11. 道途

文字数 2,756文字




「そっちに行ったぞ!」
 エレンが馬上で剣を構えたまま言った。ワーグ、狼によく似た獣だが、それがアスカとアイリーンが乗っている馬に向かって走る。既に馬から下りているディガロはワーグに負けぬ速さで走り、二人と魔物の間に立ちはだかった。
 ワーグが跳ねる。しかしディガロは飛び掛かってきた猛獣をまるで飛んできたボールを打ち返すかのように大剣でぶん殴った。大型の犬ほどもある魔物はそれこそ巨大なボールのように吹っ飛び、二十歩以上離れた場所にいるレヴィに激突して彼を馬からつき落とした。まだ生き残っている一匹がアスカとアイリーンの馬を諦めてエレンに向かう。青年は剣を横にして自らを庇ったが、体当たりを受けて地面へ転落した。
「エレン様!」
 アイリーンが叫ぶ。彼女はアスカの前で弓を構えているが、標的がエレンと縺れているので照準が定まらない。エレンが剣で獣を防いでいるところにディガロが走り込んで来て、彼の上の獣を蹴り飛ばした。
「あの馬鹿力、ほんとに人間?」
 自分の前でアイリーンが呟くのを、アスカは聞いた。一方でディガロは蹴り飛ばした獲物に剣でとどめを刺している。エレンは立ち上がりながら、背中の砂を払っていた。
「ありがとう、助かったよ」
 こういう時でも爽やかに礼を言うエレンの動作は今まで戦闘中であったとは思えない優雅さで、その落ち着きようにアスカは内心で驚嘆していた。ディガロは眉を上げて「まぁ仕事だかんな」と答えた。「それより怪我はないよな?」
「ご心配なく、治療費が発生するような心配はまだないよ」
 軽い調子でエレンは笑い、ディガロは頷いた。一方でレヴィは自分に激突してきたワーグの死骸を押しのけて、やっと立ち上がったようだった。
 ところで今アスカは、魔物を警戒するための結界を張っていない。エレンが、彼女の体力を温存するために、ボディガードがいるうちは草原での使用を控えようと言ったためである。合理的な判断だと思うし気遣いは嬉しいのだが、しかしこうして見ているとどうしてもはらはらしてしまうのが彼女の性だった。アイリーンもだがエレンも随分肝が太いと、彼女は思わざるをえない。
 ところで馬だが、昨日盗賊を追い払った後にアイリーンの馬が負傷していることがわかり、彼らはその一頭を捨てざるをえなかった。そんなわけで今アスカとアイリーンは、二人で同じ馬に乗っている。彼女たちがこのメンバーで最も体重が軽いからという判断からだが、やはり進む速度は多少落ちたように思われる。
 ワーグを避けてうろうろしていた馬をディガロが捕まえるのを待ってから、ふたたび彼らは南東の方角へ向かって進み始めた。

 彼らは日が暮れるまでにはその晩の寝床を決めることにしており、岩があったり丘があったりするなど少しでも目隠しのある場所に、キャンプを張る。
 この日は丘が抉れた小さな崖の陰が野営地になった。こういう時に活躍するのはレヴィで、彼は持ち歩いている荷物の中から道具を出して、小さなテントを二つ、あっという間に作ってしまう。テントの定員はせいぜい二人なので、アスカとアイリーンが同じテント、エレンとレヴィが同じテントで眠る。ディガロは、自分は護衛だし野宿には慣れているからといって、一人で外に残っていた。
 レヴィがテントを張っている側でエレンとアイリーンが焚火を起こしており、その間、テントの周りに結界を書くのがアスカの仕事だった。砂地にインクを落として、図形や文様を書いてゆくのである。彼女は王宮の法術院で習った通りに呪文を唱えながら、地面の上に濃い色のインクを垂らしていく。
 持ち運べるインクの量は限られているし、瓶の口から適度な量のインクを均等に、しかも図形を描きながら落とすのは実はかなり厄介な作業である。しかも彼女は呪文も忘れてはならない。そんなわけで彼女は作業に集中するあまり、男が近づいてきていたことにも気づいていなかった。
「何してんだ?」
 はっと息を飲んだものの、彼女は辛うじて瓶の口を上げ、インクを余計に垂らすことはしなかった。アスカが顔を上げると、すぐそばに長身の男が立っていた。
「け、結界を、描いてるの」
 集中を中断されたことで相当驚いたらしい、彼女は舌を縺れさせながら答えた。何より彼女は、昨日から彼らに同行しているこの男のことが、どうにも苦手だった。下町育ちであるから彼女だって冒険者に慣れていないわけではないが、この男はエレンに対してもどうにも尊大だし、何よりなぜか、彼がそばにいると彼女は妙な不安というか、えもいわれぬ掻痒感のようなものを感じるのである。
 彼女は結界師であることもあり、施術中は特に、その相手が魔物でなくとも周囲の生命体の存在に敏感になる。人間であっても中にはどうにも居心地の悪さや不安を感じさせる存在もあり、これがまさに気が合わないというやつなのだろうな、と彼女は思うようにしているのだが。
 そういう理由で、アスカははじめ目にした時からこのならず者が苦手だった。アイリーンがいうように信用できないということもあるだろうし、ついでに言うと、長年の王宮暮らしに慣れている彼女には、着の身着のままといった冒険者の風体は、どうにも小汚く思え、できることなら服を洗濯して風呂に入って欲しい、などとおせっかいなことまで考えてしまう。書庫の管理を仕事にしているあたり、自分は若干潔癖症の部類に入るのかもしれないと、彼女は自認している。
「へえ。そういや昨日もテントの周りにこんなんあったな。…で、結界って何だ。これで何か締め出せんのか」
 結界師という職業自体、庶民にはほとんど知られていないし、ディガロも例に漏れないようだった。アスカは頷く。
「これは古代文字を連ねて円を作るものなんだけど、『悪いものはこの内側へは入れない』って書いているの」
 すると、ディガロはにやりと歯を見せて笑った。
「俺は昨夜も入れたぜ。効いてねえんじゃねえか」
 俺は悪人だぜ、とでも自ら言いたいのだろうか。こういう反応も、実をいうとアスカは苦手である。が、彼女は律儀に答える。
「魔物をっていう意味なの。それから、人間でも邪悪な力を持っている人は弾かれることがあるらしいけど」
「へえ。そのあるらしいってのは?」
「私は実践でこの結界を使うのは、実はこの旅が初めてだったの。習った時は小さな魔物を使って実験したけれど、人間のサンプルはなかったから」
「じゃあやっぱ効いてねえな」
 ディガロはもう一度にやりと笑って彼女を見下ろすと、焚火の方へ向かって勝手に歩いて行ってしまった。彼女は肩を竦める。やはりあの男のことは、どうにも好きになれないかもしれないと彼女は思った。



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