19. 決意

文字数 5,152文字




 彼らは突然現れた襲撃者が再び現れることを警戒しながら、それでもいったん宿へと帰り着いた。
 早足で町の中を歩いている間、彼らはほとんど無言だった。ただアスカが抑えた声で、彼女たちが連れ出した奴隷がピクシーであったこと、先ほどの炎の壁の幻術を見せたのがその魔物であったことを、歩きながらエレンに伝えた。歩いている間もアスカはピクシーの手を離さず、結果的に彼らはその魔物を宿屋へ連れてきてしまった。
 彼らは宿へ着くと、エレン、レヴィ、ディガロのために取っておいた三人部屋へ入った。部屋に入るなりアイリーンが、閉じた扉に背を預けて盛大な溜息を吐いた。部屋の中には先に戻っていたレヴィがおり、突然部屋になだれ込んできた仲間と新しい連れを見て、目を白黒させた。
「な、何だい?三人とも、何かあったの?何だか慌ててない?見かけない人も増えてるし……」
 エレンもベッドを軋ませながら腰を下ろし、重い溜息を吐いた。
「少し話が長くなりそうだ。……まず要点だけ言うと、アスカとアイリーンに窃盗罪の疑惑がかかっていて、しかも僕らは刺客に襲われた」
 すると、ようやくピクシーの手を離していたアスカが、改まった姿勢でエレンの方を向いた。腰の横で握り締めた両拳の関節が、白く浮いている。
「…申し訳ありません…」
 エレンは首を振った。
「……ひとまずその件は保留にしておこう。その前に考えなきゃならないことがある」
 アスカのスカートの陰に隠れるようにして立っている子供のような姿にちらりと目を遣ってから、エレンはまたすぐにその視線を外した。あのピクシーは、先ほど幻術で彼らを救った。あの場で戦闘が長引いていれば怪我人が出たかもしれず、騒ぎを聞きつけた警邏隊に捕らわれたかもしれない。アスカの憐れみも理解できるが、責任を負う者として、彼は簡単に答えを出すことはできなかった。エレンは続けた。
「問題は、あの斧を持った男が何者かということだ。あの男は、まっすぐに僕を狙ってきた。一番に考えられるのは、とうとう僕が城を抜け出したことをブロントが知り、刺客を送ってきたということだ。アイリーン、あの男に見覚えは?」
 いつの間にか扉の前で屈み込んでいたアイリーンは、重そうな仕草で、エレンの方を向いた。
「…殆ど顔を見れなかったから、よくわかりません。でもあいつ、ディガロの剣をまともに受け止めてましたよね。あそこまでの馬鹿力、私が知ってる限りじゃうちの軍にはいなかったと思うんですが……」
「ということは、外部から雇われた殺し屋の可能性が高い。ブロントには秘密裏かつ私的に彼の問題を片づける子飼いの部下がいるんだ。公衆の面前で僕らを堂々と殺そうとした点は、それにしても腑に落ちないが……」
 部屋の中に沈黙が落ちる。レヴィはまだ目を白黒させているが、説明を求めるよりは議論を中断してしまうことを避けたようだった。
 するとアスカが、一度閉じていた口を、控えめに開いた。
「…あの、これは私の想像でしかないんですが、あの刺客は私たちの隙をつくために、わざと人気の多い街中を選んだんじゃないでしょうか」
 なるほどと、エレンは頷いた。草原などを移動中ならば、近づいてくるものがあればすぐにそれとわかり、こちらも警戒と準備をして迎え撃つことができる。街中で突然襲われれば、彼らが敵に気が付く可能性は、格段に低くなる。
「一発必中を狙ったってことか」
 彼が言うと、アスカは頷いた。続いて彼女は言う。
「それに、あの人、何だか妙な気配がしたんです……」
「妙な?」
 はい、とアスカは頷く。
「普通の人間ではないような、…でも魔物とも違うんです。それだから、彼が落ちてくるまで私、その気配に気が付かなくて……もしかしたら話すのに夢中になっていて、気付かなかっただけかもしれませんけれど……」
 アスカの口調には罪悪感があったが、エレンは彼女を責められるとは思わなかった。相手が何者かわからないが、まさか市街地の中で魔物の類に襲われると誰が思うだろうか。
「いや、今回のことは僕にも想定外だった。キースまで来たし、人が多い場所だということもあって油断していたよ。それより問題は、今夜ここに泊まるかどうかだな。市場で襲い掛かってくるようじゃ、宿にいても危険かもしれない」
 彼がそう言うと、ずっと黙っていたレヴィが声を上げた。彼らの会話を聞いて、事件の要点は把握したようだった。
「でも旦那、町の外に出たとこで、この時間じゃすぐに野宿しなきゃいけませんよ。どうせ襲われるかもしれないってなら、きちんと休んどいたほうがいいと思います。見張りは必要かもしれませんけど……で、ディガロはどうしたんですか?」
 それにはアイリーンが答えた。
「市場でいきなり襲いかかってきた奴、そいつがどうしてもエレン様を狙おうとするから、そいつをディガロに任せて、あたしたちは先に逃げてきたの。あの馬鹿力のことだから、大丈夫だと思うけど…。むしろディガロがあの刺客をとっ捕まえてきてくれたら、あいつがブロントの差し金かどうかわかるのに」
 それを聞いてエレンの頭の裏側には、既にディガロが刺客を捕えて自白させていた場合、ディガロに彼らの素性を知られてしまうという懸念が浮かんだ。しかし果たしてそう速やかにことが運ぶだろうか。あの刺客はディガロと対等に打ち合い、その合間にエレンに向かってナイフを投げてくる余裕すらあったのである。彼はふと思い出し出したように、自分の頬に触れた。切り傷がぴりりと痛んだ。
 部屋の中に、沈黙が落ちた。もしあの男がブロントの差し金だった場合、恐らくブロントは旅の道程でエレンを葬り去るつもりだろう。密かにエールと和睦を結ぶという和平派の計画までが露見してしまったのかはわからないが、いずれにしろエレンを殺しておいてブロントに何ら損はない。こちらの計画を知っていればそれを潰すためにエレンを殺すだろうし、それを知らずともエレンが死ねば、有力な次期王位継承者候補がいない現在、フランツを統治する権力は名実ともにほとんどブロントのものになる。
 仮に先ほどの男をディガロが仕留めてくれたとしても、それを敵が知れば、次の手を打ってくるだろう。ここから先の道のりは、ただこそこそとしていればいいというわけではなくなってしまった。
 まずは護衛が戻ってくるのを待とうとエレンが提案し、それからしばらくの間、彼らは黙ったままでいた。
 アイリーンは落ち着きなく、身に付けていたナイフを鞘から出して磨いたり、部屋の中へ置いていた弓の手入れなどをしていた。レヴィはさらに空気が重くなるのを避けたのだろう、言葉にして訊ねることはしなかったが、今はベッドの一つに腰かけているアスカの足元で、身を隠そうとするかのようにうずくまっているピクシーの様子を窺っているようだった。
 ベッドの端に座り、どこかへ視線を落としたままのアスカを、エレンは見遣った。
 いつも気遣わしげに周囲を見つめている彼女の瞳があのようにうつむいていることが、エレンの目にひどく痛ましく映った。気の毒にも思えるが、同時にエレンには不思議だった。決して無茶や法規を矩えるようなことをするようには見えなかったアスカが、アイリーンの助けがあったとはいえああした大胆な行動を取ったことに対してである。彼女にも、従順で控えめな外殻の中に持っている、彼女なりの正義や信念があるということなのだろう。
 それに、ここまで来てしまうと、彼女がアイリーンとともに連れ出してきた生き物をどこか安全な場所――例えば東の森まで連れていったところで、それは大したリスクにはならないように思えた。そうなると残る彼の懸念は、倫理にかかる問題だ。今は王宮の外であるとはいえ、エレンは常に、自分が一国の王であり正義と公正を示さねばならない立場にいるということを忘れることはない。為政者は全ての国民に規律の順守と勤勉を奨励するために、その手本とならなければならない。王自身が放恣で怠惰であったら、どうしてその王が作った法を民が尊ぶだろうか?よってエレンは、自分には正義と真実を見極める義務があると考えている。ギャンブルを試すことは合法の範囲だが、窃盗を見過ごすのは全く別の話だと彼は考える。しかし一方、こんなことでアスカを裁きたくないと思うのも、また事実だった。アスカの行ったことは確かに窃盗である、ピクシーの所有者は代価を払って得た財産を盗まれたのだから。だが彼女がしたこと――哀れな生き物を悲惨な境遇から救ったということは、全く間違っているだろうか。人間が時に過ちを避けられないように、人が作った法も完全無欠ではありえないのではないか。
 だから彼は今、答えを出せないでいた。しかしそうして決断を先延ばしにすることも、本来ならば正しくない。彼がこのように優柔不断になるのは珍しいことだった。彼はそれにどこかで苛立ちを感じながら、早くディガロが戻ってきてくれることを願った。この沈黙が続く限り、彼は延々と悩み続けなければならない。
 エレンたちが宿へ戻ってきてから半刻もしないうちに、空は茜色から淡い紫へ変わり始めていた。エレンはアスカとレヴィに、先に夕食を取りに行くように勧めた。アイリーンが彼と残ったのは、もちろん襲撃の可能性を警戒してのことである。
 レヴィがアスカと小柄な生き物を連れ部屋を出てしばらくした頃、エレンとアイリーンは、廊下を渡る重い足音を聞いた。それは部屋の扉の前で止まり、続いて「俺だ」という、ディガロの声が聞こえた。扉に背を預けて床の上に座り込んでいたアイリーンが、扉を開けるために立ち上がった。
 誰も返事をしないうちに、ディガロは扉を開けて部屋へ入り込んできた。
 後ろ手に扉を閉める表情が疲れて見えた。エレンはベッドに座ったまま尋ねた。
「あの男はどうしたんだ?倒したのか?」
 ディガロは首を振った。
「残念ながら。あんたらを追おうとしたんで邪魔してやったが、警邏隊が集まってくると人混み蹴散らして逃げ出しやがって…、俺もいくらかは追いかけたんだが、途中で城壁の向こうによじ登って消えちまった。俺も壁を登ろうとしたんだが警邏隊の連中に追いつかれてよ、連中俺が喧嘩起こした張本人とでも思ったのか、詰所に連行されそうんなったから、何とか振り切って逃げてきた」
 舌打ちすると、ディガロは裂けたジャケットの肩口に触れた。男がエレンにナイフを投げた時のものだろう。
 破れたディガロの服を見るアイリーンの眉間に、深い皺が寄った。アスカ曰く奇妙な気配を持っているという刺客は、相当に腕利きだ。護衛がいなければ、エレンは市場で殺されていただろう。彼は仏頂面をしている冒険者に声をかけた。
「そうか、それは大変だったな。しかし、君の働きのおかげで助かった。これはぜひとも、アストルガスまでお供をお願いしないとな」
 褒詞を受けて、護衛は軽く肩を竦めて見せただけだった。
「俺は役に立つ男だろ?ところであいつ、アスカはどこ行ったんだ?」そう言ってディガロは、部屋の中を見回す。
「レヴィと一緒に夕食に出てもらった。彼らが戻ってきたら、僕たち三人も食事へ出掛けよう」
 相手の疲れを労るつもりで、エレンはディガロとアイリーンに微笑して見せた。アイリーンはどこか硬い表情のまま頷き、一方で冒険者は眉を上げた。
「あんな危ねえ奴に狙われといて、随分余裕あるじゃねえか。俺が思うにありゃ本気で殺しを専門職にしてる奴だぜ」
 エレンは首を傾げてみる。彼はリーダーであり、リーダーは苦境にあっても恐怖や苦痛を部下と共有するものではない、と彼は帝王学を学んで知っている。不安そうなアイリーンの視線には気付かない振りをして、彼は頷く。
「もちろん、それは理解しているよ。しかし落ち込んだり怯えたりしても事態が好転するわけじゃない。だとすれば今夜は、きちんと食事して気分よく眠るのが一番だろう?」
 ディガロの口調は怪訝を通り越して、半ば呆れているようになる。「もしかして慣れてんのか?あんた、相当な連中に恨み買ってるみたいだな」
「妹やアイリーンが心配する理由だよ。それに、これで四十九ノールが高額じゃないと、君もわかったわけだ」
 にっこりと不敵に笑って見せれば、ボディガードは舌打ちした。
「ったく、あんたは大した坊ちゃんだぜ」
 その言葉の通りになってやろうと、エレンは思う。元々刺客が送られてくることは予想の範囲内だった。何が何でもアストルガスへ辿り着いてやると、彼は改めて意志を固くした。



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