27. 境界

文字数 5,528文字



 ディガロは自分の呼吸のやかましさに驚いた。右肩が恐ろしく熱く、そこにもう一つ心臓があるのではないかと思われるほど強く脈打っている。
 見てみれば食いちぎられたのは纏っているケープと服だけでなく、彼の肉の一部もだった。真っ赤な血が胸と腕を濡らしており、彼が対峙している巨大な獣は、彼の目の前で赤く汚れた口元をひと舐めした。
 久し振りに感じる痛みだった。多くの生き物、特に人間の生活領域にいるもので彼に深い傷をつけられるものはそう多くない。彼は奥歯を噛み締めながら巨大なワーグを睨み返した。獣も彼から目を離さない。
 目の前の獣が餌として狙っているのは彼の背後にあるものだ。薄皮一枚ほどの結界で魔物を退けているアスカ、そしてその彼女の足元に横たわるエレンとうずくまっているレヴィ。ディガロの位置からそれを見ることはできないが、アスカは目を閉じて限界まで集中力を高めているはずだ。傷を負ったレヴィは今結界の内側に退避している。
 睨み合いはしばらく続いていたが、先に痺れを切らした獣が飛びかかってきた。ディガロは両足を踏みしめ血に濡れたダガーを振る。凶器の刃は獣の巨体に斬り込んだが、巨大な獣の速度と体重がそれに勝り、彼の体を武器ごと地面に薙ぎ倒した。
「ディガロ!」
 獣の唸り声に混ざって、呻くようなレヴィの悲鳴が聞こえた。なぜ青年が叫んだのか理解できる。獣は大きな顎を開き、今度は彼の首へ噛み付いたのだ。反射的に上がった自分の雄叫びを聞きながら、彼は腹立たしさのあまり何かを引き裂きたくなった。尤も腹立たしいのは、それを引き裂くことができないからだが。
 魔法使いだか何だか知らないが、この惨状をどこかから黙って眺めていやがるのなら、見つけ出した暁には目の前の獣と同じ命運を辿らせてやる、彼はそう誓う。この数歩先で男の断末魔を聴きながらも祈り続けている勇敢な娘と哀れな怪我人たちを見て、何も感じないのか。ソーサリーとはそういうものだろうか。それとも同じことは運命の神に問うべきだろうか。神、彼は多くの人間たちがするように、それに対して一度も祈りを捧げたことはない。世の中がこうも不平等で残酷に作られているならば、なぜその創造主に祈ろうなどという気になるだろうか。しかしそれならば、何を何故、誰に対してあの娘は祈っているのだろうか?
 思考と視界が急速にぼやけ始める。彼はこの感覚をよく知っているが、今日はあまり好きになれなかった。彼は自分の弱さも呪った。しかし結末はどうあれ、今の彼にとって重要なのは、あの三人を生かすことだ。彼は抵抗を諦めると、燃えるように熱くなった体が変化するのに任せることにした。







 アスカは目を開いていた。ワーグは押し倒した人間の肩を巨大な前足で抑えつけ、その首元へ食らいついていた。
 掠れたレヴィの悲鳴を聞いたが、彼女自身は声を発することができなかった。声をあげれば結界を失ってしまいそうで、またそれ以上に、彼女の収縮した心臓は、それだけの余裕すら与えてくれなかった。
 森の木々を揺するような男の声が上がる。耳を覆いたくなるようなその音が止んだ時に男もこと切れたのだろう、そう思った次の瞬間、彼女は自分の視界に映ったものを見て、自分の目を疑った。
 魔物の下敷きになっていた血まみれの体が急速に膨らみ始めた。軋るような音を立てながら成長する体はそれが着ていた服を引き裂き、その下から現れた皮膚には男の髪と似た色の毛が次々と生じ、瞬く間に厚い毛皮のようになった。
 元の人間と比べて倍近い太さになった腕はいつの間にか武器を手放しており、しかしまだ人間のように五指を持った手が、彼を食い殺そうと奮闘している獣の頭を掴んだ。危機を察知したらしく、顎を開いて首を引こうとした魔物から蹴飛ばされた犬のような悲鳴が上がる。毛皮に覆われた大きな両手が、音を立てて獣の首を捻ったのだった。
 ワーグの体は動きを止め、ディガロだったものは、自分の上に乗っていた重りを押しのけると、何かを警戒するようにゆっくりと、二本の足で立ち上がった。人間の男の顔をしていた部分は今ではほとんど狼のそれのように見える。アスカは足元のレヴィが「人狼だ」と呟いたのを聞いた。彼の顔が青ざめているのは、見なくともわかった。
 人狼、アスカは例によってその存在については、法術院で読んだ本の知識としてしか知らない。しかし彼女の記憶するところでは、人狼は人間と狼の間で姿を変化させるが、基本的には知性や記憶はどの姿になっている間もほぼ継承されるはずだ。今日の今日まで旅路を共にしていた仲間が目の前で魔物に変わってしまったことは驚愕すべき事実だが、新たに現れた獣は、果たして彼女たちを傷付けるだろうか。
 ディガロの発する気配がずっと彼女の感覚に引っかかっていた理由を、アスカはやっと理解した。人狼は人間の姿をしている時は人間によく似た気配を纏うのかもしれない。しかし今の彼からは、はっきりと人ならぬ者の気配を感じた。
 今は死骸となったワーグよりさらに大きな獣は、落ちている斧を拾い、彼らに向かって二本の足でゆっくりと歩み寄ってくる。アスカは足元のレヴィが身を硬くするのを感じた。人狼の気配はワーグより随分強く、もしこの生き物が自分たちを殺す気であるなら、自分の結界では守れないかもしれないと彼女は感じた。
 獣は彼女の目の前まで歩み寄ってくると、随分高い位置にある両目で彼女を見下ろした。彼女は息を呑む。しかしすぐに、見下ろす青い両目が以前と同じ色をしていること、見覚えのある感情を映していることに、彼女は気付いた。
 アスカは、深く息を吸い、吐くと同時に、警戒を――結界を、解いた。
 人狼は獣の頭で頷くと、彼女の隣を行き過ぎて、目を皿のように見開いているレヴィへ向かって手を伸ばす。レヴィは一瞬躊躇したものの、毛むくじゃらの手を掴み、よろめきながら立ち上がった。
 獣はレヴィの裂けた肩と、腹にもある傷を指した。恐らくあの尖った歯と大きな口では人間のように話すことはできないのだろう。レヴィは相手の言わんとしていることを察したようで、頭に巻いていたバンダナをほどくと、それを腹の傷へ巻き始めた。
 人狼の肩には、ワーグの噛み傷が痛々しく残っているが、先ほど溢れていた血の流れは、今は止まっているようだった。彼が人間の姿へ戻らないことと関係があるのかもしれない。アスカがそんなことをぼんやりと思っているうちに、ディガロはいつの間にか付近に落ちていたレヴィの荷物を抱えた上、横たわっているエレンへ近づき、王の動かない体を、人間だった時よりも軽々と担ぎ上げていた。
 彼が王を持ち上げたのは片腕でだったが、病人を気遣うような穏やかな動作を見て、目の前の人狼は先ほどまでの人間の姿とは似ても似つかず口もきかないが、ここまで彼らと旅をしてきた男と同じ人物だろうと、アスカは改めて感じた。彼女はディガロへ歩み寄ると、彼に抱えられたエレンの顔を覗き込んだ。
 今まで気付く余裕もなかったが、エレンの顔は随分と青ざめており、まるで死体のようだった。彼女は息を呑むが、人狼は尖った鼻先でエレンの胸のあたりを指した。見てみると、確かにわずかに胸が上下している。
 傷口へバンダナを巻き終えたレヴィがまだ整わない呼吸を抑えながら、彼らの方へ近づいてきた。
「旦那は?」
 傷が痛むのだろう、眉を寄せた表情でレヴィが問う。アスカは、「まだ大丈夫」と答えた。
 レヴィは頷くと、ゆっくりと踵を返した。
「じゃあ、行こう。もう少しでソーサリーのテリトリーに入るはずだ。…色々聞きたいこともあるけど、今はちょっと、そんな余裕がない」
 そう言いながら、レヴィは再び森の道なき道を、先頭に立って進み始めた。アスカが見上げると、ディガロは狼の頭で頷く。彼女は彼の前に立って歩き始めた。レヴィの言う通りだ。湧き上がってくる疑問がないわけではないが、それを問うには、彼女もすでに疲れ果てており、ただ今は、一刻も早く安全な場所へたどり着いて、死にかけているエレンと傷ついているレヴィを救ってくれるはずの何かに出会いたかった。







 森の中を再度進み始めて間もなくアスカは、森が先ほどまでよりも静かになっていることに気が付いた。他の生き物たちの気配が小さくなっている。まるで、息を潜めているとでも言うのだろうか。それは彼女の背後を歩いている強力な魔物を恐れてのことなのか、ソーサリーのテリトリーとやらが近づいているからなのかは、彼女にはわからなかった。ただ、先ほどまで森の中に溢れていた気配の音は、徐々に無音へと近づいてゆく。
 彼らは黙々と歩き続けた。積もった落ち葉を踏みしめ木の根を跨ぎ、絡まった蔓の下を潜り抜け、数時間歩いただろうか、アスカはある領域に入った途端、周囲の音が、全く消えてしまったように感じた。転ばないようにと足元へ落としていた両目をふと上げると、目の前には白い光が降り注いでいた。天井を覆う木々が割れ、そこにだけ陽の光が降り注いでいる。
「ここの、はずだ」
 肩で息をしながら、切れ切れにレヴィが言った。彼は今にも倒れそうだったから、「そうでないと困る」というのが正しい彼の台詞だったかもしれない。
 しかしアスカも不思議と、ここに違いないだろうと感じていた。アスカは自分の背後で人狼が身じろぎするのを感じ、高い位置にある頭を振り返った。アイスブルーの瞳は何かを見つめており、アスカはその視線の先を追った。日光の注ぐ場所には半ばで折れた巨木が佇んでおり、突然の光量に目が徐々に馴染むうちに、その幹の陰から現れた人影に、彼女は気付いた。
 あるいはその人影は、初めからそこに立っていたのかもしれない。気配もなくそこに佇んでいる人型は、小柄な少女の姿をしていた。ほっそりした肩の上に、猟師のような茶色のケープを羽織っている。フードの下から、黒い髪と白い顔がのぞいている。
 彼女の前に立つレヴィがなぜか少女を見つめたまま固まっているので、アスカは代わりに進み出て、口を開いた。
「あなたは、誰?」
 彼女が言うと、少女はまっすぐに彼女を見つめ返した。少女に気配はなく、そのアメジストの瞳からは、感情を感じられない。そしてやはり感情を感じさせない声が答えた。
「私はネイ。こっち」
 それだけ言うと、少女は歩き、すぐに巨木の陰へ隠れて見えなくなってしまった。アスカは慌てて足を進め、その後を追う。
「アスカ、」
 レヴィの不安そうな声が聞こえた。アスカはなぜか、確信をもって答えた。
「大丈夫」
 日光の下へ出て、彼女が巨木の幹の裏側へ回り込むと、幹の向こう側にはひどく藪が茂っており、まるで行き止まりのように見える。ケープの少女はその前に立って待っていた。
 アスカが追いついてくるのを待つと、少女は生垣のように高く茂った藪を分け入って、その中へ進んでいった。アスカはそのケープの裾が見えなくなってしまう前に、少女を追って藪に頭を突っ込んだ。
 その昔、王宮の裏庭の生垣を、アイリーンに引っ張られながら無理やり抜けた時の記憶が、一瞬彼女の頭の中によみがえった。王宮へ招かれたばかりで右も左もわからなかった頃に、アイリーンは彼女に初めて声をかけ、友達になってくれた。同じくらいの年の女の子が騎士団長の娘だったと知ったのは、随分後のことだった。ヘスへ残してきたアイリーンのことを考え、早く彼女のことも救いたいと思う。そのためには彼女は、今この瞬間も進まなくてはいけない。
 藪を抜けると、目の前には森に囲まれた、しかし少し開けた小さな谷が広がっていた。先ほどの巨木によく似ているが、折れてはいない大きな木があり、その根元に寄り添うようにして小さな家がある。小さな家だが、こんな森の奥深くにあるにしては不自然な、美しい建物だった。家の周りには小さな花壇と畑、井戸があり、そのどれもが、日光を浴びて緑色に輝いて見えた。
 家に向かって小道が伸びており、少女はその上を進んでいる。アスカの足もいつの間にかその小道の上に立っており、再び彼女が目を上げて家の方を見ると、扉が開いて、中から僧服のような裾長の着物を着て、杖を持った男性が現れた。
 少女が立ち止まり、杖をつきながら小道を進んできた男性と、少女を追ったアスカは、ちょうど少女の前あたりで対面した。男性は杖をついているが、黒々とした髪も皺のない顔も三十を少し過ぎた程度の青年に見え、しかし少女と同じ色の瞳を覗き込んで、アスカは彼がひどく年老いているような印象を受けた。
 男性はアスカが彼の瞳を見たと同時ににこりと笑い、上品な仕草でお辞儀をした。その動作が宮廷人のようで、アスカはふと、フィルノルドのイーズルの物語を思い出した。男性が言った。
「ようこそ、アスカ殿。お迎えにあがれずに申し訳ない」
 アスカは彼が自分の名前を呼んだことに少し驚いたが、すぐに首を振った。
「いいえ、お招きくださって、ありがとうございます。お願いです、私の友人を助けてください」
 彼女は必死だった。魔法使いは微笑して頷くと、「こちらへ」と残し、踵を返して家に向かって歩き始めた。
 その後ろ姿を追う前に、アスカは振り返ると、庭を囲むように広がっている生垣の手前で、草の上に屈みこんでいるレヴィと、ちょうど生垣から抜け出してきたディガロを見た。アスカはまずレヴィを助けて立たせるために、仲間たちのもとへ駆けていった。



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