷いた。
「強いオーラを持ってる魔物なら、見えないくらい離れていてもわかるの。…この草原ではそんなに強い魔物はいないと思うけれど」
「へえ。それもどっかで習ったのか」
 しかしそこで、訊ねるディガロを遮って、エレンが彼女の方へ歩み寄ってきた。
「それより、二人とも疲れてるみたいだ。もうテントも準備できてるし、君はアイリーンと一緒に休むといい」
 エレンがディガロの質問を遮った理由を察して、アスカは頷いた。ディガロは単なる好奇心から訊ねているのだろうが、あまりあれこれと質問されるのは厄介だ。エレンがアイリーンの肩を揺さぶる。
「アイリーン、アイリーン。眠るならテントの中に行くんだ」
 眉間に皺を寄せたアイリーンはぱっと目を開いて、あっと声を上げた。
「えっ、もしかしてあたし、眠ってましたか!すみません」
 いやいやと首を振ったエレンが苦笑する。
「いいんだよ。今は休む時だしね。それよりアスカももう疲れているみたいだし、そろそろテントへ入ったらどうだい?」
「あっ、はい、じゃあそうします」
 まだ半分眠っているのか、どうにもぎこちない動作でアイリーンは弓だけ抱えて立ち上がると、「行こうアスカ」とアスカの腕を掴んだ。エレンはまだ笑っており、つられてアスカも微笑みながら、腕を引かれて立ち上がった。
「おやすみなさい」
 彼女が言う声の後に、男性たちのおやすみという声が返るのを背後に聞きながら、アスカはアイリーンに続いてテントに入った。
 テントの中には既に毛布まで用意されており、やはりまだ寝ぼけ眼だったアイリーンは、おやすみアスカ、と呻くように言うと、さっさと弓を抱えたまま毛布の中にもぐりこんでしまった。
 ブランケットにくるまりながら、アスカはまだ外で男性陣がぼそぼそと話している声を聞いた。何を話しているのかはわからないが、またレヴィが弦を弾きながら歌い始めたのが聞こえた。
 その時になってふと、あの歌が何を歌っているのか、歌詞の意味が気になり始めた。ジプシーたちが哀切をこめて歌うのは、人生の喜悲についてなのか、愛する人々への思いだろうか、それとも彼らが持ちえない故国に対する郷愁についてだろうか。
 そうして次に、彼女はさきほど聞いたオークと人間の争いの物語を思い出した。異種族をほとんど殺して地上から追い払ったのに、今も人間は戦争ばかりしている。どうしてだか彼女にはわからなかった。男の人たちは、人々はなぜ戦争へ行くのだろうと彼女は思う。領土にしろ何にしろ、何かを守らなければならなくなるのは、互いに奪い合おうとするからだ。
 レヴィの音楽が子守唄のように夜の空気に沁み渡り始めるのを感じながら、彼女は目を閉じ、眠る前の最後の意識で、結界の外に何も危険なものがないことを確かめた。ただひとつ結界の内側に彼女に異物感を感じさせるものがあるが、それはあのディガロだ。
大丈夫、心配ない、と彼女は自分に言い聞かせた。彼女たちは無事に旅を終えて、エレンはきっと戦争を終わらせてくれる。そう祈ると、アスカはその長い一日を終えた。







ティプトの宿場街の端にある小さな宿では、鍵棒を持った店主が店の入り口から出てきたところだった。夜も更けて間もなく城門が閉ざされる時間であり、客室が満室とあれば、店主にとって明かりをかかげておく意味はない。
 あざみ亭と描かれた看板の横のカンテラを鍵棒で外している店主に、大きな馬を曳いた男が近づいてきた。店主は顔を上げる。
「お客さん、うちはもう満室なんで、お部屋をお探しなら他へ行ってください」
 男はそこまで長身ではないが、大柄で、熊のような胴体をしていた。黒っぽい外套を羽織り、フードをかぶった頭の顔は星明りの下では全くうかがえなかった。
 何となく不気味なものを感じた店主が身を強張らせると、顔の見えない男は話し始めた。声は闇が地を這うような低音だった。
「この三日ほどで貴族の兄妹を見かけなかったか。若い女とジプシーの男を連れている」
 店主はまず男の声の重さに気を取られそうになったが、すぐに数日前のお客を思い出し、ああと頷いた。
「それなら、いらっしゃいましたよ。…うちに泊まって、一昨日の朝に出られました」
 彼がそう答えるが早いか、外套の男は踵を返すと、曳いていた馬に飛び乗って、もう駆け出していた。
 唖然として残された店主は、大きな馬が人気のない路地を駆けてゆくのを、しばらく見送っていた。



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