22. 蛍火

文字数 3,226文字



 エレンは宿の部屋に入ってベッドの上に倒れ込むなり、動かなくなってしまった。
 宿までの道中、アスカは驢馬を引いてエレンの隣を歩いていたが、彼の体調が思わしくないらしいことには気が付いていた。しかしベッドの上で突然意識を失ってしまった彼を見て狼狽しないわけにはいかず、その上ピクシーが言う呪いのせいで、エレンに触れることもできない。一方アイリーンも酷い怪我を負っており、レヴィが彼女の手当をしたもののアイリーンも目覚める気配がなかった。彼女は骨折しているかもしれないとレヴィが言い、もしその通りなら、回復には相当な時間がかかるだろう。
 手の空いたレヴィもエレンの様子を見ようとしたが、結局誰もエレンに触れられないために手の施しようがなく、エレンが目覚めた時に飲ませるための薬を用意することくらいしかできなかった。
「黒い血の呪いって、聞いたことがあるよ」
 レヴィが言った。彼はアスカと並んで、ベッドの上のエレンを見下ろしている。エレンの首には乾いた液体が真っ黒な炭のように固まっていた。整った顔は蒼白で、閉じられた瞼は開きそうにない。呼吸する胸が上下していなかったら、まるで死体のように見えただろう。
 黒い血の呪いについては、アスカも知っていた。魔術史の講義で聞いた、フィルノルドの王スタニスラフと、オークの血の呪いの物語である。
 オークはその体に流れる黒い血を相手に触れさせることで、その血に込めた呪いを相手の心臓へ届けることができる。呪いは黒い血に触れた表皮から浸み込み、呪いを受けた者の全身を冒す。しかしその呪いがどう行われるのか、呪いを受けた者に何が起こるのかまでは、アスカは詳しく知らない。彼女の隣で、レヴィが独り言のように続けた。
「でも、黒い血の呪いはオークの血の呪いだ。じゃあ、その刺客はまさか、オークだったってこと……」
 アスカも彼と同じ疑問を抱いていた。しかしアスカもレヴィも、エレンが呪いを受けた瞬間を直接見たわけではない。何か道具や呪術を使って呪いを行った可能性もあるし、何より今の彼らにとって、問題なのは刺客の正体よりも、目を覚まさないエレンだった。
「ねえレヴィ、もしこれがオークの呪いだったとして、それを受けるとどうなるの?呪いにも色々あるでしょう」
 ジプシーであるからというよりは彼の母親の影響らしいのだが、レヴィは魔術や呪術に詳しい。アスカが訊ねると、レヴィはまだ呆然とした表情のまま振り向いた。
「あ、ああ…オークの呪いは、すごく強力なものだって聞いたことがあるよ。血に触れた相手の血を、黒く変えてしまうんだって」
「それって、つまり……」
 レヴィは頷いた。
「相手の血を魔物の血へ変えちゃうんだよ。全身の血が黒く変わってしまえば、呪いを受けた相手は生命力を失って死んでしまう。でも稀に生き延びて、そのまま魔物になってしまう場合もあるって話も、聞いたことがあるよ。魔物になってしまった人間は、見た目にわかる場合もあればよくわからないこともあって、そのままこっそり隠れて人間社会の中で生き延びることもある。そうしてある時突然、怒りを現して周りの人間を殺したりする。そういえば、前の夜にオークを滅ぼした王様の話をしたよね。フィルノルドの王が恐れたのは、そうやって人間の中に魔物が入り込むことだったって」
「じゃあ、エレンは…」
「魔物になってしまうっていうのは殆どおとぎ話みたいな話で、実際の例を聞いたことはないけれど、そうでなければ間違いなく…血が全て黒くなってしまえば、人間の心臓は石になってしまうんだって」
 彼自身も青ざめた顔をしながら、レヴィは言った。彼が『死』という単語を使うことを避けたことが、かえってアスカに不吉を強く予感させた。
「そんな、どうにかならないの…?」
 気が付くとアスカは、ベッドの足元に座り込んでいた。やっとヘスまでたどり着き、国境は目前だった。ここでエレンが死ねば、戦争は止まず、フランツは老宰相のものになる。そして何よりアスカにとっては、エレンという個人を失うことが辛かった。若い国王を友人と呼ぶことが許されるなら、彼女はエレンに対してそれに近い感情を抱いていた。ここ数日彼との会話は少なかったが、だからこそ、このまま別たれてしまうのは耐え難かった。
 その時彼女の肩に、小さな手の平が触れた。アスカが振り返ると、そこにぼやけたピクシーの姿が立っていた。視界がぼやけていたのは涙のためだった。知らない間に、アスカは泣いていたようだった。
『お姉さんは、そのお兄さんのために悲しんでるんだね』
 ピクシーが言った。大きな瞳が彼女の目を通して、彼女の心の中を覗き込んでいるのを感じながら、アスカは頷いた。それを見て、ピクシーは続ける。
『ピクシーは、お姉さんが悲しいと悲しいよ。だからピクシーが、このお兄さんの呪いを少しだけ薄めるよ。そうしたらきっと、このお兄さんはすぐに死なないで済むよ』
 その言葉に、アスカだけでなくレヴィも目を見開いた。
「え、どうやって…」
 レヴィの言葉に、ピクシーが答える。
『大きなお兄さんが言ってたみたいに、ピクシーは人間の怪我や病気を治せるんだよ。黒い呪いは強いから、ピクシーだけじゃ全部を消すことはできないけれど、お兄さんは少しだけ長生きできるし、他の人が触っても大丈夫になるよ。だからその少し伸びた時間の間に、お兄さんを治す方法を探すんだよ』
 大きな瞳は、何の感情の起伏を現すこともなく、淡々と答えた。しかしアスカは困惑する。
「でも、そんなことをしたら、あなたは死んでしまうんじゃないの」
 そうして彼女は思わず、目の前の生き物の細い手を掴んだ。ピクシーはそこで初めて、小さくにこりと微笑んだ。
『お姉さん、大丈夫だよ。死ぬっていう言葉は、ピクシーには使わないんだよ。ピクシーは一度お姉さんの前から消えても、元の場所へかえっていくだけだから。それよりもお姉さん、ピクシーにたくさん幸せをくれてありがとう』
 そう言い切ると、本当に何の未練もないように、小さな生き物はアスカが掴んでいないもう一方の手を、ベッドの上のエレンに触れさせた。触れた手の平から淡い黄緑色をした光があふれ始め、その蛍のような淡いともしびは、すぐにピクシーとエレンの全身に広がった。
 みるみるうちに、小さな生き物の皮膚が水分を失った紙のように萎み始め、枯れた蔓のように縮んだ。しかしこの光景はなぜかアスカに恐怖や醜さを感じさせず、まるで芽吹いて枯れてゆく植物の一生を、早送りで眺めているかのような印象を、彼女は受けた。
 気が付くとアスカが握っていたピクシーの手は消えており、生き物が着ていた服だけが、ベッドの足元に落ちていた。驚愕に目を瞠ったまま、レヴィが恐る恐るその服を掴み上げた。僅かな枯れた根と蔓だけが、ぱらぱらと布切れの隙間から落ちてきた。
 アスカは嗚咽を堪えながら、まだ止まらない涙を手の平で拭おうとした。ピクシーはああ言ったが、彼女は人間だ。目の前から一つの命が消えてしまったら、それを死と認識せずにいるのは彼女には難しい。
 しかしその時、ベッドの上のエレンが、小さくうめき声をあげた。見てみれば、真っ青だった顔は、少なくとも生きていることを悟らせる程度に色を取り戻していた。
「旦那」
 レヴィがゆっくりと、エレンの肩に触れた。そういえばピクシーが、これで彼らはエレンに触れられるようになると言っていたことを、アスカは思い出した。
 病人の目がうっすらと開き、色素の薄い睫毛が瞬きした。アスカは思わず口元を抑えた。
「レヴィ、…アスカ。……君たち、なぜそんな顔をしてる」
 エレンの声は枯れて呼吸は重そうだった。しかしそれでも彼の声を聞けてひどく安堵したのだろう、彼女はエレンの問いに、すぐに答えを返すことができなかった。



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