18. 躊躇

文字数 4,468文字




 エレンとディガロはそれぞれ重くなった財布を懐に入れて、キースの中心街へと続く街道を歩いていた。夕暮れの近さを感じさせるように、西日が強く頬を刺している。
「おかげで僕まで稼がせてもらったよ」
 彼が朗らかにそう言うと、ボディガードはにやりと歯を見せて笑った。
「その稼ぎを俺に還元してくれりゃあ、一番ありがたいんだがな」
「君だって十分稼いだろう」
「まあな、今夜は美味い酒が飲めるぜ。で、不良貴族様よ、あんた今日はどこで飲むんだ。一応俺は護衛だからな、てめえが酔っぱらっても身ぐるみ剥がれねえように、お守りしてやろうじゃねえか」
 そう言うディガロは随分上機嫌に見えた。やはりこの男は物言いは乱暴だが悪人ではないらしいと、エレンは改めて思う。
「それはどうも。キースは広いから、店選びは僕より街を知っている君に任せた方がいいかもしれないな。しかしその前に、一度宿に戻ろうと思う。受付で言伝を残して、アスカたちを安心させておきたい」
 へえとこぼしながら、ディガロは眉を上げた。
「構わねえぜ。…しかしはじめっから思ってたんだが、お前の妹も従者どもも、やたらとあんたのことを心配してるよな。あんた確かに強面には見えねえけど――ってまぁ、怒んなよ、どっからどう見ても温室育ちのぼっちゃんって意味で、」
「いいや、その通りだろうよ。で、妹やアイリーンが僕を心配し過ぎって話だな。まあ確かにそうだよ。僕は唯一の跡継ぎだし、実は人からも恨みを買っていてね。行く先々で僕が誰かからの仕返しを食らうんじゃないかと、彼女たちはいつも心配してるんだ」
そこで男はにやりとして頷いた。
「ありそうな話だ」
「君のそれは、褒め言葉として受け取っておくべきかな?」
 そんなことを話しながら歩いているうちに、彼らは町外れの広場も抜け、さらに進んで町の中心へ戻ってきていた。市場はまだ賑やかだったが、さすがに一部の店は店じまいを始めている。その時前方を眺めながら歩いていたディガロが、ふと何かを見つけたようだった。
「おい、ありゃあんたの妹じゃねえか」
 そう言われて目を凝らすと、確かに市場の端の少し奥まったところに、アスカとアイリーンの姿が見えた。
「ああ本当だ、どうやら宿屋へ寄る手間が省けたな」
 エレンがそう言ったところで、アスカの顔が振り返った。エレンは手を振って見せる。しかしアイリーンが手を振り返してきたものの、彼女たちがこちらへ近づいてくる様子がない。エレンが疑問に思ったところで、ディガロが「もう一人いるぜ」と言った。
 そう聞いて初めて、エレンの目にも、もう一人が映るようになった。帽子とケープを身に付けた、子供のように見える。しかし靴をはいておらず、茶色い足は裸足だった。
「やあ、市場はどうだったかな?」
 彼を見つめるアスカとアイリーンの表情がどこか強張っており、エレンはその点も疑問に思いつつも、まずは気軽に尋ねてみた。
するとアスカが、「ごめんなさい」という言葉の後に、何かを言い淀んだらしく、言葉を途切れさせた。エレンは戸惑って、アスカとアイリーンの顔を交互に見比べる。
「アスカ、どうしたんだ、ごめんなさいっていうのは一体何に……」
 そう言いつつ、エレンはアスカの隣に立っている、小柄な影を見つめる。その影の方は、先ほどからずっと彼とディガロとを見比べている。アイリーンが言った。
「エレン様、実は…実はあたしたち、さっきまでサーカスを見に行ってたんです。で、あたしたちそこから、……」
 そこで、アイリーンの声の調子が細くなる。思わずエレンは声を聞きとろうと、彼女の方へ顔を近づけた。
「そこから、このチビっ子…を連れ出してきちゃったんです」
 思わずエレンは、目を瞬きさせた。
「連れ出してきたっていうのは、つまり…」
 盗み出してきたということではないのか。窃盗は犯罪だ。驚きのあまり声を失ったエレンだったが、すぐに待てよと考え直す。アスカやアイリーンが意味もなく盗みなど働くはずがない。彼が返答の言葉を選んでいた一瞬の間に、アスカが声を挟んだ。
「あの、私がこの子を助けたいって言ってしまったんです。アイリーンは、ただ私を手伝ってくれたんです。彼女に責任はありません」
 この子を助けたい、と言ったアスカの言葉を聞いて、エレンにはやっと合点がいった。どうやらこの小柄な人物は奴隷らしいが、彼女たちはこの奴隷をサーカスから盗み出してきたというよりは、恐らくこの子供のような奴隷が置かれていた境遇を目にしてそれを憐れむあまり、そこから連れ出してきてしまったということだろう。エレンは困惑した。彼女たちは悪人ではないしその優しさは見上げたものだと思うが、奴隷はその主人の所有するところであり、それを無断で連れ出すことは間違いなく窃盗に当たる。ミースでは奴隷の売買はもちろん所有も禁止されているが、ここはミースではなく、窃盗が起きた場合は盗まれた者も盗んだ者も罪人となる。
 彼が戸惑っていると、しばらく黙っていたディガロが、いきなり口をきいた。
「おい、あんたらは何まごついてるんだ?責任て何の話だ」
 三人が、冒険者を振り返った。ディガロは続ける。
「アスカだっけか、あんた、自分がこの奴隷を連れ出したことで、罰金払わなきゃなんねえとか、そういうことを心配してんのか? だとしたら余計な心配だぜ。誰が悪いとかなんて話は、どうにでもなるもんだ。あんたが自分で名乗り出なきゃ、悪いのはこのチビってことになる、勝手に抜け出してあんたらにくっついてきたんだ。あんたらはここでそいつを置いてきぼりにすりゃあいい。お人好しの貴族の嬢ちゃんが奴隷に言いくるめられたって、誰もあんたらを責めはしねえよ。万が一役人にとっ捕まっても、そういうことにしときゃ一件落着だろ?」
 そう言うと男は肩を竦めて、話は終わったからさっさと行こうぜとでも言いたげに、路地の先に目をやった。一方でエレンはというと、そんな逃げ口上もあるものなのかと感心していた。もしかしたら庶民の司法に対する感覚なんて曖昧なもので、実生活の中ではこういった人的裁判が行われることがほとんどなのかもしれない。エレンがそんなことを考えつつ返す言葉を選んでいると、アスカが意外にも声を張り上げた。
「そんなこと、できないわ。そんなことをしたら、この子はまた元の所有者に捕まって酷い目に遭う。どうしてわざわざ私たちがこの子を助け出したのかわからない。何より私が『嬢ちゃん』だから言いくるめられたなんて、馬鹿にしないでほしい。私だって自分がしていることの意味くらいわかってるし、だからこそそれを簡単に翻したり、途中で放り出したりしない」
 大声を出したわけではないが、彼女の口調と動かない瞳とが、彼女の意志を主張していた。エレンの中にあった窃盗への驚きは、早々にアスカのこの反応によっていくらも薄れてしまった。アスカはいつも控えめで、自分の考えを述べるよりも黙って従うことのほうが多かった。この旅の間に彼女が自分の主義主張を明らかにしたのを、初めて見たといってもいいくらいだった。
 アイリーンが戸惑いながらアスカとエレンとを見比べ、ディガロも面食らったように目の前の娘を見下ろしている。しかしいつまでもここで口論しているわけにもいかない。エレンは頷くと、静かな声で言った。
「…なるほど、何が起きているのかはわかったよ。色々な言い分や判断があるのもわかるし、本来なら然るべき処置を取るべきだ。しかし今の僕らの最優先事項を、僕は考えなければならない。僕としてはアスカやアイリーンが揉め事に巻き込まれるのも、金銭トラブルも極力避けたい。冷たいかもしれないが、」
 言いながらエレンは、アスカの瞳の奥が、固く緊張するのを見た。彼の中で、一瞬何かが足踏みする。彼が次に発する言葉を聞いたら、目の前の女性はどんな顔をして自分を見るのだろうか――そんなことが、彼の脳裏をよぎった。
 その時、ふっとアスカの首が動いてあらぬ方向を向いた。同時に表情を硬くしたディガロが、背負っている大剣の柄に手を伸ばした。エレンがそれを疑問に思うより先に、それは、彼らの頭上から降ってきた。
 彼らが立っていたのは、市場を囲む城壁に比較的近い場所だった。恐らくその巨大な物体は、城壁の上から降ってきたのだろう。西日を遮って影が生まれる。降ってきたものが斧を構えていたので、エレンはそれが人間だとわかった。
「あぶな――」
 アイリーンが声を上げたのが聞こえた。巨大な刃が振り下ろされ、エレンはそれを避けきれない自身の速度を計算した。しかし彼と刃物の間にディガロの大剣が割って入った。
 金物同士の重くぶつかり合う音が響く。硬直したアスカと小柄な奴隷にほとんど体当たりする格好で、アイリーンが二人を男たちから遠ざけた。ディガロに跳ね返された斧とその持ち主は大きく跳びずさって着地する。黒い革の鎧の上にマントを纏った男だった。フードが斜陽を遮り、男の顔つきを隠している。
 突然巨大な武器を振り回した男たちを見て、周囲の人混みが大きく割れた。人々が驚愕の声を上げる。
 男が再度武器を振り上げてエレンに斬りかかる。その前にディガロが割り込んだ。再び刃物がぶつかり合う。大剣を楯のように構えたディガロの靴底が砂の上でざりり、と滑ったのを見て、エレンは思わず瞠目した。
 しかし彼らが衆目を集めつつあることが、既にエレンの気がかりになり始めていた。あれはブロントの刺客だろうかと考えて、だとすればこれほど人目のある場所で彼らを狙うのは理に適っていないとも同時に思う。
 剣と斧がまたぶつかる。ボディガードが小さく唸り声を上げた。やっとエレンも剣を抜いた。襲撃者が斧を片手に持ち変えると同時に、目にも留まらぬ速度で何かを投げつけてきた。それはディガロの肩を掠めて飛び、エレンの頬を薄く裂いた。男が投げたのはナイフだった。刃物は煉瓦の壁に当たって音を立てる。
「この野郎、」
 ディガロが歯を向いたその時、彼と襲撃者との間に、巨大な炎の壁が立ち上がった。
「うおっ」
 ボディガードが驚いて跳び退き、声こそ上げないものの襲撃者のほうも炎に遮られてエレンを見失ったようだった。もちろん周囲の人々からは悲鳴があがる。エレンは混乱した。こんな魔術を見たのは初めてだった。
「幻術です、エレン様!」
 アイリーンが叫ぶ声が聞こえたと思うと、いつの間にか彼女はエレンの手を掴んで彼を引き寄せようとしていた。今のうちに逃げようというのだろう、エレンはアイリーンに賛同する意味を込めて踵を返した。
「ディガロ、ここを頼む!」
 彼がそう言うと、護衛は後ろ姿のまま「了解」とだけ答えた。エレンが走りだしたのを見て、アスカも走り始めた。辺りは逃げる人々と集まってくる野次馬で混沌とし始めている。エレンたちは人ごみに紛れた。



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