36. 虜囚

文字数 5,270文字




「何だお前は、フランツの密偵か?」
 兜の隙間から彼を睨んだエール兵は、エール訛りでそう言いながら、エレンの腕に縄をかけた。エレンは水で貼り付いた前髪を払う自由も与えられないまま、短く「使者だ」とだけ答えた。
 濡れた体が凍えているが、今はそれどころではない。また彼は首を回して、川の中から引っ張り上げられたアスカが、兵に押されてよろめきながら歩いてくるのを見た。同じく彼女も水浸しだ。
「しかし、なんだって使者が女連れなんだよ?」
 アスカを連れてきた兵が言った。エレンは答える。
「彼女は結界師だ。我々は戦場を避けて森を渡ってきたが、魔物の多い地域を旅するのに彼女が必要だった」
 そりゃ大したもんだ、とエレンを捕えている兵が呟いて、素直に驚きを表現した。物腰からして、この男がこの小隊の隊長のようだった。
 その時、ディガロとレヴィに矢を射かけていた二人が馬ごと近寄ってきて、「沈みました」と報告した。
「死んだか?」という隊長の問いに、「多分。この流れじゃ、どっちにしろ相当流されてるでしょう」と、別の一人が答えた。
「流された二人は?」と隊長格が訊ねる。エレンは、「護衛と案内人だ」と答えた。
 真実かつ、もっともらしい回答だった。エレンは今この連中に、自分達をフランツ側からの重要な使者であると認識させ、無傷でエールの権力者、最終的にはデロイ王のところまで送り届けさせられないかと考え始めていた。捕えられてしまった以上、それ以外に彼が望む方法はない。ディガロとレヴィが生きていれば自分たちを救いに来てくれるかもしれないが、淡い期待を抱きながら延々と待ち続けるわけにはいかない。
 エール兵の隊長はじろじろとエレンを見つめると、訝るような口調で言った。
「フランツの…お役人てところか。どこへ行って誰と会うつもりだった」
「まずは君たちの司令官に会わせてほしい」
「誰に会うつもりだった」
「あなたには言えない」
 エレンにとって交渉の相手は目の前の小隊長ではない。彼が黙っていると、男は黙って鼻息を吐き、後方の部下を振り返って合図した。
 アスカに縄をかけていた兵士が、彼女を担ぎ上げて別の兵が跨っている馬に押し上げた。短く上がった彼女の悲鳴を聞いて彼は身構えたが、兵たちは彼女を馬に乗せただけだった。アスカと同じ馬に乗っている男はエレンの視線に気がつくとにやりと笑い、しかし何も言わなかった。
「てめえは自分の足で走るんだぜ」
 別の兵がエレンに向かって言い、しかし隊長が首を振った。「お前の馬に乗せろ。すぐに日が落ちるし、かといってそいつを引きずり回して殺すのは我々の仕事じゃない」
「黙ってりゃ誰も気付きませんて」
「……つまらん遊び心を起こして参謀殿に真っ二つにされたいなら好きなようにしろ」
 威圧するように部下に言い放つと、隊長は両腕を使えないエレンが馬に乗るのを手伝った。エレンは緊張を隠しながら、この小隊長が話の通じる人物だった幸運に感謝した。
 馬上に押し上げられてからエレンは、ネイが飛び込んでいった小屋を見遣った。エール兵たちが小屋を捜索する気配はなさそうだ。
 エレンが前回毒を抑えるための施術を受けてから三日が経過しており、ネイは今夜もう一度施術が必要になるだろうと言っていた。仮にこのエール兵たちが彼らをデロイ王の元へ届けてくれたとしても、ネイがいなければ彼は目的を果たすことができない。しかしこのままエールのキャンプで彼らが処刑される可能性もある。ここで無理やり魔法使いを引きずり出して同行を頼んだところで、彼女の同意を得られなければ彼は治療を受けられない。
 彼が焼け落ちた小屋から目を逸らした時、その中から小柄な老人が歩み出てきた。
「待ってくれ」
 馬を発進させようとしていた男たちが、しわがれた声のした方を振り返る。老人はネイだった。彼女は苦手だと言っていた幻術を使ったらしかった。ひとまずエレンの目から見ても、今の魔法使いは完璧に白髪の老人の姿をしており、声もそのものだった。
「わしはその方の従者だ。わしを一緒に連れて行ってくれ。隠れておったが、こんなところに一人で残されても野垂れ死ぬだけだ」
 隊長格の男は老人を一瞥した後、別の兵に目配せした。命じられた兵は舌打ちをしながら、ドワーフのように小さな老人を馬の上に引き上げる。あまりに弱々しい見た目の従者には、彼らは縄すらかけなかった。エレンが魔法使いを見つめると、老人は「若様、お気遣いだけ、頂いておきます」と殊勝そうに言った。
 今度こそ兵たちが馬の腹を蹴ると、捕虜を捕えた一団は焼け落ちた集落の中を駆け始めた。エレンは遠ざかっていく川べりを振り返る。ディガロとレヴィがあの場で死んだとは思えなかったが、もしかしたらもう二度と、彼らに会うことはないかもしれないと、彼は思った。







 五騎の騎馬隊がキャンプへ辿り着いたのは、既に日が落ち、月が夜空を照らしている時間だった。
 走った時間の長さと方角を考えると、キャンプはエール側の港町エルレの郊外に位置すると思われた。騎馬達は厳めしい木の柵を回り込み、門前まで来ると、門番といくらか言葉を交わした。すぐに門が開かれ、騎馬隊は柵の内側へ迎え入れられた。
 三人の捕虜はキャンプの中でも捕虜を収容しているらしい小屋へ連れていかれると、腕に縄をかけられた状態のまま、小屋の一つへ放り込まれた。突き飛ばされた時に地面についた膝をすぐに上げると、エレンはここへ着くまでにも何度か兵士たちに試した質問を繰り返した。
「指揮官に会わせてくれないか。ここの司令官は誰だ」
 しかしながら、彼らをここまで送り届けた小隊長は彼に一瞥もくれず扉を閉めると、入り口に閂を掛けて去っていった。
 閉じられた扉の前で立ち尽くし、エレンは暗闇の中、その木の扉を睨んだ。小屋には小さな明り取りの窓があるだけで、その他は殆ど暗闇だった。
「これって、いい状況?それともあまりよくない状況?」
 静かに、ネイの声が言った。魔法使いはいつの間にか少女の姿に戻っており、地面の上に座り込んでいるアスカに寄り添っていた。アスカは疲れ切ったように両目を閉じている。濡れたまま馬の上で揺られてここまで来た彼らは、凍えきっていた。
「…この後、彼らが僕を無事にここの司令官に引き合わせてくれるか、またその後その司令官が僕らをどう扱うかで、先行きは全く変わってくる。当初の計画が完全に狂ってしまったことを考えれば、状況は良いとは言えない」
 魔法使いは頷いてから、「寒くない?」と訊ねてきた。エレンは頷き返す。
「寒いが、僕は大丈夫だ。もし何か使える魔法があるなら、アスカをどうにかしてやってくれないか」
「了解」と小さく言うと、魔法使いは耳慣れない言語を呟きながら、アスカの肩や腕をゆっくりと撫で始めた。彼女がしばらくそれを繰り返すうちに、アスカの震えは止まり、緊張で強張っていた表情がいくらか和らいだように見えた。
「…ありがとう、ネイ」
 アスカが言うと、魔法使いは首を振った。
「この程度何でもないよ。王様もこっち来て、今度はあんたの番。今晩ほっといたらまた前みたいに身動き取れなくなるよ」
 やむなくエレンは手招きされるままに娘の前へ歩いてゆくと、彼女の指示に従って床の上に腰を下ろした。
 ネイはまた何か聞き取れない言語で呪文を呟きながらエレンの額や胸に触れ、彼は娘の掌が彼の体に触れるたびに、強い熱が体の中を駆け巡るのを感じた。恐らくそれらが、彼の中に流れているという血の中の毒を、一時的に弱めるのだろう。
 魔法使いの施術が終わって間もなく、小屋の外から人の話す声が近づいてきた。エレンがネイに向かって、「幻術を」と言うと、魔法使いは早口に何かを呟いた。
 それとほとんど同時に、小屋の閂が上げられる音がして、扉が押し開けられた。
「俺への使者というのはどいつだ」
 まだ若い男の声がする。訪れた足音は三人ほどで、そのうち先頭に立っている男がカンテラを掲げながら、狭い小屋の中へ入り込んできた。その背後には鎧姿の兵士が控えている。
 現れた男はエレンと同じくらいの年齢だろう、しかし彼よりもいくらか上背が大きく、がっしりとした造りの体躯の上に赤々とした金髪に縁どられた頭を乗せている。面相は男前といえるが、青い双眸は濁り、カンテラの不安定な明かりの中でもわかるほど酔っているのがわかった。
 エレンはこの青年が誰だかすぐに見当がついた、エールの第一公子クインである。そうだとすればこの男がこのキャンプの指揮官であり、まさにエレンの願いは聞き入れられたことになる。
 公子は明かりで小屋の中を照らし出し、捕虜の姿を見ると楽しそうに大声をあげた。
「おい、娘がいるじゃないか!どういうことだ」
 そう言いながら、公子は背後の部下を振り返った。青年は腰に剣こそ剥いでいるが、鎧も着ておらず、上着を羽織っただけのシャツの胸はだらしなく開いている。
「結界師と付き人だって聞いたんですが…女は恐らく結界師でしょう」
 兵の一人が慌てたように答える。いつの間にかネイは、先ほどの老人の姿に化けていた。
「女連れの密偵とは珍しいな。おい娘、顔を上げろ」
 公子は狭い小屋の中を大股で進み、エレンの横をすり抜けてアスカへ近づこうとした。しかしそこでエレンが立ち上がる。
「失礼する」
 堅い声に遮られ、男は眉を顰める。エレンは構わず話した。
「この基地の司令官殿とお見受けした。私はフランツからの使者だ。貴殿に話がある」
 公子は目の前に立ちふさがったエレンと座ったままのアスカを見比べ、自分よりいくらか背丈の劣るエレンを見下ろした。
「使者な。よかろう、俺の用が済んだら相手をしてやる。おい娘、顔を上げろ」
 命じられて、恐々とした表情のアスカが顔を上げた。「ふむ」と頷いた公子の横顔に、エレンは再度食いついた。彼の腹の中で、癇の虫が苛々と喚き始めている。
「貴殿は公子クインではないのか。その者はあなたが話をする相手ではない。あなたはまず、私が何者か尋ねるべきではないのか」
 再び遮られて、公子は明らかに苛立ちを含んだ表情でエレンを睨みつけた。
「だから何だ。俺がエールの公子と知っているのならこそ、お前は何様だ?後で話を聞いてやると言ってるのに、ぶちのめされたいのか」
 エレンは益々自分の神経が逆撫でされるのを感じる。彼は話に聞くだけでもこの公子を好ましくないと感じていたが、実際に本人を目の前にしてその印象は最悪に変わったといって間違いなかった。こういう無知な乱暴者が考えもなしに人々の平穏な暮らしを台無しにしているのだと思うと、エレンは怒りを通り越して眩暈を感じた。エレンの思想において、クインのような男は戦に強かろうが何であろうが、決して人の上に立つべきではない。
「あなたが訊ねないのなら自ら名乗ろう。私はフランツ王イアンの子エレンだ。あなたの叔父上に密かに申し上げたきことがあり国境を越えてきた。王デロイにお引き合わせ願いたい」
 腕を縛められたまま、しかしエレンは背筋を正してはっきりと話した。クインはエレンの言葉を聞いて益々眉を顰めると、目の前の青年を珍しい動物でも見るように眺めまわした。
「フランツ王だと?イアン王は死んだろう。しかも奴には、青二才のガキが一人いただけだ。その息子がエレン……何だって?お前が、今のフランツ王か?」
 その時、公子の背後の兵たちがざわつき始め、新しい足音が、小屋の外から早足に近付いてきた。鎧は着ていないもののきっちりと軍服を着込んだ出立ちの男が、兵たちを掻き分け、狭い小屋の中へ押し入ってきた。
「殿下、こんなところで何をしておられますか」
 現れたのは中年の、副官らしき男だった。公子が男を振り返る。「おおゴア、フランツからの使者だ」
「だとしたら、陛下の帷幕に使者を呼ぶのが手順というものでは」
 ゴアというらしい副官は、エレンが初めから思っていたことの一つを小声で公子に注進した。公子はまるで聞いていないように、エレンを親指で指す。
「しかもこのガキが、イアン王の息子エレンだとかぬかす」
 それを聞いて、副官はカンテラの明かりに照らされた使者の顔をまじまじと見つめた。そして次第に、その表情に驚きが広がっていく。エレンは相手が言葉を発するより先に、会話の口火を切った。
「公子の言葉の通り、私はフランツの現国王だ。私はデロイ王との協議のために密かに国境を越えてきた。本来ならあなた方に悟られぬようにアストルガスへ入る予定だったが、森の中の津が焼き落とされていてあなたの部下に捕えられた。エール王へお目通し願いたい」
 副官ゴアは彼の顔を見つめた後、主へ鋭い視線を送った。
 彼の運はまだここで尽きてはいないはずだと、エレンは思った。



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