20. 蔓草

文字数 5,447文字



 彼らはキースの市場で一度斧を持った男に襲われたが、その後襲撃はなく、今ではキースを出てから五日が経っていた。
 キースからエール領へのルートはいくつかあるが、彼らはそのうちでも、少人数での旅に最も安全な道を選んだ。それが東の森へ入り、森の中にある唯一の都市であるヘスの街を経るというものだが、キースからヘスまでは徒歩での移動になるということもあり、一週間ほどの時間がかかる。
 ヘス周辺の森には悪路が多く、馬は使えない。しかしテントなどを運ばなければならない彼らは、荷運び用のロバを一頭連れて、キースの街を出た。
 正直な話、アスカはかなり疲れていた。
 彼らは森の入り口で一泊し、さらに森の中で四泊した。日の出ている間は歩き通し、陽が落ちるとテントを張ってアスカがそれを結界で囲む。アスカは昼の間は魔物の気配を探しながら歩き、夜も襲撃者が訪れるかもしれないと思うと、深い眠りにつくことができなかった。それはもちろん、キースの市場で彼らを襲った刺客が再びやってくることを懸念しているからだ。しかしアスカが目に見えて疲れてくると、エレンは彼女に休養を取るように言った。
 具体的には三日目の朝、朝食や諸々の用事を済ませて歩き始めた時に、エレンは彼女に向かって、「今日は何も考えず、ただ歩くことだけを考えればいい」と言った。
 アスカは反論した。「お気持ちは、感謝に耐えません。でも私は、このためにいるんです。自分の仕事を疎かにはできません」
「だが君がそうして無理をして倒れでもしたら、僕らは先に進めなくなる。それこそ本末転倒というものだろう。これは命令だ、今日は魔物探しはせずにただ歩くこと。決定の責任は僕にある」
 そう畳まれてしまえばアスカにはそれ以上反論のしようがなく、彼女はやむなく黙って歩くことにした。
 キースに滞在した日から、アスカとエレンの間の会話は極端に少なくなっていた。原因は明らかにピクシーの件だろう。結局アスカはキースを出る時も、小さな魔物を連れてきた。エレンは、この件についてはっきりと裁定するような言葉を発せずに、結果として彼女がピクシーを連れて歩くことを許した。しかし彼の判断を受けてアスカの中の罪悪感は消えるどころか、ますます膨らむばかりだった。それでも魔物を置き去りにできない彼女は、結果としてエレンと口を利くことができなくなってしまったのだった。大人気ないし情けないことだとは思うが、他にどうするべきなのか、彼女にはわからなかった。
 ところで例のピクシーは、森に入ってもまだ彼らと一緒に歩いていた。ピクシーの住処はヘスの向こうにある谷の奥だそうで、彼らの次の目的地ヘスはその途上にあるというわけである。何よりこの魔物は、数日の間にかなりアスカに懐いていた。
 始めは大きな目をぎょろぎょろさせて黙り込んでいたピクシーだが、森へ入ってから時々、アスカに話し掛けてくるようになった。ただしピクシーは人間の耳に聞こえる音を発することができないので、実際には話すわけではなく、会話のタイミングに合わせて自分が話している幻覚を相手に見せる。風変わりなコミュニケーション方法だが、アスカはそうしてこの魔物と時々お喋りをした。
『おねえさんは、どうしてヘスへ行くの?』
 森の中、落ち葉の積もった道の上、アスカの隣を歩きながらピクシーは言った。
「私たちはアストルガスへ引っ越すの。ヘスは、その途中にある街なのよ」
 へえ、とピクシーは頷いた。
『この人間はみんなお姉さんの兄妹なの?』
「友達よ。…エレンは、私のお兄さんだけれど」
 嘘をついていることに小さな罪悪感をおぼえながら、アスカはそう答えた。アスカは同時に、レヴィを挟んで彼女たちの前を歩いている、エレンにちらりと目を遣った。
 するとピクシーは、エレンを見ながら目をきょろきょろさせた。
『…お姉さんのお兄ちゃんはこわいよ。あの人、ピクシーを嫌いみたいだよ』
 ピクシーの幻術もとい幻聴は、エレンにだって聞こえているはずだ。ピクシーの明け透けすぎる言いように、アスカはぎくりとした。
「…そんなことないわよ。旅が危険だからエレンは悩んでいることが多いけれど、賢くて、本当は優しい人なの」
 言葉を繕うように言ったが、これは嘘ではないとアスカは思った。また考えてみれば、エレンは若いといえど国王だ。そのエレンとまるで友人か本当の兄弟のように気安く語り合っていた先日までが、むしろ不自然だったのかもしれない。しかし一度は縮んでいたと思った心の間の距離が広がってしまったことは、アスカに悲しみを感じさせた。
 すると突然、彼らの後を歩いていたディガロが声を発した。
「おいチビ、ピクシーは病気とか怪我を治す魔法を使えるってのはほんとなのか?」
 乱暴な声の調子に、ピクシーはびくりとして振り返った。ディガロの身長は小さな生き物のほぼ倍の高さである。ピクシーが答えないので、アスカが代わって答えた。
「本当よ。ピクシーは自分の体に宿っているエネルギーを触媒なしで完全に別の個体に移すことができるの。もともとピクシーは枯れた植物の種から生まれると言われていて、それは老いて死ぬピクシーがその死に際に、枯れた種に自分の生命力を全て移して、その種がピクシーの生命力で生き返り、やがてピクシーの姿になるからってことなんだけれど――つまり相手が枯れた種でなくても、エネルギーを別の個体に移すことができるということね。でもそれをすればピクシーは死んでしまうのだし、彼らに強制的にそれをさせることはできないけれど」
 明らかに冒険者を見上げる魔物の目が怯えていたので、アスカは歩きながらも半ば小さな生き物を庇う位置に立ちながら、注釈をつけてそう言った。ディガロは肩を竦める。
「別にそいつを取って食おうとかとっつかまえて売り飛ばそうってんじゃねえよ。単にピクシーがそういう能力を持ってんなら、強欲な人間どもがなんでそいつを商売のネタにしてねえんだろうなって思っただけだ」
「人間でも呪術を行うのにその時の精神状態って重要なんだけれど、ピクシーが生命力を移すには、悲しみ以外の感情が必要だって言われているの。例えば彼らを脅迫したり、痛めつけて命じたところで、そこから生まれる感情が負の性質しか持っていなければ、能力を発揮することはできないってことよ。……まあ全部これも、法術院で習った知識でしかないけれど」
 そうして彼女が足元を見下ろすと、彼女を見上げる黒々とした瞳が同意を表して大きく頷いていた。法術院で勉強した時は学んで何に使えるのだろうと思った知識だったが、こんなところでお披露目する機会があるとは思わなかった。
 何となく照れくさくなり、アスカはピクシーの頭を撫でた。
「そういえば、あなたの名前はなんていうの?」
 するとピクシーは物珍しそうにぱちくりと目を瞬かせた。
『ピクシーに名前はないよ』
 へえ、とディガロが声をあげた。アスカも少し驚いた。ピクシーの能力については学習したが、その文化についてまで興味を持って研究している人間は滅多にいないのだろう、それに関する文献もアスカは見たことがない。よって、それは彼女にも初耳だった。
「じゃあ、どうやってお互いのことを呼んだり、誰かその場にいないお友達の話をする時はどうするの?」
『そんなことはしないよ。そんな必要はないんだよ。ピクシーは、みんなでひとつなんだよ。あのピクシーとこのピクシーは、仲間同士というよりは、同じなんだよ』
 さっきから首を突っ込んでいるディガロが、明らかに眉間に皺を寄せた。
「意味がわからん」
 恐らくアスカの顔にも同じように解消されない疑問が浮かんでいたのだろう。ピクシーはさらに言葉を続けた。
『お姉さんは、草が話すのを聞いたことある?きっと人間だからないだろうね。草は、自分のことを呼ぶ時に、人間語で「私達」っていうような意味の言葉を使うんだよ。「私」っていう言葉は草にはないんだよ。ピクシーも同じだよ。だからピクシーには別のピクシーが生まれたり死んだりしても、それは全部自分のことなんだよ』
 小さな生き物は淡々と語った。しかしやはり言葉の上では理解しても、その意味するところが彼女の感覚まで降りてくるには、もう少し時間が必要に思えた。ディガロなどはとうとう理解できないことに対する興味を失ったらしく、首を振ると明後日の方向を向いてしまった。
 しかしその時、彼女の脳の片隅で、今まで使っていたのとは別の神経が警告を発した。急速に近づいてくる魔物の気配だ。彼女は思わず顔を上げた。
 どうやらディガロは明後日の方向を向いたのではなく、彼女と同様に敵の気配を同じく感じ取っていたらしい。冒険者は、背負っている大剣の柄に手を掛けた。
「おいお嬢さん方、捕食者どもがお越しだぜ」
 前方をエレンと歩いていたアイリーンが振り返った。「魔物?」
 アスカは頷く。「そうみたい。そんなに大きくないけれど、四体くらいいるみたいだわ」
「どうせ森ワーグかなんかだろ。おいアイリーン、狩りを手伝えよ。ここはいざとなったらアスカの結界で守れんだろ?」
 どうやらこの冒険者は、歩くだけの旅に退屈していたらしい。危険が現れたというのに明らかに楽しそうに男は言った。一方アイリーンは命令されたことに不満気な表情を見せながらも、主君のために腕を振るう機会を得たことに対しては、まんざらでもなさそうだった。
「いいけど。相手がワーグだったらレヴィのひょろっちい矢じゃ役にたたないもんね、援護してあげる。エレン様、アスカたちと先に進んでてください。私とディガロで魔物を片づけてきます」
 アイリーンとディガロを見比べ、エレンは頷いた。
「ここは君らに任せて問題なさそうだ。頼む」
 それを合図にして、ディガロが「行こうぜ」とアイリーンに声を掛け、列から抜けて歩き始めた。
「ちょっと、あんた方向までわかるわけ。アスカに聞かなきゃ」
 ディガロを追いながらアイリーンが言う。
「おー、何かさっき遠吠えっぽいの聞こえただろ。こっちだ」
「あんたの耳動物並ね、あたしそんなの聞こえなかったけど」
「羨ましいだろ」
 そんなことを言いながら、二人は木の根を跨ぎ茂みを分けて早足に遠ざかっていった。
「じゃあ、僕たちは彼らとの距離を測りながらゆっくり進もう」
 エレンの言葉に従って、アスカもレヴィの後ろについて歩行を再開した。確かにディガロはまっすぐ、魔物の気配がする方向へ進んでいった。アスカは意識を集中してアイリーンとディガロの気配を追う。まだ両者は接触していないようだ。
『お姉さん、大丈夫?』
 気が付くと、ピクシーが彼女のスカートの裾を掴んでいた。知らずのうちに緊張が顔に出てしまっていたようだった。彼女は頷いた。
「ええ、大丈夫。ごめんなさい、どうしても不安になっちゃう、私の悪い癖なの」
 しかし、ピクシーはぶんぶんと首を振る。
『悪くないよ。お姉さんは優しいよ。ピクシーを助けてくれたもの。大丈夫だよ、ピクシーはお姉さんを守るよ。幸せをくれたお礼だよ』
 そう言って、小さな魔物は大きな目を細めて笑った。思わずアスカもつられて微笑んでしまった。このピクシーは先日人間の彼女に助けられたばかりな上に、アスカが知る限りではピクシーに戦闘能力はないはずだ。しかしそれでもピクシーがくれた言葉が、彼女には嬉しかった。







 アイリーンとディガロは間もなく戻ってきた。しかもディガロはワーグの死体を一体担いでいた。毛皮として、翌日到着予定のヘスの街で売る気だという。それはそうと、彼らは新しい問題を報告してきた。
「ディガロの剣が折れちゃったの」
 渋い顔をしているディガロの代わりに、アイリーンが早口で説明してくれた。
「剣で森ワーグを思い切り木の幹に叩きつけたんだよね。もちろんワーグは死んだんだけど、何と剣もそこで真っ二つんなっちゃってさ。だいぶ年季入ってそうだったもんね。あたし、あれをあんたが手入れしてるのも見たことないし。だめじゃん、武器には手入れが欠かせないんだよ」
「中古で買ったんだ。手入れの仕方なんざよく知らねえし、俺にとっちゃ武器なんてのは壊れるもんで、買い替えるもんだ」
「予備の武器は持っているんだろう?」
 そう訊ねたのはエレンだ。彼の目はディガロが腰に提げているナイフとダガーに向けられている。
「ああ。だがこいつらはおもちゃみてえなもんだ。くそ、ヘスにまともな武器屋なんぞあったかな」
 横からレヴィも口を挟む。
「ヘスには武器屋はないよ。運良く行商人がいれば、武器を売ってるかもしれないけど、そんなでっかい剣は扱ってないかもなぁ。あ、でも金物屋ならあるよ。木を伐るための斧ならあるだろうから、最悪それを使うってのもありじゃないかな」
 斧、と聞いて、アスカはキースでの襲撃者を思い出していた。あの男は、大きな斧を使っていた。武器としては珍しい部類だ。もしかして、あの重そうな斧と打ち合ったから、ディガロの剣は折れてしまったのではないか――またすぐに、彼女の中に不安がやってくる。本当に悪い癖だと思う。しかしどうしてもあのフードをかぶった暗殺者の姿が、不吉な影のように、彼女の頭の中から離れなかった。



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