16. 戯者

文字数 6,242文字




 街の外郭にある広場には、アスカが初めて見るほど大きなテントが三つ並んでおり、その向こうにはサーカスのキャンプ場となっているのだろう、いくつもの小さなテントや馬車の荷車が見て取れた。広場の向こうには、先にディガロとエレンが向かったはずのコロセウムも見える。辺り一帯は大勢の客やサーカス団員たちがひしめいており、やかましいほどの賑やかさだった。
 実を言うとこのキャンプサイトに着いてから、アスカはどうにも落着かずにいた。結界師である彼女の感覚に、ひっかかるものがあるのだった。必要以上にきょろきょろと人混みを見回す友人に、アイリーンは気が付いたようだった。
「アスカ、どうしたの?」
「うん…ええとね、」
 声のトーンを落としてから、アスカは友人の耳元で、「魔物の気配がするの」と答えた。
「えっ」
 アイリーンが目を見開く。それがすぐに警戒を帯びたものに変わろうとしたので、アスカは慌てて遮った。
「でも大丈夫、魔物の気配なんだけど、なんていうか、そんなに悪いっていうか、濃い感じじゃないの。ゴブリンやワーグなんかよりよっぽど弱々しくて、今にも消えてしまいそうな感じ。多分、サーカスで飼われている動物の中に小型の魔物か何か混ざっているんだと思う」
 それを聞いて、アイリーンが胸を撫で下ろした。
「なんだ、そういうことね。そういえば、サーカスって肉食ウサギとかの小型の魔物を見世物に出してるって聞いたことある。だからミースでは検問にひっかかっちゃって入ってこれないって」
「おどかしちゃってごめんね」
 アスカがすまなさそうに言うと、何言ってるの、とアイリーンは彼女の背中を叩いた。
「アスカがそうやってちゃんと周りを見張っててくれるから、あたしも安心だよ!もう、エレン様はそこらへんも心配してくれないと……まあいいや、とにかく見に行こう」
 主君に対する愚痴を零しかけて、しかしアイリーンはそれをすぐに喉の奥に押し込んだ。彼女の心配性は完全になりを潜めたわけではなさそうだが、ひとまずアスカは頷くと、彼女のあとについて大きなテントの一つへ近づいていった。
 二人はテントに入ろうとして、長い髭の男に呼び止められた。
「お嬢さんがた、入場料を払ってくれ」
「あ、ごめんなさい、わからなくて……いくらですか?」
 アスカが礼儀正しく訊ねると、髭の男は丁寧に答えた。
「お一人三十ルツだよ、お嬢さん。それからこのテントは、魔術と奇人奇獣のテントだよ。他に曲芸のテントと芝居のテントがあるが、それぞれ別に五ルツずつかかるよ。あなた方はこちらのテントでよろしいかね?」
 アスカとアイリーンは顔を見合わせた。アスカの意識には、先ほどからずっと魔物の気配がひっかかっている。奇獣というからには、魔物はその中に含まれている可能性が高い。
「私はここでいいかな。色々見られそうだし」
 彼女がそう言うと、アイリーンも頷いた。
「あたしも動物を見てみたい!ねえ、象はいる?」
 髭の男は得意気に頷いた。
「もちろんだとも、象だけでなく他にも珍しい動物がいくらでもいるよ」
 そこでアイリーンは財布から二人分の入場料を取り出すと、男に手渡した。男が開いてくれた垂幕の入口をくぐって、二人はテントの中へ入った。
 大きなテントの中は薄暗く、人の熱気で満ちていた。観客で溢れつつある客席の前列にはいくつかベンチが置かれているが、殆どは立見席だった。正面には木を組んで作った柵と、その向こうには一応ステージが作られており、ステージの上に立った道化が、客席に向かってこれから始まる演目について説明していた。
 やがて人の出入りが少なくなってくると、ショウが始まった。太った体に芝居めいた貴族の衣装を身に付けた男がステージへ上がってきて、やはり芝居がかった口調で演説を始める。やがて彼の案内に従って、奥から若い娘に曳かれて虎が現れた。アスカもアイリーンも、虎を見たのは初めてだった。観客の誰もが、その巨大な獣を凝視していた。先日アスカたちが遭遇したワーグも大きかったが、この虎はその倍近くあった。
 その後にも、白い猿やオウムなどの珍しい動物や、アイリーンお待ちかねの象などが、次々とステージの上へ現れた。
 また動物だけではなく、三本腕の紳士や異様に大きな頭をした少年など、いわゆる奇形の人々が現れて、それぞれの体格を活かした小さな芸を披露した。
 アスカはああいった体に障害を持つ人々とは、子供の頃に孤児院で一緒に生活したことがあった。彼らの多くは生まれてすぐに両親に見放されてしまうことが多く、孤児院を出てもまともな職にありつくことは難しいと聞いていたが、こうした場所で仕事を得る人々もいるのだろう。アスカには彼らの生き方を貶めるつもりはないしこんな考えはお節介に違いないが、ああして人前へ出て好奇の視線にさらされ、驚きや時に嫌悪の声を聞くのはどういった気持ちだろうかと、彼女は勝手に気を揉んでしまう。しかしそういった人生を選択した人々には、このような同情心こそ侮辱に当たるのかもしれない。彼女はいつも不要なことまであれこれと考えて思い悩んでしまう自身の性情をあまり好きではなく、この時も、できるなら隣のアイリーンのように、感じたものを悪意や衒いなくただ素直に表現できる人であったらばと、そんなことを考えた。
 そんな時にふと、彼女はステージの奥に、あの弱々しい魔物の気配を感じた。一通りの出し物が終わり、上機嫌の観客たちが、次は何だと声をあげている。アスカは何となく、緊張して垂れ幕の向こうを見つめた。
 幕が引かれて人影が現れる。そうしてステージの上に進んできたのは、鎖に繋がれ男に曳かれてやってきた、幼い子供だった。
 観客の中でも主に婦人たちから、ああという同情や不快の声が漏れ、アスカも同じように開いた口を手の平で押さえていた。それを見たサーカスの司会が、まるで慌てた風を装って演説を始めた。
「紳士淑女の皆さん、こちらは一見人間の子供のようにも見えますが、なんと実は魔術達者なピクシーです!今からこのテントの中で、皆さんにピクシーの魔術をお見せ致しましょう!」
 なるほどと、アスカは内心で頷いた。ピクシーは随分と数を減らしたものの、今でもまだ残っている異種族の一種だ。人間によく似ているが体格は十歳の子供程度で、酷く痩せて鼻が低く、大きな目と尖った耳をしているのが特徴である。強い魔力は持たないが幻術を使い、人間の耳に聞こえない音を発することで、それを聞いた生き物すべてに短時間の幻覚を見せることができる。本来は森に棲み、好奇心旺盛な彼らが森を通る旅人に幻覚をかけてその持ち物を盗むといったようなことはあっても、人間との接触が多い種族ではなかったが、近年になると人間たちが娯楽のために彼らを捕らえては奴隷として売買した。群れで生活することを好むピクシーは隔離されると寿命が極端に縮むため、最近はその個体数も減少している。
 アスカはピクシーの取り扱い方も授業のうちで聞いて知っていた。あのピクシーの鎖の先を持っている男は鞭を持っているが、それだけでなくピクシーの幻覚にかからないために耳に詰め物をしているはずである。万が一ピクシーが脱走を考えてその場にいる人間たちに都合のいい幻覚をかけても対応できるように、音の聞こえない見張りを残しておくのである。
「今から皆さんに、このテントの中いっぱいの花火をお見せします!」
 司会の男がそう叫び、ステージの中央に立ったピクシーが、今まで閉じていた口を開いた。その瞬間、なぜかアスカは咄嗟に両耳を手で覆っていた。なぜかはわからないが、反射的にそうしたのだった。その昔授業で、ピクシーが口を開いたら耳を塞ぐようにと、習ったからかもしれない。耳を抑えた彼女の周囲で、他の人々が何もないテントの天井を見上げ、瞳を輝かせて歓声を上げ始めた。
 一方でアスカは、耳をふさいだままステージの上を見ていた。満足そうに幻覚の花火を眺める司会の男、背後に無言で佇む見張りに囲まれて、聞こえない音を発している小さな魔物は、大きな目をいっぱいに見開いてどこかを見ていた。その瞳に浮かんでいる表情が悲しみであることを、アスカは見て取った。誰もが天井を見上げている中で、アスカはひとり小さな魔物を見つめる。魔物の大きな瞳は湖面のようで、やがてはじめから潤んでいるように見えたその水の膜は重く膨らんで、一滴の涙となってほろりと魔物の薄い皮膚の上をこぼれていった。
 アスカは息を呑んだ。先ほどからささくれていた胸の底に、ちくりと小さな針が刺さったようだった。一方で短い幻術は終わったらしく、人々は歓声を上げるのをやめると、名残惜し気に天井を見遣りながら、感嘆の溜息をもらしていた。
 ピクシーは再び口を閉じると、まるで命のない操り人形のように項垂れた。恐らくアスカ一人が、あの生き物が泣いていたのを見ていた。あるいはピクシーの背後にいる見張りもそれに気が付いていたかもしれないが、一顧だにしている様子はない。
「アスカ、すごかったね!」
 隣のアイリーンの興奮した声が、彼女をサーカスの熱気の中に連れ戻した。
「すごくきれいだったね、あたしあんなの初めて見たよ」
 耳を塞がなかったアイリーンは、アスカが見なかった美しい花火に見とれて、ステージの上で起きていたことは気が付いていなかったのだろう。アスカは何と返事をしたらよいか咄嗟に判断できず、同じものを見てもいないのに、ただ頷くことしかできなかった。
 ステージの奥の垂れ幕の向こうに、再び鎖に曳かれて小さな影が消えてゆく。アスカはその後ろ姿が消えた後も、弱々しい気配が遠ざかってゆくのをずっと感じていた。

 テントを出た後も、アスカの意識の隅に、あの魔物の気配が残っていた。
 乾燥して埃っぽい広場には、ショウが終わってテントから流れ出てきた人々が溢れている。テントの他にも露店や曲芸の小さな舞台がいくつも点々としており、サーカスの興業が終わった後も、人々はそれらを見て回っているのだった。動物や魔物の仮面が並べられた屋台の前に群がった子供たちが、きゃっきゃと笑い声をあげている。
 アスカがまだ浮かない顔をしているのにアイリーンが気付かないはずがなく、だまし絵の露天を見ていた彼女は、隣に立っている友人の顔をとうとう心配そうに見つめた。
「…どうしたの、アスカ。まだ魔物の気配が気になってるの?あれって、多分あのピクシーでしょ。別にあたしたちが心配するようなものじゃなかったじゃん」
 そう、彼女の意識に引っかかっているのは、そのピクシーだった。しかし、彼女は自分が感じていることを友人に言うべきかどうかわからなかった。
「ううん…大したことじゃないんだけど……」
 何でもないと言えば嘘になるので、彼女はそういう言い方をした。しかしやはりそれは、アイリーンを納得させる言葉にはならなかった。アイリーンはアスカの手を取るとそれを引っ張って、だまし絵の露店を離れた。
「大したことじゃないなら、そんな顔しないでしょ。何、どうしたの?何か気付いたことがあるなら教えてよ。あたし鈍いんだもん、アスカが教えてくれなきゃわかんないよ」
 アイリーンはそう言って、アスカの腕を撫でた。短気で自己主張の強いアイリーンと遠慮がちで奥手なアスカはまるで正反対だが、彼女たちには思いやりという共通点がある。アスカはアイリーンの優しさを知っているし、友人を心配させるよりはと思い、感じていることを話すことにした。
「…あのね、大したことじゃないんだけど。さっきサーカスでピクシーの幻術を見たでしょ?」
「うん、すごくきれいだったね」
 そうアイリーンは頷いたが、アスカは首を振った。
「実は私ね、幻術を見ていなかったの。ピクシーの幻術は、耳を塞げば見えないの。昔学院でそうしろって習ったせいか、私思わず耳を塞いじゃったんだけどね、私代わりに、ピクシーを見ていたの」
 そこでアスカは一呼吸置いたが、アイリーンは黙って彼女の顔を見つめている。アスカは続けた。
「私ね、ピクシーが泣いてるのを見ちゃったの。……皆が幻術に見とれてる間、あの子は声も上げずに泣いてたのよ。それを見たら私、…私はどうしてこんな場所にいるんだろうって、思えてきてしまって……」
 自分の呼吸が浅くなっているのを、アスカは感じた。喉の奥が塩辛い。こんなことをアイリーンに言っても仕方ないのに、と彼女は思う。ピクシーは魔物であり、結界師でもある自分が魔物に同情するのもおかしな話だろうと思う。何より、人間同士が争うのを止められないのと同じにピクシーがああして舞台に立たされることも、恐らく彼女にはどうしようもないことなのだ。
 アイリーンはしばらくアスカの腕に手を添えたまま、俯いた彼女の顔を見ていた。アイリーンを困らせたかもしれない、アスカはそう思った。しかし彼女の友人は突然アスカの腕をつかむと、大股で歩き始めた。
 ぐいぐいと腕を引かれ、思わずよろめいたアスカの頭上に疑問符が浮かぶ。
「ど、どうしたの?」
「アスカ、あたしいいこと思いついた」
 アスカを引っ張りながら、アイリーンが振り返る。その時振り返った彼女のただでさえ実年齢よりも若く見える顔は、悪巧みを思いついた悪戯っ子の表情をしており、ほとんど子供のようだった。
「あのピクシーを逃がしてあげようよ」
 え、とアスカは声を上げる。
「逃がすって…」
「ミースでは罪人以外の人間を奴隷として売買することは禁止されてたでしょ?エレン様はきっと、そのうちその法律を他の都市にも広げるだろうって、前パパが言ってたの。アスカはつまり、ピクシーだって人間と同じように扱ってあげないとかわいそうって思ったんでしょ?だったら、あのピクシーを助けてあげようよ。エレン様だってきっと怒らないと思うよ」
 アイリーンはにやりと笑うと、前を見据えて大股で進み始めた。どうやらテントを回り込んで、キャンプサイトの裏側へ入るつもりらしい。アスカは慌てた。
「でも、そんなことしたら…」
「大丈夫大丈夫、知ってるだろうけそ、あたしチビの悪ガキだった頃は兄ちゃんたちと一緒に城下へ行って、鶏逃がしたり林檎を盗んだりしてたからね。もちろんパパには今でも秘密だけど」
 アスカは戸惑ったが、そのままアイリーンに手をひかれていった。昔からアイリーンは、こうしようと決めるとなかなか意見を曲げない。きっとアスカの悲しみを真摯に受け止めてくれた彼女は、今も同じように決意を固めたに違いない。
 トラブルは避けなければいけない、エレンの言葉を思い出しながら同時にアスカは、二日目のティプトの時から自らトラブルに巻き込まれていくアイリーンの行動パターンを思い出していた。あれほどエレンを心配して彼を守ろうとしているくせに、彼女はリスクを冒すことになったとしても、困った人を見ると放っておけないのだ。後先考えない向こう見ずな行動には違いないが、悲しむばかりで何もできない自分よりよほど良いとアスカは思う。そして結局彼女は、友人の向こう見ずに付き合うことにした。何よりアスカも、あの可哀想な魔物を救ってやれるなら、そうしたいと思っていた。



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