14. 市場

文字数 2,236文字




「エレン様大丈夫かなぁ」
 アイリーンがぼそりと言った。今彼女たちは、キースの市場に流れる人混みの中を歩いている。市場にはいくつものテントが軒を連ね、色とりどりの紗布が客の目を引き付けようとその軒を飾っている。その楽しげな光景にそぐわない不安気な声音に、アスカは友人を振り返った。
「大丈夫よ、エレン様は賢いし、彼がそう判断したなら、それを信用すればいいと思う」
「そうなんだろうけど……でもね、もし万が一何かあったら、あたしパパになんて言えばいいか、」
「でも、だからって四六時中くっついているわけにもいかないでしょ?ほら、あの人が言うみたいに、お手洗いに行く時くらいは……」
 アスカの脳裏を、長身の冒険者の顔と秀麗な若い王の顔が交互に過ぎる。アスカは『お手洗い』と単語を自分で濁しておいて、何となくその先の言葉に詰まってしまった。王宮の奥にある書庫に籠って本や書類と対面ばかりしてきた彼女は、この手の話題はどうにも苦手だった。まさか本当にあの清廉な王が、ディガロの言っていたように『必要』のためにそういう場所に出かけていくというようなことがあるのだろうか、と彼女は考える。
 するとそこで、二人の前方を歩いていたレヴィが何かを見つけたらしく、「二人とも、あれ見なよ」と楽しそうな声をあげた。ある意味良いタイミングで会話を中断され、アスカとアイリーンは彼の指が差している方向へ首を回した。
 それは婦人用の服や装飾品を売っている店だった。店の前に飾られているドレスは、フランツの一般的なドレスの型をしているが素材に東方産の織物を用いているらしく、透明感のある青い布地に施されたビーズ付きの刺繍が見事だった。
「きれいだよねぇ」と言ったレヴィに対して、アイリーンは眉を寄せた。
「あんたが着るわけじゃないでしょ」
 そりゃそうだよ、とレヴィは笑う。「でも俺は詩人だからさ、きれいな物には何だって目がないんだ。ねえ、ちょっと見てみようぜ」
 そう言いながら既に店に向かって進んでいるレヴィに、アスカとアイリーンは特に反対もせずついていった。「詩人だなんての初耳なんだけど」とアイリーンはぼやいたが、レヴィは聞いていないようである。
「母さんへ土産物を買ってきたいんだ。今回ので、結構俺は稼いでるからさ」
 先日ディガロが、レヴィがエレンから受け取っているであろう報酬を予測して、ジプシーには大金だろうというようなことを言っていたのをアスカは思い出した。実際に、今のレヴィが先ほど立ち寄ったベーカリー市場で買い込んだビスケットを齧りながら歩いているところを見ても、ディガロの言葉はあながち外れていないようである。
 三人は店へ入り、レヴィはビーズの縫い付けられたスカーフの棚を眺め渡した。「母さんは赤とオレンジが好きなんだよな~」
「レヴィは優しいのね」
 母親への贈り物を物色するジプシーの隣に立って、アスカも一緒にスカーフを眺めた。友人の、家族への思いやりに心を温められると同時に、それを少し羨ましいとも思う。自分にもまだ母親がいれば、彼女へ贈り物をしたかったと、アスカは思う。
「そうかな?アスカのお母さんがまだ生きてれば、君も同じことしただろ」
 そう言って、レヴィはにこりと微笑した。考えていたことが顔に出ていたのだろうか、アスカは少しはにかむと、すぐに棚に掛けられたスカーフへ目線を戻した。彼女の背後でアイリーンが言った。
「あたしもママに何か買ってこうかなぁ。でも、荷物になっちゃうし、うちのママはあんまり派手なのは好きじゃないんだよね。大事な旅の途中に余計な買い物してたなんてわかったら、逆に怒られそう」
 あはは、とレヴィが笑った。
「くそ真面目なお母さんだなぁ。道理でアイリーンの性格にも俺、納得がいったよ」
 どういう意味よ、とアイリーンが唇を尖らせた時、通りの方からラッパとタンバリンの音、賑やかな歌声が響いてきた。思わず三人はそちらへ目を遣る。
 それぞれ道化と農民の紛争をした男にジプシーの女がひとり、どうやらサーカスの宣伝をしながら歩いているようだった。北の広場でショウを行うらしい。店で品物を物色していた買い物客の何人かが、宣伝にひかれたらしく、道化師の後を追って歩いていった。
「サーカスだって」
 アイリーンが目を瞬きさせた。「あたしサーカスって見たことない」
 王都ミースはどちらかというと研究施設などが多い学園都市であり、治安と秩序を重視した前王の政策のために流通や商業行為に対する規制が厳しい。ミースに大規模なサーカスやキャラバンがやってくることは滅多になく、アイリーンと同じくアスカもサーカスを見たことはなかった。
「それなら、二人でサーカスを見に行ってきたら?珍しい動物や手品を見られるし、面白いと思うよ。俺はこの後一人で買い物して回るからさ、夕食まで食べてから宿へ戻っておいでよ。それとも一応、エスコートが必要?」
 眉を上げて見せたレヴィに対して、アイリーンがぶんぶんと首を振った。
「大丈夫、アスカのことはあたしがエスコートするから!ねえ、サーカス行ってみようよ」
 アイリーンは顔を輝かせると、アスカの腕を掴んだ。アイリーンは仕事熱心だが、同時に好奇心の強い娘でもある。アスカもサーカスに興味はあったが、それ以上にサーカスを見に行くことでアイリーンの心配性が紛らわされるならと思い、彼女は友人に同意した。



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