24. 結界

文字数 6,303文字



「旦那、大丈夫かな?」
 森へ入っていくらもしないうちに、レヴィがディガロに背負われているエレンの顔を覗き込みながら言った。
「俺からは見えねえよ」とディガロが言い、アスカが代わりに答えた。「あまり顔色がよくないわ。でもサリーは、あと三、四日くらいなら持つはずだって」
 サリー曰く、ソーサリーには二、三日程度で会えるはずだという。ディガロがぼやいた。
「でもよ、その魔法使いってやつが俺らに会わねえって決めたら何日森を歩こうが医者にはかかれねえってことなんだろ?ふざけてんぜ、その魔法使いってやつは何様なんだ」
 こちらから捕まえにいくことができれば、相手が拒否しようが何だろうが、拷問か脅迫でもして治療をさせるつもりなのだろうか。アスカが何と反応すべきかわからずに黙っていると、彼女の代わりにレヴィが答える。
「ソーサリーは、きっと実際には谷のすごく奥に住んでるんだと思う。でもきっとヘスから三日くらいの距離から、彼のテリトリーに入るってことなんだろうよ」
「テリトリーって何だよ」
 ディガロは訊ねたが、アスカには何となくわかる気がした。彼女にも、自分からある一定の範囲内に入ってきた生命体の気配を感じることができる。恐らくソーサリーにもそういった範囲があり、優れた能力者であるソーサリーはその範囲内に入ってきた生き物を、彼女よりもはるかに具体的に把握できるのだろう。そうして恐らく、選んだものを距離や空間を越えて、近くへ呼び寄せることができるのだ。なんと呼ばれる能力だったろうと彼女が考えていると、案の定、レヴィが答えた。
「その区域に入れば、ソーサリーが俺らを見つけてくれて、彼の場所へ勝手に連れて行ってくれるとか、そういう話なんだと思う」
「で、奴が俺らを気に入らなきゃ奴は俺らを無視するから、俺らはどこにいるんだかわかんねえそいつの家にはたどり着けねえと」
「まあ、多分そんな感じだね」
 虫の好かねえ話だな、とディガロは舌打ちした。自分から探しに行けないという状況が、彼の性分としてはもどかしいのかもしれない。
 ところでアスカは、サリーがソーサリーの話を持ち出した時にレヴィが言った言葉を思い出していた。『フィルノルドのイーズル』の物語は、フランツ人では魔術史を齧っている人間くらいしか知らないが、恐らく地元のフィルノルドでは、ほとんどの人間が知っている話だ。
 北東のフィルノルドは南西の帝国から遠く離れているからだろうか、オークの惨劇の物語といい、異種族にまつわるかなり近代の実話が残っている土地である。何とほんの五十年ほど前まで、フィルノルドの王宮には一人のソーサリーが宰相として仕えていた。
 そのソーサリーはフィルノルド王に招かれて半世紀ほど王国の国土を守る手助けをしていたが、老いて病に倒れたフィルノルド王は、自分の死後に気まぐれな魔法使いが彼の国を見限って他の土地へ流れて行ってしまうことを心配した。そこで王は、彼の最も愛する娘を選んで彼の妻とし、魔法使いを彼の子孫の守護者として永遠に王国へ繋ぎ止めようとした。魔法使いは王の願いを聞いて王女を妻としたが、王の死後間もなく、王女は病に倒れて死んでしまった。彼を招いた国王も、その娘であった妻も失った魔法使いはフィルノルドを去り、人々は自由を望んだ魔法使いが契約の楔となっていた王女を呪って殺したのだろうと噂した。しかし消えてしまった魔法使いは弁明することはなく、真実は永遠に歴史の闇か、お伽噺の中に置き去りにされる。イーズルというのは魔法使いの名前だった。アスカもこの作り話のような出来事を魔術史の添付資料集で読んだことがあったが、まさか母国の片隅にその魔法使いが住んでいるなどとは想像したこともなかった。
 アスカは不思議に思った。ソーサリーはフランツの片隅に住んでいながら、真隣で起きている戦争や、そこで死んでゆく人々の命や生活には興味はないのだろうか。ソーサリーのイーズルは、なぜフィルノルド王を助けておいて、その子孫を見捨てたのだろうか。彼は本当に王女を殺したのだろうか。もしそうだとすれば、そんな人物が、どうしてエレンと彼らを救ってくれるのだろうか。
 しかしサリーは、魔法使いはきっと彼女たちを救うと言い、そして彼女たちには今、それ以外に頼る先がない。
 アスカは歩きながら思考に没頭しそうになったが、ふとその時彼女を現実へ引き戻したものがあった。魔物の気配がする。
 彼女の知覚できる範囲は、相当に強い気配ならば五百メートルほどからだが、例えば先日のピクシーのような弱い魔物の存在を感じられるのは百メートルほどからになる。それは彼女たちのいる場所から今は三百メートルほど離れた場所にいて、こちらへ近づいているようだった。移動速度が速く、数も複数のようだった。彼女の様子の変化に気が付いたらしく、ディガロが「何が来る?」と訊ねてきた。レヴィの表情に緊張が走る。
「わからない。どんどんこちらに近づいてきてる。三つか、四つくらいの魔物の気配」
「森ワーグだな。この辺りの森ワーグはかなりでけえって聞いたが」
 眉間に皺を寄せた彼の顔には『厄介だ』と書いてあるかのようだった。今ディガロの両手は、エレンを抱えているためにふさがっている。
「なあ嬢ちゃん、あんたの結界ってやつはどの程度効くんだ。ここまであんたの兄貴が出し渋ってたせいで、俺はあんたがキャンプ張る時に地面に書いてるやつは見たが、あんた自身が道具なしでも使えるってやつはまだ見てねえ」
 とうとうこの時が来たか、アスカは息を呑んだ。
「……結界師の結界は、例えるなら霧みたいなものなの。霧は結界師を中心に広がって、中心へ近づくほど濃くなるの。弱い魔物は薄い霧にも近づくことができないけれど、強い魔物は多少の霧ならかき分けて中心へ近づくことができる。どのくらい強い結界を作れるかは結界師の力によるし、どのくらいの濃度の霧になら入っていけるかは、魔物の強さによるの。地面に書く結界は、文字そのものに力を持たせてその範囲の中に霧を閉じ込めておけるけど、私が自分で作る結界を維持するには、私は集中しないといけない。木の根をよけて歩きながら作れる結界と、跪いて呪文を唱えながら作る結界じゃ、もちろん効力も変わってくる」
 長い説明をディガロはじれったそうに聞いていたが、一度彼女の言葉が切れるなり、「で、あんたは森ワーグを防げるのかよ」と切り込んだ。
 アスカはしばらく考えてから答える。
「私が法術院の実習で見た一番強い魔物は、先生が作ったゴーレムだったの」
 横でレヴィが場違いな好奇心を表して「え、ゴーレムなんか作れんの?」と声を上げたが、アスカの言葉は続いている。
「先生は昔本物のワイバーンを見たことがあるって言って、そのゴーレムはワイバーンの十分の一の力もないって言ってたけど、その時の私はゴーレムを防げなかった。ゴブリンには効いたけど、……正直、森ワーグにどのくらい効くのかわからない」
 ディガロは首を振った。
「俺もワイバーンなんざ見たことねえし、ワーグをあんたが防げるか定かじゃねえってなら備えとくしかねえだろうな。おい、レヴィ」
 レヴィがぎくりとしてディガロを見た。「俺、あんまりパワー型じゃないんだけど」
「じゃあてめえが森ワーグを始末するか、嬢ちゃんが兄貴をおんぶすんのかよ?おら、一回兄ちゃんを降ろすぞ」
 今までレヴィが背負っていた荷物をアスカの足元に置き、レヴィはエレンを担いで、ディガロは大きな斧を握った。レヴィはエレンを担ぎながら、なぜか小声で「すんません旦那」と呟いている。その間にもアスカは、今では四体とはっきりわかる気配がすぐそこまで近づいてくるのを感じていた。
「来てる」と彼女は言った。緊張が体中に漲り、彼女は意識を集中させる。
 木々の間から、小型の熊ほどある獣が現れ、猛烈な勢いで駆け込んできた。ディガロが走り出した。
 先頭の一匹が飛び掛かってきた瞬間、わずかに身をひねっていたディガロは先日したのと同じように斧で巨大なワーグを殴り飛ばした。一匹目が鳴き声を上げて吹っ飛んだと思うと二匹目がもう彼に飛び掛かってくる。三匹目はその彼らをすり抜けてアスカとレヴィの方向へ向かった。二匹目に地面に突き倒される寸前にディガロは斧を投げ、飛んだ斧は三匹目の胴体を割いて地面に突き立った。
 ディガロが倒れるのを見て声を上げそうになったアスカは、すぐに悲鳴と一緒に呼吸を飲み込んだ。四匹目が彼らに向かって進んできている。隣でエレンを抱えたレヴィが走り出そうか否か逡巡する気配を感じた。アスカは自身の足が震えていることも忘れ、みるみる近づいてくる魔物を正面から睨み据え、意識を集中させた。
 あと一秒か二秒、距離にして十歩というところで、獣が止まった。急に足を止め、鼻先に皺を寄せて憎々しげに唸り声を上げている。魔物はそのくらいの距離をうろうろしたが、それ以上は近づいてこない。そこが魔物にとっての結界のようだった。
 いつの間にどうやってあの場を切り抜けたのか、斧を持ったディガロが走ってきた。生き残りの一匹は敗北を悟ったらしく踵を返すと、素早く木々の間へと消えていった。
「畜生、一匹逃した」
 肩で息をしながら、血まみれのディガロが近寄ってきた。アスカはやっと緊張を緩め、その時になって、自分がずっと呼吸を止めていたことに気が付いた。彼女も肩で息をしている。レヴィはどうやら逃げ出さなかったらしい、アスカの隣に立っていて、「今度こそ俺、死ぬかと思った」とぼやいた。
 アスカはまだ緊張から抜け出し切れず、呼吸を取り戻そうとしている彼女の顔を覗き込んだディガロが、「おい、大丈夫か」と声をかけた。アスカは我に返り、目の前にある男の顔が血まみれなのに気が付いて、思わず首を引っ込める。
「だ、大丈夫。あ、あなたこそ、大丈夫なの、その血……」
 ああ、と頷くと、ディガロは袖で顔をぬぐったが、もとより袖も血まみれなのであまり効果はない。「こいつは犬コロのだ。俺にはかすり傷ひとつねえよ。にしてもあんた、悪かったな、一匹逃しちまった。あんたの兄貴の意識がありゃ俺はクビだが、あんたはどうやら森ワーグを防げるらしい」
 大したもんだ、となぜか愉快そうに笑うと、ディガロは斧を握ったまま歩き始めた。歩き始め、背中をこちらに向けたまま言う。
「おいレヴィ、俺ぁ見ての通りドロドロなんだが、あんたの主人を背負ってもいいと思うか」
 レヴィは少し考えたようだったが、ディガロの惨状と自分の肩に乗っている若い国王の顔を見比べて、「限界までやってみるけど、途中で交代かもな」と溜息交じりに言った。
 ディガロの背中を見ながらアスカも荷物を拾って歩き始めたが、しばらくして、レヴィが隣のアスカの顔を見た。
「アスカ、疲れてるように見えるけど、大丈夫?」
 そう言うレヴィの足取りも、エレンを背負っているせいで、一歩一歩が重そうだった。アスカは頷く。
「大丈夫。ちょっとドキドキしただけで。むしろ、彼のほうが心配かもしれない。本当に怪我とか、してないのかな」
 結界に集中するあまり、アスカは途中から周りの景色を見ていなかった。レヴィが小さく首を振って答える。
「大丈夫だと思うよ。俺見たんだけどさ、あいつ、素手でワーグの足をもぎ取ったんだよ」
 思わずアスカは目を剥いて、隣のレヴィを見た。
「うん、あんなの俺も初めて見たよ。ディガロ、飛び掛かってきたワーグの前足を掴んでさ、しばらく揉み合ってたかと思ったら、ワーグの足を握りつぶして、そのまま前足をこう…」
 途中まで言いかけたレヴィは凄惨な光景を思い出してしまったようで、そこからは口を噤んだ。代わりに「昔おじさんが、帝国のコロセウムで牛を割く男を見たって言ってたけど、あれって本当だんたんだな」と呟いた。







 その後も、彼らは度々獣や魔物に出くわした。その度にディガロがそれらを倒し、アスカは結界で三人を守った。やはりレヴィとディガロはエレンを背負う役を時々交代しなければならず、ディガロがエレンを背負っている時、早くから危険の接近を察知できるアスカの能力は非常に役に立った。
 一番厄介だったのは、夕暮れ時になって五匹のワーグが現れた時で、この時もディガロが三匹を片づけている間に、アスカは残りを結界で防がなければならなかった。
 薄暗い森の中から完全に陽の光が消えうせる前に、レヴィの案内で、彼らは寝床になりそうな大樹にたどり着いた。大樹の根元の幹には巨大な洞があり、四人の人間が寝転がったり座ったりしても多少の余裕があるほどに広かった。
 アスカはこの時も、積もった落ち葉の上にインクを垂らしながら、呪文を唱え結界を作った。彼女の作業中、大樹の前ではディガロが斧を携えたまま、彼らを囲む木々と薄闇の中を睨み続けていた。彼女の仕事が完了したとわかると、冒険者は斧を肩にかけて顎で大樹を指し、彼女に寝床の中に入るように促した。
 道具の入った鞄を抱え、アスカは長身の冒険者を見上げた。黒く乾いた血や泥で汚れた男の顔に向かって、彼女は微笑みかけた。
「ありがとう」
 正直、ただ金のためだけに、この行きずりの男がここまで彼らの力になってくれることが、彼女には不思議だった。不思議でありながら、それ以上に彼女は感謝していた。それにどれだけ考えたところで、彼女に理由がわかるわけでもない。目の前のこの人相のよくない冒険者は単に、その見た目に反して善良であるというだけのことかもしれない。アスカは自分自身がそうでありたいと思うのと同時に、人の善性を信じている。
 目の前の、灰金色の眉が上がった。次にディガロは首を傾げる。
「…礼を言われる筋合いはねえよ。これが俺の仕事だ」
 しかしそう言いながら、男は唇の端で小さく笑う。両目が細められて、そうすると何だか眠そうな狼のようにも見えると、彼女は思った。狼、この男が今日だけで随分多く殺した生き物だ。
 気が付くと、大きな手が彼女の髪を、さらりと撫でていた。しかしそれも一瞬のことで、彼女が振り返ったときには、男は既に頭を低くして木の洞へ入っていくところだった。
「あんたの方が疲れてんだろ。明日もきついだろうから、さっさと寝ろよ」
 大きな背中がそう言って、アスカは「ええ」と返事する自分の声を、どこか遠くで聞いた。
 その時ふと、静寂にあった思っていた森が、実に多くの音であふれていることに気付いた。木々の枝がこすれる音、虫の鳴き声、森の上を風が抜けていく音。それらを聞きながら、アスカは彼女の感覚を騒がせているものの中に、今しがた彼女の横を通り過ぎていった男の気配が含まれているのを感じた。何か、ちょっとした違和感のような気配。
 しかし今では、その違和感は彼女に安心すらもたらしつつあった。きっと彼女たちは魔法使いを見つけ、エレンを治療して、アストルガスへたどり着くのだ。彼女がその昔カーラーに拾われたように、今彼女がカーラーの助けになっているように、彼女たちの前にディガロが現れたように、時にそこには必要なものが与えられ、そういう時はそのように物事が進むものだ。
 アスカは一瞬ひどく楽観的になった自分に驚きつつも、ディガロを追って寝床へ向かった。彼女はとても疲れていたが、今夜はよく眠れるような気がした。



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