48. 意志

文字数 5,935文字



 アスカは走っていた。彼女の前を、ネイを抱えたエレンが走り、その前をレヴィが先導している。彼らは夜明けの静寂の中にあった城下町を抜け、街の外れに続く林の中へ入った。曲がりくねる下道を走り回るうちに追っ手を残らず撒けたのは、幸いとしか言いようがなかった。
 林の中をうっすらと続く小道を辿ると、やがて薄暗い木々の間に古い小屋が見えてきた。レヴィは茂みをかき分けてその小屋へ近づいてゆき、彼らもその後を追う。朽ちかけた建物は、今は使われていない猟師小屋のようだった。
 扉のない戸枠をくぐると、レヴィは小さな部屋の奥へ入って行き、崩れかけた暖炉の前に立てかけてあった木板を取り払う。暖炉の中には鞄が入っていた。
「レヴィ、荷物の中に薬はあるか」
 ジプシーの隣に膝をついたエレンはそう言いながら、ネイの体を落ち葉の散らばる床の上に横向きに寝かせた。
 レヴィが「あります」と答えるや否や、「よし」と頷いた王は、薄い体を貫いている矢の両端を掴んで、それをぼきりとへし折った。
 魔法使いが呻く。アスカは両手で口元を覆った。レヴィは慌てて鞄を開くと、粉末状になった薬草の瓶と止血用の布、革の水筒をエレンに手渡す。青年は魔法使いの上着の合わせ目を開く。水筒の水で傷口を流した後、エレンは手早く薬を傷口へ擦り込み、その上から布を巻き始めた。
 止血帯で胴を締め上げられた魔法使いは一度呻いたが、唇の端をにやりと持ち上げると、「王子様の助平」という小さな声を漏らした。エレンが笑う。
「大丈夫そうだな。その調子でいてくれなければ困る」そう言った彼の隣で、レヴィが胸を撫で下ろしていた。
「ディガロは戻るのか。合流地点はどこだ」
 エレンがレヴィに向かって問うた。レヴィの表情に影が差した。「ディガロは……」
 途中まで発された台詞に、アスカの意識も傾けられていたが、彼女は次の瞬間、ぞわりと背筋が粟立つような悪寒を感じた。
 悪い気配が、彼女の感覚の中へ入ってきた。彼女はこの気配を知っている。
「来る……」
 彼女は知らぬ間に、呟いていた。その気配は速度をもって彼らへ近づいてきている。それが森の中の小道を駆け抜け、この小屋へ向かっているのが彼女にはわかった。皆が、彼女の顔を見上げていた。
「何が来る」エレンの表情が厳しくなっていた。
「オークの血を持っていた刺客…、陛下を殺しに来ます。今すぐにここを出ないと」
 皆の顔色が変わった。レヴィが「どうして」と、独り言のように呟いた。しかしアスカはああ言ったものの、もう手遅れであろうと感じていた。悪い気配はもうそこまで近づいている。
 レヴィが荷物を背負い、弓を手に取った。エレンはネイを抱え上げようとしたが、魔法使いは彼の動きを手で制すと、「大丈夫、走れるよ」と唸るように言った。
 駆ける鼓動と焦燥に突き動かされて、アスカは誰よりも先に小屋を飛び出すと、今は見えぬ追跡者の姿を、小道の向こうに見つめた。彼女の後からネイと彼女を支えるエレン、その後にレヴィが続く。「こっちです」と言うレヴィが駆け出すと、エレンとネイがそれを追う。アスカは近づいてくる気配を振り返りながら、彼らの後を走った。
 こちらには怪我人がおり、そう速くは走れない。彼らを追ってくる気配は、彼らより速い。アスカは走りながら何度目かに、肩越しに薄暗い森の中を顧みた。とうとう、人影が現れた。大きな斧を構えている。
「陛下…!」
 彼女はもう逃げきれないことを悟り、言った。三人が振り返る。そうなれば闘って相手を倒すしかない。しかしこちらにある武器らしい武器はレヴィの弓とダガーだけだった。レヴィはエレンに合図され、腰に提げていたダガーを抜くと、それを彼に手渡した。エレンが言う。
「アスカ、ネイ、君たちは先に行け」
 魔法使いが首を振った。
「一回やられてるんでしょ。君たちじゃあいつをどうにもできない」
 アスカも動かなかった。そもそも彼女は、エレンを守るために彼の側にいるのだ。一人で逃げても意味がないと、彼女は思った。レヴィが弓を構えようとしたが、ネイが首を振った。ジプシーは何か言いかけたが、矢は弓に番えたまま、ためらいがちに武器を下ろす。
 近づいてくる魔物を見つめながら、ネイが前へ進み出た。彼女の顔は痛みのために蒼白だったが、魔法使いは杖を握り締めると、三人の前に立った。
「できるのか」
 疑問を抑えきれなかったというような声でエレンが言った。魔法使いはそれには答えず、アスカを振り返ると、「お守りは持ってる?」と訊ねた。
 今の今まで忘れていたが、アスカは何を尋ねられたのかということにすぐに思い至ると、襟の中に落とし込んでいた、アミュレットを掴み出した。ネイに渡すために外そうとすると、魔法使いは首を振り、浅い呼吸の声で言った。「ううん、それはお姉さんが、そのまま持ってて」
 魔物は彼らに逃げる気がないとわかったからか、徐々に速度を落とし、ゆっくりと近づいてきた。やがて先頭のネイからいくらか離れた場所で、魔物は立ち止まる。何故か魔物はエールの制服を着ていたが、見るのも無残なほどに肩口が引き裂かれ、その分厚い腕の先からは、黒い血が滴っていた。
 初めにレヴィが口を開き、震える声を発した。
「……ディガロは」
 魔物は、遠くでごろごろと鳴る雷のような低音で答えた。
「死んだ」
 アスカの胸に、強い痛みが走った。レヴィがそう訊ねた経緯はわからないが、先ほどのジプシーの陰った表情と今の回答は、一致している。
「ここで旦那を殺す意味ないだろ。陛下には、あんたの呪いがかかってる」
 ジプシーが続けた。魔物は赤い瞳を動かさないまま、また低い声で答えた。
「殺さない意味もない。邪魔をするなら、全員殺す」
 エレンとレヴィが息を呑むのをアスカは聞いた。魔物は斧を構える。ネイが杖を握る手に力を籠め、魔物が駆けだしたのと同時に、古い言葉を呪文として叫んだ。
 魔物の動きが突然糸に縛られたかのように止まる。赤い瞳が見開かれ、青白い顔に怒りが灯った。ぎりぎりと奥歯を噛みしめながら震える拳と膝を進めようとする魔物と、魔物と同じくらい震えている手で杖を握り締めている少女が睨み合う。状況を察したエレンがすぐに動き出した。彼はダガーを構えて魔物へ斬りかかった。
 雷鳴の咆哮が響き渡り、短い悲鳴を上げたネイが仰け反って倒れる。彼を縛めていた糸を引きちぎった魔物は、彼の頭を狙って振り下ろされたダガーの刃を、腕を犠牲にして受け止めた。
「ネイ!」レヴィが魔法使いに駆け寄り、地面に打ち付けられる前に小さな頭を受け止めた。少女の胴に巻かれている止血帯に、赤い染みが急速に広がり始めていた。
「ぐ…!」エレンは呻きながらも、彼の胴に叩きこまれる敵の蹴りを多少は予測していたのだろう、彼は僅かに身を捻ったものの、刺客に蹴飛ばされて軽々と吹っ飛んだ。
「やめて!」
 赤い目が振り返った。気が付けば、アスカは叫んでいた。
 一瞬魔物の動きが鈍る。その隙に、彼女は相手と仲間たちの間に入った。彼女は目の前の生き物を見据えた。
 赤い両目を見つめる。それは色が異なるだけで人間と同じものであろうに、全く底のない、洞穴のような瞳だった。呪いを発する生き物の瞳だ。目の前の人影は人の形をしているが人でなく、魔物のようだが魔物でもない。魔物でないものを結界師の結界は阻むことはできないとされている。しかし彼女の目の前にいるのは憎悪の権化だ。
 彼女は森で出会った魔法使い、彼女にアミュレットを授けた人物の言葉を思い出す。結界師の術は、彼女の持つ力の一部を定式化したものにすぎない。果たして彼女が本来防いできたのは魔物だっただろうか。いや違う、彼女が防いできたのは、悪意だ。彼女の大切な人々を傷つけようとする意志を、彼女は退けてきた。
 彼女は結界を作った。
 作り方は知っている。彼女の意志と願いに従って、彼女を中心にして彼女の力が放射状に広がってゆく。彼女の力は想いだ。彼女は心の中で唱えた。
『害するものは近寄れない。憎むものも立ち入れない。あなたがここに入れるのは、憎悪を忘れたその時だけ』
 刺客の両目が見開かれた。その生き物は突然現れた見えない霧が彼にとって恐ろしい毒であるかのように、呻き声を上げて大きく飛び退いた。空洞の両目が混乱と畏怖とで満たされる。
 しかし刺客は諦めない。怪物は何かに怯え、指先を震わせ歯を食いしばりながらも、結界の奥へ突き進もうとした。
 アスカは両手を握り締め、意識を集中する。意思を強く持たなくてはならない。彼女はあの怪物を拒んでいるのではない。彼女が拒むのは悪意ある意志だ。悪意の逆は善意だ。彼女が力の源とするのは善意でなくてはならない。彼女は彼女の結界の中にいる仲間たちを愛している。彼女の善意を受け取ることができない者は、ここへ入ることはできない。
 怪物が呻いた。見えない何かに抵抗するように、彼は進もうとする。何十倍にもなった重力に逆らいながら、やっと立って歩こうとしているような動きだった。アスカは目を閉じた。悪意ある者が彼女の結界に入ってくるのは、彼女の善意が足りないからだ。
「害するものは近寄れない。憎むものも立ち入れない。あなたがここに入れるのは、憎悪を忘れたその時だけ」
 今度は声に出してそう言った。それは呪文だ。呪文は何も決まった古い言葉である必要はない。呪文はそれを聞くものへ聞かせるための言葉だ。彼女の意思は言語を媒介としてすべての場所と意識へ届く。唸り声を上げた刺客が、その手から斧を落とした。
 オルグォは正面から吹き付ける力に抗いながら、抵抗の中心にいる娘へ辿り着こうとした。娘がどんなまやかしをつかったのかはわからない、しかし彼の体は自分のものでないかのように重く、風も吹いていないのに感じる抵抗は、嵐のように強力だった。
 指先を伸ばして少しでも魔術師に近付こうとするが、娘に近付けば近づくほど、体の動きは重くなり感覚は麻痺してゆく。やっとのことで伸ばした腕の先半分が、まるで燃えて灰になってしまったかのように感覚を失ってしまった。しかし彼はまだ肘の先についている腕もその先の指も見ることができる。そしてさらにその先にある、両目を閉じた娘の顔も。
 うううう、と彼は唸った。どうして、なぜだ、と彼は思う。なぜ彼はあの人間の王を殺すことができないのだろう。なぜこんなにも体が重く、脆そうな人間の女に近付くことすらできないのだろうか。
 こんな人間は早く片付けて目標を遂げなければならない。こんな人間を殺すことは彼の望んでいることではない。そうだ、と彼は思い至る。彼は別に目の前の娘を憎んでいるわけではないのだ。彼はただ彼に宿る血の呪いを遂げようとしていただけだ。彼は復讐を果たそうとしていただけだった、見たこともない仇と彼自身の痛ましい過去に対して。
 彼は少し娘に近付いたが、とうとう視界までもが鈍くぼやけてきたことに気が付かなかった。ただ彼は悲しくなった。彼の復讐は遂げられず、遂げることができたとしてもそれは空虚だ。殺したい、という飢えを満たすのは一時の達成感だけだった。それは無限の渇きで、彼が欲しいものは永遠に手に入らず、もしかしたら、本来はそんなものですらなかった。
 彼は初めて、本当に目の前の娘を見た。
 娘の両目を閉じた顔は、彼の知らない全てを知っているように見えた。うつくしい、と彼は思う。彼の言語にも、その言葉はあった。ただ忘れてしまっていただけだ。そしてそう思った瞬間、彼は自分の中の何かが何かから切り離されたのを感じた。彼の目尻から涙が伝い落ちた。意識が途切れてゆく。怒りで組み立てられていた彼の意識はばらばらに砕けて、白い闇へ溶けていった。
 アスカの目の前で、魔物の体が崩れ落ちた。
 音を立てて、厚みのある体が地面の上に倒れる。アスカは同時に、はっと息を吐いて、目を開いた。
「アスカ!」
 泣きそうな声を上げてレヴィが飛びついてきた。彼は本能的に、アスカの肩を掴んで彼女の体を魔物から遠ざける。エレンは地面に倒れ込んだまま、唖然とし、彼女と土の上の魔物とを見比べていた。
 胸を抑えながら体を起こしたネイが、アスカに向かって笑いかけた。「流石、あたしが見込んだお姉さんだわ」
 その言葉でやっと我に返ったアスカは、レヴィの手を取りながら、まだ何かに浮かされたように、とにかく思いついたことを口にした。
「私たち、行かなきゃ。エール兵が来るんでしょう」
 頷いたエレンが立ち上がり、ネイが立ち上がるのを手伝った。
「次の小屋に、馬を隠してある」
 レヴィが言い、手にしたままだった弓と矢をそれぞれ背負いなおした。彼らは先ほどの続きのように、ばらばらと森の小道を駆け始める。
 アスカは彼らの後を追う前に、一度だけ地面の上の魔物を振り返った。
 彼女はその生き物のために、少しだけ悲しみを感じた。しかしすぐに踵を返すと、仲間たちを追って、落ち葉を踏みながら走り始めた。







 オルグォは目を覚ました。彼は、森の中の細道の上に倒れていた。
 体のあちこち、特に肩と首筋にひどい痛みを感じていた。何故だろうと記憶を辿ろうとするが、彼は何も思い出すことができない。彼は自分が何者であるかも、思い出すことができなかった。ただ以前もどこかで似たようなことが起きたような、この感覚を知っているような気がするという不思議な気分だけを、彼は感じていた。
 体を起こして、落ち葉の敷き詰められた土の上に座る。木々の葉の色を見て、秋だろうかと彼は思う。
 足音が聞こえて、彼はその音源の方向へ首を回した。人型の生き物が、何人か近づいてくる。誰もが赤っぽい服を着て手に何か獲物を持ち、駆け足で彼の方へ近づいてくる。彼は自分の胸から下を見下ろし、自分も彼らと似た服を着ていることに気が付いた。
 彼らは怒っているようだ。彼らは口々に何かを叫びながら、彼を取り囲んだ。彼は立ち上がろうか迷ったが、体中が痛くて、何より酷く疲れていた。
 人間たちの一人が、彼の側に落ちていた大きな斧を拾った。男は彼の前に立つと、武器を振り上げる。死ぬのかもしれない、と彼は思う。しかし生きているものは必ず死ぬのだ。それは悲劇などではない。少し彼は寂しく感じたが、彼はもっと酷い孤独を知っているような気がした。
 彼は彼の頭上に振り下ろされる斧の動きを、ゆっくりと見つめていた。



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