30. 希望

文字数 2,993文字




 考えてみれば、ディガロが肩で風を切りながら奥へ入って行った直後から男たちの言い争う声が聞こえなかったのが不思議だった。アスカが魔法使いを探して家の中をうろつき、エレンのいるはずの寝室の扉を開くと、今まで閉じられた空間に封じ込められていた大音響が彼女の鼓膜を揺るがした。つまりそれは、ディガロの咆哮だ。
 人狼は怒鳴っており、胸倉を掴まれた魔法使いの体はゆうに頭一つ分ほど宙に浮いている。いつの間に戻ってきたのか部屋の隅に突っ立っているレヴィがさっきも青かった顔をさらに青くしており、ベッドの上のエレンは、アスカの位置からでは魔法使いと人狼の影に遮られて見ることができなかった。
「代金が足りねえってわけじゃねえなら、てめえは何が気に食わねえんだ?何も一年もあの兄ちゃんの冒険に付き合えって言ってるわけじゃねえ。仮に一年に伸びたところで、てめえの糞長い人生にはカスみたいな一コマだろうよ。人が苦労してこんなくそ山奥まで訪ねてきたんだ、魔法使いは人間並みにケチなのか?他人のために働いたら寿命が縮むってか?こんな穴倉に引きこもってる人生に伸ばして何の意味があるってんだ。あんたの仕事は、この兄ちゃんをアストルガスまで送り届けるまでだろうが。それで戦争が終わったら拾いもんだろ?それとも人間どもは勝手に罵り合って殺し合えってことかよ?」
 アスカは戸口に立ったまま固まった。ディガロはどうやら知ってしまったようだ、彼らの隠し事を。話したのはエレンか、そうでなければツィエトかもしれない。しかしいずれにしろ、エレンがここで死んでしまうとしたらもうそれは隠していても意味のないことだったし、ここから先に旅路があるとすれば、もうディガロには隠しておくことができなかっただろうともアスカは思った。ディガロだって、彼の秘密を知られている。
「これは、花の一生だ」
 宙に吊られたまま、魔法使いが低い声で言った。「人の歴史は四季を繰り返す植物のようなものだ。秋を経て冬が来れば枯れる、しかし春には再び芽吹く。どこで誰が何を行おうが、結末はいつも同じだ。そこに私が介入することに、何の合理性がある?」
 人狼の額に、毛皮の上からでもわかるほど青い血管が盛り上がった。アスカは止めなければと思いながら、靴の底が戸口の床に貼り付いてしまって離れない。そこで、別の声が割って入った。
「あなたには花の一生でも、我々には人生の全てだ。しかもそこには、無数の人生がある。私は、目の前にある数えきれないほどの人生を見捨てることはできない」
 アスカからは見えないが、エレンの冷たく冴えた、しかし煮え狂うような熱を押し殺した声が、部屋の中に響いた。吊られたままの魔法使いの首が動き、ベッドの方へ向けられる。
「フランツ王よ、あなたになら私の言う合理性を理解していただけると思ったが。あなたはいわゆる合理主義者だ。数の論理で人の命を秤にかける。私はあなたがあなた自身を責めていることを知っている。あなたが私を残酷と思うのは、あなたがあなた自身を残酷と思っているからだ。あなたは今のあなたが矛盾を口にしていると気づいているだろう」
「私の矛盾のことなど構うものか!」
 魔法使いの平坦な声の上に、エレンの叫ぶような声が重なる。いつでも氷のように沈着冷静だった王の激した声を聞いたのは初めてで、アスカは自分の喉が詰まり、酷く乾いているのを感じた。しかしそれは、彼女が声を発そうとしたから気付いたことだ。気がついたら彼女は喋っていた。
「でも、ツィエトさん……それならあなたはどうして、昔、人間に仕えていたんですか。それにあなたには、娘さんもいる」
 男たちは初めて、扉がいつの間にか開いており彼女がそこに立っていることに気付いたようだった。目を丸く見開いたディガロが咄嗟に魔法使いの襟首を離し、青年の姿はよろめきながら床の上に着地した。魔法使いは僧衣の裾を整えながら、「それは、」と話し始めた。
「アスカ殿、私にも花の一生に余計な手を加えようとしたことがあったということだ。しかし結果を知っての通り、試みは失敗に終わっているがね。私の小さな手では、彼らの運命を変えることはできない」
 喉の奥がまだ詰まっているのを感じながら、アスカは「でも」と続けた。
「あなたには、私たちの旅路を変えることはできます」
 言葉が頭の中にあふれ出して、彼女が口にできたのはそれだけだった。何が運命と呼ばれるものなのかなどわからない。歴史を変えるとか国家を救うとか、そんな話は異世界の出来事界のことのように聞こえるし、エレンに共してフランツを救うという話だって、アスカはシナリオすら把握しておらず、言われた通りのことをするだけだ。彼女が変えられるのは、もっと小さなこと、例えば朝起きて誰に挨拶をするとか、出発の前に皆の荷物をきちんと整えておくとか、その程度のことだ。しかし彼女の仕事は些細なことかもしれないが、彼女が仕事を丁寧に行うことで皆が問題なく出発することができるし、なくしものをすることもない。小さな挨拶や会話が気持ちよくできれば、その朝や一日はそうでなかった場合より、明るく前向きな気分で過ごすことができる。もちろんそうやって日々を作っても必ず毎晩夜は訪れるし、それは同じことの繰り返しに他ならない。そうであっても、気分よく過ごせた日が多ければ、それを人は幸福と呼ぶ。お隣さん同士や国同士でも、結局は同じことだ。エールとフランツの関係を修復できるか、戦争を終わらせることができるかは未知数だが、少なくともここで旅が終われば彼らが抱いている望みは潰える。アスカは悲しみに沈みながら戦火の迫りつつある祖国へ戻り、人々の不安な顔を見ながら日々を見送ることになるだろう。
 心の目を持っていると言われる魔法使いは彼女の思考を読むことができたのか、あるいは彼女の一言から全てを汲み取る洞察力を持っているのか、彼女にはわからない。しかしアスカの意図は伝わったのだろうか、ソーサリーは無表情だった顔の眉を曇らせると、どこか悲しげに見える紫色の瞳で、彼女を見つめ返した。
「君は、旅を続けたいかね」
「はい」彼女は、静かに頷いた。「あなたにとっては、ただの我儘なお願いでしかないと、思います」
 祈るような気持ちで、アスカは言った。孤児として育った生真面目な彼女は、頼み事が苦手だった。何物も誰かの労働や何らかの犠牲の上に成り立っているものであり無償で与えられるものではないと、彼女を育てた環境がそう教えたからだった。他人に自分のために何かを犠牲にしてくれと頼むのは、何より辛かった。しかし彼女は、勇気を振り絞って言った。「お願いです」
 黒い髪の青年は、年老いて疲れ切った老人の悲しい瞳で、彼女を見つめた。しかしその両目に慈しみがあることにも、アスカは気付いていた。
 魔法使いはやがて小さく、「私の娘と話そう」と言うと、彼女の横をすり抜けてドア枠をくぐり、部屋の外へ出て行った。
 目の前にあった影が消えて、アスカの目の前にベッドの上のエレンが現れた。彼らの視線はぶつかり、アスカは鋭くぎらついているエレンの両目からしばらく目を離すことができず、エレンも読めない表情の顔をしばらく彼女の方に向けていたが、やがてその顔を俯かせた。



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