23. 術師

文字数 7,379文字


 ピクシーの治療を受けてからエレンが目覚めていた時間は、ほんの数時間だった。
 目覚めた彼はアスカとレヴィから、どうやら彼が死に至る呪いを受けているらしいこと、本来なら間もなく死ぬところをピクシーの魔力で救われて、いくらかはわからないがしばらくの猶予を得たことなどを聞いた。
 エレンは、自分の幸運に内心で驚いた。一度広場で死ぬと思ったところを救われ、さらに彼が情けをかけなかった哀れな生き物の力によって、更に生き長らえた。
 ベッドの上に転がる自分の顔を覗き込んでいたアスカの両目が、涙に濡れて赤くなっていた。エレンは胸のどこかに、あまり彼に馴染みのない痛みが突き刺さるのを、再び感じていた。アスカは、彼女が救ってやった小さな生き物の命を、彼のために失ったのだ。彼の脳裏に、微笑みながらピクシーの手を取って歩く女性の姿が思い浮かんだ。そしてその彼女にあの涙を流させているのは、自分だった。
 しかしながら、彼には感情に溺れる時間などない。目覚めたとはいえ彼の体は重病人のように重く、頭は熱を発して思ったように働いてくれない。彼は感傷を忘れ、一刻も早く手を打たねばならない。
 まず彼は宿の中にディガロがいないことに気付き、ディガロを探しに行ってくれるようアスカに頼んだ。また彼はレヴィを、町外れにあるというジプシーの集落へ送った。ヘスの郊外にはジプシーたちが定住している区域があり、レヴィはそこへ行けば、あるいはエレンの呪いを解く手がかりを得ることができるかもしれないと提案したのだった。
 エレンは一旦、彼らを襲った刺客については、敢えて心配しないように努めた。あの刺客は幻覚の炎に驚いて退散しただけで、彼らは敵を倒したわけではないが、少なくとも相手がエレンに呪いをかけている自覚があれば、エレンは間もなく死ぬか既に死んだものと考えているはずだ。つまり、エレンが生き延びたことをどうにかして知りさえしなければ、刺客が再度彼らを襲うことはないはずである。
 アスカとレヴィが出ていった後ベッドの上に残ったエレンは、隣のベッドで眠っているアイリーンを振り返った。上半身と頭の殆どを包帯に覆われ、一見しただけでは彼女が誰なのかわからない状態になっていた。アイリーンがあの場にいなければ、エレンが既に死人になっていたであろうことは明白だった。彼女の父親はエレンを責めないだろうが、彼女の母親は泣くだろう。
 仮にエレンが呪いを解いて旅を続けることができたとしても、アイリーンをここから動かすことは難しいように思われた。ヘスには政府が運営する救護院がないので、彼らはヘスから移動するとすれば、彼女の身柄を教会かどこかに預けるしかない。
 またエレンは体の動かないうちに、旅の間にところどころで伝え聞いた戦地での状況について思考を巡らせていた。元はフランツ側のローエンとエール側のヴィーンの間で湖を挟んで始まった戦は水際に沿って拡大し、司令官のアンゾがイアン王の葬儀のために前線を抜けていた間に、西方のロルナの町にまで広がってしまったようだった。ロルナは小さな湊町で防備の施設などもほとんどないと同時に、言えば陥落させても戦略上の意味のあまりない地域である。相手方の指揮官である公子クインは相当な乱暴者でしかも愚か者であろうと想像すると同時に、まだ顔を見たこともないその敵を、エレンは強く憎悪した。じきにアンゾが戦場へ戻れば、恐らく彼は現在主戦場となっているルティタ――ローエンとロルナの中間に位置する――に戦力を集中させ、伸び切った戦線を一点に集中させてロルナから敵兵を退かせるだろう。もっとも正直に言えば、フランツにそれだけのことをできる人材がアンゾの他にいないのが、エレンにとっては口惜しく、また将来の懸念材料でもあった。
 退屈はよくない。心配事や悩みの種が尽きることなく湧きあがってくる。さらに悪いのは、救済策を実行するべき体が全く動かないことだった。







 一時間もしないうちに、ディガロを連れたアスカがやっと戻ってきた。部屋へ入ってきたディガロは、置いてきぼりを食ったことを怒っているというよりは、突然起きた出来事に驚いている様子で、特に半分ミイラになっているアイリーンを見た時は、眉間に深く皺を寄せた。
「野郎、完全に俺の留守を狙ってきやがったな。女々しい奴だ」
 新しく新調したらしい斧を背負ったまま、冒険者は舌打ちした。エレンは自分の呼吸の重さを無視しながら、顔に冗談らしい笑みを浮かべてみせた。
「よかったじゃないか、君の留守中だったから、これだけ被害が出ても君の給料は変わらない」
 ディガロはエレンの病人然たる顔を見ると、もう一度舌打ちした。
「死にかかってるって時に威勢のいい兄ちゃんだな、あんたも。俺は呪いやら何やらには詳しくねえが、さっさとどうにかしねえとあんたも死んじまうんだろ?そうなったら俺は減給どころか失職だ。必要だってならあんたを背負ってパルティア山脈にでも登ってやるから、行き先を言えよ、医者のいる場所を」
 するとエレンの代わりに、ディガロの隣に立っているアスカが答えた。
「医者には治せないの、呪いだもの。今何か方法がないか、レヴィがジプシーの長老に知恵を借りに行ってるの」
「ジプシーな。そういやいたな、町の外れに…」
 そう呟くと、ディガロは何かを思い出すように、無精髭に覆われた顎を手の平で覆った。それからちらりとアスカを見遣ってから、エレンに視線を戻した。
「それなら俺は、レヴィの奴に代わって買い出しにでも行ってくるか。もし医者やら魔術師やらがヘスの外にいるってなったら、また移動しなきゃなんねえんだろう。何よりじっと座って何かを待ってるのは俺の領分じゃねえ。買い物リストと財布をくれ」
 アスカが目を瞬きさせ、エレンも思わずディガロの顔を見た。
「…買い物用の財布には、大した金は入っていないよ」
 彼がそう言うと、ディガロは派手に顔を曲げた。
「おい、財布をもらってとんずらしようとか思ってるわけじゃねえよ。言ったように俺は待ちが苦手なだけだ。あんたも時間を無駄にすんのは嫌いな性質だろうが。どうすんだ、俺に使いっ走りさせる気があんのか、そうじゃねえのか」
 買い物リストはエレンが作っているわけではなく、レヴィが自分で選んだものを買ってくるのだが、買い物内容を共有しているエレンは、旅に必要なものが何かを既に覚えている。彼はそれをディガロに伝えると、アスカに頼んで買い物用の財布を渡してもらった。
 財布を受け取ったディガロが大股で部屋を出ていった後には、アスカとエレン、眠っているアイリーンが残された。
 一瞬の間、部屋の中に沈黙が落ちる。エレンはふと、アスカの顔を見る。もう時間が経っていることもあって、彼女の顔から涙の跡は消えていた。
「…彼は意外に、悪い奴じゃないかもしれないな」
 気が付くと、エレンは言っていた。空白を埋めるための会話だ。
「ええ」とアスカは頷いた。しかし彼女は、俯いたままだ。アスカは続ける。
「私――全然力になれなくて、申し訳ありません」
 何を言い出すのかと、エレンは瞬きした。
「なぜ、……君はことが起きた時、そこに居もしなかっただろう。それに、すぐに戻ってきて僕らを救ってくれたのは、君だ」
 いいえ、とアスカは首を振った。
「もしその呪いがオークの呪いなら、いえ、オークの呪いでないにしてもなにか呪術の類なら、私は襲撃者の気配を捉えられていたはずなんです。なのに私はキースの時も今回も、敵が近づいていることに気付きませんでした」
 アスカは体の前で組んでいた両手を、強く握りしめた。
 言われてみれば、その通りだ。魔術などに疎いエレンに詳しいことはわからないが、もしあの刺客が魔物であるなら、アスカが気が付かないのはおかしい。そして同時に彼の脳裏に、ざらついた低音が蘇った。――お前が嫌いだからだ――
 思考の波に攫われそうになったところで、しかしエレンはアスカにかけるべき言葉があることを思い出す。
「いや、もし君があの男の気配を感じられなかったとすれば、それは何か他に原因があったからだろう。君の失敗ではないよ」
 でも、とアスカが言いかけたところで、部屋の扉がノックされた。顔を上げたアスカが「はい」と答える。
「俺だよ、助っ人を連れてきた」
 レヴィの声だった。予想より早い帰還だと、彼は思う。アスカが扉を開くと、見慣れたレヴィの姿とそれに続いてもう一人のジプシーが、部屋の中へ入ってきた。レヴィと同じように鮮やかな髪飾りを黒髪からぶら下げた女性は、レヴィにそっくりだった。
「ごきげんよう、みなさん」
 女ジプシーは陽気に微笑む。レヴィが女性を紹介して言った。「彼女はサリー、長老の娘で、俺の母さんだよ。母さんはちょっとした呪術師なんだ。旦那の呪いが何か、どうやったら治せるのか、わかるかもしれない」
 ジプシーの呪術師がどういった術を行うのか彼は知らないが、サリーの浅黒い肌をした顔は、どういう魔法なのか息子と同じくらいの年齢に見えた。ひとまずエレンはベッドの上から新しい客人に向かって微笑みかける。
「こんにちは、エレンと申します。きちんとご挨拶できなくてすまない。あなたの援助に心から感謝します」
 すると、女ジプシーは嬉しそうに笑った。
「そんなご丁寧に陛下、私こそ、素敵なドレスをありがとうございます。あなたがくれたお金でレヴィが買ってくれたのよ。それより、よくわからない呪いを受けてしまったって聞いているわ、ちょっと見せてもらってもいいかしら?」
 彼がもちろん、と返事をするより早く、サリーはアスカの横をすり抜けて、エレンの眠っているベッドへ近づいてきた。たくさんの指輪や腕輪に飾られた手が伸ばされ、彼の額に触れる。彼は視界の端に、それを心配そうに見つめている、アスカの姿を捉えた。
 続けてサリーは両手で彼の両頬と顎に触れ、首に触れ、彼の胸の上に手を置いた。そしてしばらく目を閉じた後、細くゆっくりと、ため息を吐いた。
 横からレヴィが母親を覗き込み、「どうなんだよ」と心配そうに尋ねた。サリーは黒い瞳を開いた。
「陛下の血は毒を受けてるわ。今は光の粉が血の中に混ざって、血が黒く固まってしまうのを防ごうとしているけど、きっとそんなに長くは続かないわ。血が黒くなってしまえば、心臓も黒い石になってしまって、悪ければ陛下の体は死んでしまうし、もっと悪ければ黒い毒は陛下の魂にまで届いて、魂を黒く塗りつぶして、石になった体の中に永遠に閉じ込めてしまうわ」
 アスカの目が動揺を表して瞬きしたが、一方でレヴィが、「そんなことわかってるよ、だからどうしたらいいんだよ」と喚くように言った。サリーは続ける。
「もう、レヴィはうるさいわね。陛下、あなたの毒を解ける人間は、きっと今の時代にはいないと思います。でも陛下、あなたは幸運だわ、ヘスの奥に広がる棘の谷には、ソーサリーが住んでるんだもの」
 レヴィとアスカが目を見開いて、女ジプシーを見た。レヴィが言う。
「ソーサリーって、もしかしてフィルノルドのイーズルの話?あれって本当だったのかよ?」
 しかしサリーは再度右手で息子を追い払うようにすると、エレンに向かって話し始めた。
「陛下、棘の谷のソーサリーなら、もしかしたら陛下の毒を解けるかもしれません。でも彼は気まぐれだから、彼があなた達に会ってくれるか、私にはわからないわ」
 エレンは、呼吸の重さと同時に、徐々に視界がかすんでくるのも感じていた。彼は懸命に息をしながら、呪術師の顔をもっと鮮明に見ようと目を眇めた。
「こちらから訪ねていくことはできないんだろうか」
 彼が訊ねると、サリーは首を振った。
「彼は谷に住んでいるけれど、招かれなければ私たちがそこに辿りつくことはできないわ。でも訪ねてみなければ、決して彼には会えない」
「あなたは彼に会ったことがあるのか」
 すると呪術師は、どこか懐かしそうに微笑んだ。
「あるわ。まだ子供の頃に。迷子になって、一人で棘の森を三日間さまよったの。彼は、私の声を聞いて、愚かな子供を哀れに思ったから会いに来たのだと言ってたわ。その後も二回会ってくれたけれど、そのうち現れなくなってしまった。あなた達も森の中で彼を呼べば、あるいは彼に会えるかもしれない」
「あなた以外に、そのソーサリーに会った者は」エレンは訊ねた。
「私だけよ」
 何とも雲をつかむような話だ。案の定、彼の足元に立っているアスカが「でも、もし会えなければ、」と口にした。エレンも同じことを思っていたが、しかし、彼は首を振った。
「だが、方法は他にないんだろう。ならば、雲をつかみに行くのだとしても、棘の谷に行くしかない。そうでなければ、いずれにしろ僕は死ぬんだ」
 彼は淡々と言ったが、アスカとレヴィが、蒼白になった顔で彼を振り返った。一方で、サリーは頷いた。
「そうよ。こうしてる間にも陛下の血の中に流れてる光の粒は少しずつ死んでいくの。全部が死んでしまう前に、あなたたちは棘の谷の少しでも奥へ進むべきだわ」
 エレンは既に、魔法使いを探す決心をしていた。しかしまだ、彼らには問題が残っている。
「だが、アイリーンを置いていけない。レヴィ、この近所に教会か何かはあるか」
 彼が訊ねると、レヴィが返事をする前にサリーが答えた。
「陛下、そこの傷だらけの女の子のことなら、心配する必要はないわ。私たちのキャラバンの中で預かって、私が彼女の傷の手当てをします。私の息子に親切にしてくださったお礼よ」
 それを聞いたエレンは安心すると同時に、その時アスカの顔に安堵が訪れたのを見て、心のどこかでそれを嬉しく思っている自分に気付いた。彼は呪術師に向かって、笑顔を作る。
「それは、本当にありがたい申し出だ。どうもありがとう。どうか、僕の大切な騎士を、よろしくお願いします」
 ますますぼやけてゆく視界の中で、サリーが頷く。
「きっと陛下がアストルガスから戻ってくる頃には、以前よりも元気になってるはずよ。陛下、あなた達を魔法使いのところへ連れていくようにレヴィに案内させるから、何も心配しないでください。きっと、全部上手くいくはずよ」
 そう言いながら、サリーは再び、右手をエレンの額の上にかざした。エレンは呼吸の重さと目のかすみ以上に、ぼんやりとした眠気が急速に彼に訪れるのを感じていた。五感が遠ざかり、意識がまどろむ。途切れる寸前の意識を振り絞って小さく頷いた後、彼の意識は眠りの中に溶けた。







 突然眠ってしまったエレンを見て、アスカは思わずベッドの上の彼へ近づいた。
「エレン様!」
 すると彼女を宥めるように、サリーがアスカの肩を撫でた。
「大丈夫、わざと陛下に眠ってもらったのよ。起きているとそれだけ力を使ってしまって、血が黒くなるのも早くなってしまうの。目を覚ましている間中陛下は色々なことで思い悩むでしょうけど、そうやって心を煩わせるのも、この毒の働きを助けてしまうの」
 アスカは胸の前で拳を握り、溢れそうになる感情を抑え込んだ。
「ソーサリーのいる場所までは、どのくらいかかるんでしょうか」
 彼女が問うと、呪術師は小さな星がたくさん浮かんだ夜空のような瞳で、彼女を見つめ返した。
「大人の足で歩けば、二日くらいだと思うわ。もちろん彼があなた達に会うことを選べばだけれど。でもきっと会えると、私は思うわ」
 横から会話に入り込んだレヴィが、早口で言った。「待ってよ、俺に案内させるって言ったけど、俺はソーサリーが谷のどこに住んでるかなんて知らないよ」
「あなたは知ってるわよ。篝火の木のずっと東よ、昔連れて行ったでしょう。レヴィがそこまで案内できれば、彼が見つけてくれるでしょうし、彼女はきっと、彼の存在を感じられると思うわ」
 そこでサリーは、ちらりとアスカを見た。アスカの結界師としての能力のことを言っているのだろう。
 そうして彼らは、それがエレンの意思であるということが一番の理由だったが、早速棘の谷へ向かうことになった。アスカは、サリーと彼女の仲間たちがアイリーンを彼らの集落へ運んでゆくのに付き添い、その間にレヴィが、買い物から戻ってきたディガロに事情を説明した。
「谷だろうが森だろうが俺にとっちゃ大した事ねえよ、金になんならな」と、ディガロは何でもなさそうに言った。「そんで後から、あの坊ちゃんに散々恩を売ってやるよ」
 冒険者が協力的で、彼の口調が楽天的であることが、この時のアスカの気持ちを幾らか安心させた。棘の森は魔物の多いことで有名だが、結界師の自分だけでなくきっとこの男が一緒にいてくれるならば何とかなるのではないかと、その時のアスカには思えた。
 ところで棘の森では、キースからヘスへの道のりで使ってきたような驢馬すら曳いていくことが難しいという。小さな土手や川を渡る必要があり、荷物も最小限に絞る必要があると、レヴィは言った。彼らはテントや使う可能性の低い道具、アイリーンとエレンの武器もサリーのところへ預けてしまい、その日の昼過ぎのうちにヘスの町を出た。
 そして眠り続けているエレンだが、ディガロが背負っていくことになった。普通に背負っていると、意識のない患者の体は後ろに仰け反ってしまうので、ディガロはエレンの腕を自分の首の前で交差させ、彼が持っていたバンダナで縛った。短期間だが彼は軍隊にいたことがあり、重症だったり意識のない怪我人をこうして運んだと彼は言った。一方で荷物を運ぶことになったのはレヴィだが、彼の運ぶことになった最も大きく重い荷物が、ディガロの斧だった。
 彼らはサリーに見送られながら、ヘスの東側にある裏門から森へ入った。裏門を使うのは、木こりや狩人など一部のヘスの住民のみで、特に昼を過ぎてから森へ向かう者はほとんどいない。鳥の囀りと風が木々を揺らす音の他は殆ど音のない静寂の中を、彼らは森の薄闇へ向かって進んでいった。



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