29. 母親

文字数 6,675文字




 魔法使いの家には、木を組んで作られた小さなポーチがあった。ポーチからは小さな庭と畑を見渡すことができる。草花の生い茂った中で、白い小さな蝶がひらひらと羽ばたいている。アスカはそのポーチの階段に腰掛けて、為すこともなくぼんやりと静かな光景を眺めていた。
 しばらく前から、レヴィの姿は見えない。彼はアスカより先に玄関を出て行ったようだから、家の裏か森の方へ行ったのかもしれない。
 アスカは先ほど目にしたエレンの表情を思い出して、吐こうとしていた溜息を、静かに呑み込んだ。やっと目覚めた彼の顔に浮かんだ困惑と悲憤の表情。当然だ、三日後に君は死ぬと予告されて冷静でいられる人間は、どのくらいいるだろう。そして彼がずっと背負っている重荷のことを、彼女は考える。同じように危険な旅路を共有していても、ただ従ってゆくのと道を示しながら先頭を進んでいくのとではわけが違うことくらい、彼女は想像できる。若い王は、自分自身の死を告げられてもなお、目的の遂行だけを口にした。アスカは隣人の身を案じることはできる。エレンのために悲しむことはできる。しかし王となる者は、民のために苦しまなければいけない。もちろん世の中にはそうでない為政者があることも彼女は知っている。だからこそ彼女は、エレンの言葉を思い出した時に自分の胸が余計に痛むのだということにも、気が付いている。
 がさ、と草を踏む音がして、彼女は知らぬ間に俯けていた顔を上げた。巨大な人影と小さな人影が、いつの間にか彼女に向かって近づいてきていた。人狼のディガロと、魔法使いの娘だった。少女は籠を抱えており、ディガロは片手に斧を、片手に鹿を一頭ぶら下げていた。大きなはずの鹿が、まるで狐のように小さく見える。
「よう」
 人狼が言った。一晩明けて、狼よりはいくらか類人猿の顔つきに近くなってきたディガロの顔面はまだ毛皮に覆われており到底人間には見えないが、人の言葉を話せるようだった。
「それは、夕食?」
 アスカは訊ねた。一応見知った友人でありながら人間に見えない男と会話するのにも、三日後に死んでしまうかもしれないエレンのことを考えながらこんな風にまるで日常のような会話をするのにも違和感を感じながら、しかしそう言うほかに、彼女にはなかった。人狼は頷く。
「このおチビさんが、鹿食った事ねえって言ったからよ。だからそんなにチビなんだぜっつって、今日は俺がこいつを捌いてやることにしたんだよ」
 すると彼の隣を歩いていた少女が、素早く首を回して大男を睨んだ。
「あたしの名前はネイだっつったろ。次そうやって言ったらお前の尻尾に火つけるかんね」
 昨晩から今朝まで、アスカは魔法使いの娘が三語以上続けて喋ったのを初めて見た。ここまでの旅路でもそうだったが、ディガロは歩いている間、意外とお喋りだ。彼らも出掛けている間に、いくらか打ち解けたのかもしれない。
 人狼は笑いながら低い位置にある頭を撫でると、鹿をポーチの足元へ置いてから、ぼんやりとしているアスカの横を通り過ぎようとして、しばし足を止めた。
「おい嬢ちゃん、顔が真っ白だぜ。坊ちゃんは、大丈夫なんだろう」
 唸るような音の声色に、心配そうな気配が混ざっていた。アスカは息を詰めた。言葉を選びあぐねていると、少女の静かな声が、代わりに喋った。
「あのおっさんが、王子様は助からないって言ったんでしょ」
 少女、ネイの顔は、人狼と喋っていた時の表情を失って、昨日彼女が見せていた無表情に戻っていた。「どういう意味だ」とディガロが言う。アスカが口を開き、声を発せないでいると、少女が代わりに答えた。
「昨日、おっさんが王子様にしたやつ、あれじゃ呪いは解けなかったってこと。おっさんは一晩経過を見てたんだろうけど、やっぱりあれはオークの呪いだったんでしょ。オークの呪いを解く方法はないって言っていい。しかもあと二、三日もすれば、また王子様の体は元通りに悪くなる。またおっさんが同じことをしても、その繰り返し」
 毛皮に覆われた顔に、疑問の表情が浮かんだ。
「じゃあ、お前の親父があの坊ちゃんに繰り返し術ってやつをかけてやりゃいいんじゃねえのか」
 ディガロが言うと、少女は静かに、大男を見つめ返した。
「仮にそれをしたとしても、王子様の意識と体を維持できる保証はないし、彼は常に不安定な状態になる。それに、彼はアストルガスへ行かなきゃ生きてる意味がないんでしょう」
 その言葉の意味するところを察したのだろう、人狼は眉を険しくして少女を睨み、しかしそれがお門違いであることに気がついたように目を逸らすと、大股で玄関の奥へ進んでいった。
 大きな足音が遠ざかるとともに訪れた沈黙の中で、開け放されたままの玄関を見つめていた少女がぽつりと呟いた。「……変な狼」
 そして、その様子を見つめていたアスカの方へぐるりと振り返ると、少女は言葉を続けた。「あなたも」
 アスカはぎくりとする。彼女には、魔法使いの娘が言ったことの意味をどこかで理解できるようで、やはり理解できなかった。「…どういう意味?」
 少女は肩を竦め、答える代わりにそれを質問にして返した。
「ねえ、お姉さんはあの王子様…もちろん正しくは王様って知ってるけど、の部下…っていうか従者なんだよね?」
「ええ、そうだけど」
「これは、単に興味で聞くことだけど、実は二人はできてる、とかいうわけじゃないんだよね?」
「え?」
 息を詰めかけて、アスカは勢いよく首を振った。一回り近く年下のようにも見える少女から予期せぬことを尋ねられて、アスカは場違いにも頬に熱を感じる。彼女はやはり、この手の俗っぽい話題は苦手だった。
「そんなわけないじゃない。今私は形の上で彼と旅をしてるけど、この一件まではエレン様のお顔を拝見したこともなかったの。私たちの立場は違い過ぎるし、第一エレン様はこういう旅に私情を持ち込むお方じゃないわ」
 なぜこんなことを説明しているのだろうと少し慌てた頭の端で思いながら、アスカは話した。一方で少女は、彼女の回答をお気に召さなかったのか、腕組みをして食い入るようにアスカの顔を覗き込んだ。
「そうなの?あたし、ここでずっとおっさんと引きこもってるから、…もちろん買い物に行ったりはするけどね、人間の文化とか生活を自分で体験することって、実はあんまりないの。本を読んだり、おっさんの昔話を聞いたりして勉強はするんだけどね。これも、お姉さんの気分を害したくて言うわけじゃないけど、人間って大体はそそっかしくて思い込みが激しいか、そうでなきゃ強欲でしょ?でも時々それほどたちの悪くないやつもいて、きっとお姉さんはその部類なのかなって思ったんだけど、そういう人間が何を考えてるのか、ちょっと不思議になったの。ヒロイズムとか献身なんて、人間が理想を文字に起こした英雄譚の中に書かれてるだけの偶像なのかと思ってたけど、実在することがあるなら、どんな風になのかなって、興味を感じただけなんだけど」
 よく舌の回る魔法使いの娘は、生意気そうな口調で早口に言った。アスカは少女の不躾な質問に腹を立てることはなかったが、非常に戸惑った。もちろん彼女は人間の一人として、そしてその実情を知る一人として、少女の人間に対する悪い思い込みを訂正したいが、それを伝える上手い言葉は何だろうと思い悩む。彼女が眉を顰めていると、短い沈黙を待てなかったのか、少女は質問を継ぎ足した。
「つまり、こういういうこと。お姉さんはどうして、王子様の手助けをしてるの?すごく危ない仕事だよね?やらなきゃ故郷に帰った時に処刑されるの?家族を人質に取られてるとか?それともやっぱり、あの王子様のことを好きなの?」
 好奇心の光をたたえたアメジストの瞳が、彼女を覗き込む。アスカは少し迷い、そして少し息を吸い込んでから、答えた。
「いいえ、そのどれでもないわ。ねえ、こういう物語は読んだことはないかしら。例えば、英雄になった王様と、王様に忠誠を誓った勇敢な騎士たちの物語とか。マルケスと三人の従者の物語は聞いたことある?」
 少女は頷いた。「ある。おっさんの書斎にあった本で読んだ。すっごい簡単な話だったから、すぐ読み終わっちゃったけど」
「そうよね、すごく単純な話だったと思う。でもきっと私のことを物語にするなら、あの物語が近いかもしれない。私はただ自分の意思で、陛下のお手伝いをしたいだけなの。これを献身って言うのか、単なる思い込みと判断するのかは、私にはわからないけれど」
 質問者は首を傾げる。アスカは、言葉を補うように話した。
「エレン様がこの計画を思い立ったのは、彼が、お父上が築いた国とその人民たちを自分の体の一部のように愛していて、それを自分なりの方法で守りたいと思ったからだと思うの。私が陛下に従う理由は、一つは私の恩人が、彼のために働いているお役人だからってことね。彼を助けることが、私の恩人の望みを叶えることになる。でも私もフランツやミースや、その文化や人々のあり方や、そこでの生活を愛してるし、それが変わってほしくないって思ってる。もちろん他にも色々な理由があるし、重大な仕事を任されることを名誉に思うっていうような、言ってみれば自分のためにこの仕事を成し遂げたいと思ってる部分もあると思う。それに、私は陛下のことを尊敬してるから、素晴らしい王様の役に立ちたいとも思う。つまり、とても複雑なの。でも何もそれは全部悪いものではもちろんないし、全部いいものでもないかもしれないし、もっと言えば何が悪い動機でいい動機か、その間に線を引くのが難しい場合もあるんじゃないかと、私は思ってるけど」
 腕組みをしていた少女は、額に眉を寄せる。「つまり、お姉さんの理由は、報恩とか義理とか、愛国心とか名誉欲、忠誠心ってこと?」
「言葉に当てはめてみれば、そうかもしれない。でもその言葉の持つ意味だけで表せない場合もあるし、他にもあるかもしれない」
「確かに、ややこしいね。結局、言語も万能じゃないし、説明してもらってもわからないかも」自分から質問をふっておいて、少女は言った。アスカは、眉を下げて微笑んだ。
「私もこんなこと誰かに説明したのは、初めて。…あなたはこういうことを、お父様と話すの?」
 魔法使いの娘は頷いた。
「時々ね。でもおっさんは、そういう話は得意じゃないみたい。多分魔法使いだから苦手っていうわけじゃなくて、性格なんじゃないかな。あの人はあまり人間社会でいい体験をしなかったし意地が悪いから、人間について話す時に辛辣になっちゃうんだって自分で言ってた。あたしも、人間の街に行って、感じの悪い奴に会うこともあれば、優しい人に会うこともあるよ。親切な人に、どうしてあなたは親切なのって聞いてみたいと思ってたんだけど、多分それってすごく変な質問だよね?それにそんな時間もないし、いつか機会ができたら誰かに訊いてみたいって思ってたの」
 そこまで言って、いつの間にか腕組みを解いていた少女は、するりと視線を足元へ落とした。相変わらず生意気そうな早口だったが、その瞬間、変わらぬ無表情の顔が、彼女のなりにふさわしいひどく幼いものに変わったように見えて、アスカは彼女を抱き寄せたくなった。しかしそうすることが正しいことなのかわからず、その感情を抑えたまま、彼女は言葉を続けた。
「あなたの、お母様はどこにいるの?」
 父親が子供に語ってやれない部分を母親が補うことは、多くの家庭ではよくあることだろうが、この家の中には、どうやらその存在が欠けているようだった。少女は彼女が立っているポーチの上で、少し居心地悪そうに身じろぎしたが、今度はどこか遠くへ目をやったまま答えた。
「もうずっと前に死んでる。『フィルノルドのイーズル』の話って、知ってる?」
 やはり、と思って、アスカは瞬きした。「ええ、知ってるわ」
 少女は頷いた。「イーズルってのは、あのおっさんがフィルノルドの王宮で王様に仕えてた時の名前。あの話に出てくる、病気で死んじゃう王女様があたしのお母さんなの。実は王女様には、娘がいたって話」
「でも、つまり、それって…」アスカは驚くと同時に、質問に迷った。フィルノルドに魔法使いがいたのは五十年近く前の話だ。彼女の意図を察したらしい少女は、頷いた。
「半分人間じゃないから、年をとるのはすごく遅いみたい」
 目の前の少女は、どういう意図なのか悪戯っぽく笑った。暗い輝きを宿した瞳は大人びているように見えるが、やはりそれは子供っぽい仕草だった。アスカがつられて微笑むと、今度は彼女がアスカのその笑顔を、何か珍しいものでも見つけたように、大きな瞳で見つめた。アスカは言った。
「…お母様に会いたいって思うことはない?」
 少女が短い言葉で説明した彼女の生い立ちに興味を感じないわけではなかったが、相手にとっては重要ではないのだろうと思われるそれらの事項については触れずに、アスカは会話を続けた。
「別に。会ったこともないし、はじめからあのおっさんと二人きりだし。お姉さんの家族は?」
 先ほどと同じ好奇心の光を宿して、少女はアスカの瞳を覗き込んだ。アスカは頷く。
「私の両親は、私が小さな子供の時にもう亡くなってしまったの」
「まだ生きててほしかったと、思ったりする?」少女は問う。
「もちろん、そうね。けど、ふとした時に家族の優しい記憶を思い出すとね、とても幸せな気持ちになれることがあるの。きっとそういう家族の思い出を持ってる私は、そういうものがない私より、強くなってる。それにきっと、まだ家族が生きていたら、私は陛下の旅についてくることもなかったし、あなたとこうしてお話する機会にも恵まれなかったんじゃないかって思う。だから、私の家族が早くいなくなってしまったことが間違ってたとは、私は思ってないわ」
 もしかしたら最後の余計な一言は、自分に言い聞かせているのかもしれないと、アスカは思った。奇妙な感覚だった。彼女はこんな話を、アイリーンとですら、したことはなかった。
 相手は紫色の瞳を瞬きさせた後、ふうん、と頷いてから、「ねえ」と継ぎ足した。
「もしかしたら、お姉さんが頼めば、おっさんは王子様を助けてくれるかも」
 今度は、アスカが目を瞬かせた。
「どういうこと?」
 ネイは続ける。
「もちろん確実じゃないけど、延命の方法がないわけじゃないってのはさっき言った通りだよね、繰り返し魔力を与え続ければ、不安定な状況ではあるけど呪いを押しとどめられるって」
「ええ」アスカは、身を乗り出しそうになるのを抑えながら、辛抱強く頷いた。
「問題は、おっさんが旅をしたい王子様についていけないことでしょ。あのおっさんは人嫌いだから家の外へ出たくないんだろうし、実際、彼の今の肉体はもう使用期限を切れてて長い旅には出られない。そこで出てくる代替策が、あたしがおっさんの代わりにお姉さんたちに同行して、旅をしてる間だけ、王子様の手助けをするってこと」
「つまり…」アスカが言いかけると、魔法使いの娘は言葉を遮った。
「でも、今のあたしじゃ術を使えない。強い魔術を行うには魔力を継承しなきゃいけないけど、それはもちろんおっさんにやってもらわないといけないから。あたしは今、お姉さんたちとアストルガスへ行ってみてもいいかなと思ってる。でもそれにはおっさんの協力が必要だけど、あたしはあの人に頼み事をしたくないし、あたしが言ってもどうせおっさんは聞かない。ねえ、お姉さん、あのおっさんはケチだけど、あなたが頼んだら嫌だって言えないかもしれない。あのおっさんはソーサリーのくせに、人間の優しい女の人に弱いから」
 そこまで言うと、少女はにこりと笑い、踵を返して身軽な足取りで階段を上ると、玄関の奥へ消えていった。
 彼女の周囲は元の静寂の中に収まり、アスカは再び独りでポーチの上に残されていた。
 ネイの言葉を、彼女は頭の中で反芻した。もしかしたら、エレンを救えるかもしれない。彼の病を完全に癒すことはできなくても、彼に望みを叶えさせてやり、祖国を救うことができるかもしれない。
 アスカはいつの間にか、立ち上がっている自分に気付いた。彼女は握り締めた両手をそのままにして、ゆっくりと小屋の中へ入っていった。




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