43. 取引

文字数 6,240文字



 エール産の赤いベルベット生地の服に身を包んで、エレンはアストルガスの王宮の庭へ続く通路を歩いていた。二人の兵士が彼を先導している。昨日挨拶をした際、デロイ王はこの日の会見の場所に、謁見の間でなく私用の庭を選んだ。エレンはその意図に思考を巡らせる。それは若い王を対等に扱ってやろうという心構えと礼儀だろうか、あるいはこれは公的な取引ではなく私的な密談になるということであろうか。
 ここへ来てエレンは、学問の上で学んだことやカーラーやアンゾから聞きかじったことはいくらでもありはしても、自分に一片の政治的実経験もないことに、改めて思い至るのだった。しかし怯んだところでより良い結果を得られるわけではない。彼は背筋を正し、真っ直ぐ正面を見据えながら案内役の兵の後に続いた。
 石の噴水と椿類の茂みを備えたエール王宮の庭は、季節のためもあるかもしれないが、海岸の白い都と呼ばれるミースで生まれ育ったエレンの目から見て、決して華やかな場所ではなかった。黒い葉が生い茂る植え込みの前にデロイ王は立っており、客を見ると鷹揚に会釈した。
 エールの現王は、エレンが先日会った甥にもよく似ており、立派な体躯の上に厚い顎をした顔を乗せている。髪と髭は豊かで、髭の殆どと髪の半分は白く変わりつつあるのが、老人の威厳を容貌に与えていた。灰色の眉の下の鉄色の目は生気に漲っているが、決して人を信用させる色をしていない。
「やあ、フランツ王よ、昨夜はよく眠れたかな」
 先にあちらが言った。エレンは頷いた。
「はい、久々によく眠りました。あなたの歓迎に感謝しています。重ねて、ご病気で伏せていたところに突然の訪問、申し訳ありません」
 一通りの挨拶を、彼は述べた。確かにエール王の顔色は白いが、目には光があり佇まいには力強さを感じさせる。亡くなる前のイアン王を思えば、デロイ王に死の影は微塵もない。病は快復に近いのかもしれない。
「なに、儂の病は大したことはない。だが君の訪問には、完全に肝を抜かれた。今我々の国は争っている。しかもイアン王は亡くなったばかりで、新王がまるで間者のように北の森をうろついていたと聞かされたのでは」
 間者のように森の中をうろついていたところを兵士に捕えられてしまったのは計画外のことだったのだが、痛い部分を指摘されて、エレンは小さく咳払いをした。
「公子には要らぬ手間をお掛けしてしまいました」
 デロイ王は表情を変えずに続ける。
「なに、あの男は構わんさ。それよりエレン殿、早速本題へ入ろうではないか。そのための時間だ。貴殿が儂に運んできた、要件というのは何かな」
 感情を映さない鉄色の瞳が、彼の両目を見つめる。王の直截な物言いにエレンは内心で同意する一方で、息を呑んだ。彼はこの瞬間のために、遠く旅を続けてきたのである。
「デロイ王。私は両国の諍いを収めて、我々の民に平和を与えたい。私は苦難を忍んであなたの王宮までやってきました。それはその交渉のためです」
 鈍い色の瞳が動く。老人が何かを言う前に、エレンは言葉を続けた。
「あなたは栄華と華美の違いも、投資と浪費の違いもご存じのはずです。私たちは両者とも無為な消耗は望んでいないはずだ。戦が長引き状況が複雑になり、我々は本来の目的を忘れている」
 するとそこにかぶせるように、老人は濁声を発した。
「では貴殿は儂にローエンをくれるということか」
 エレンはぎくりとした。しかし身を強張らせたことを悟られぬよう、彼は言葉を返す。
「ローエンの東半分を、エール領としましょう。実際にローエンにはアリアスの民が多く住んでいます。彼らのうちで望むものには東側へ家を与え、そうでない者で東側に住んでいるものには、西側へ家を与える」
 アリアスというのはエールの古い貴族で、国境のローエンは、現在はフランツの領土でありながら、そこにはエールの血統を持つ人々も多く住んでいる。老偉丈夫は首を振った。
「貴殿は、儂の欲しいものを知っていると言っただろう。何より、儂は敢えて問おう。フランツ王よ、なぜここへ一人で来た?それは、国境のクインを迂回するためだけか?なぜ代わりの使者を寄越さなかった?下手をすれば、貴殿はここに辿り着く前に屍になっていた。いや、貴殿がここに無事に辿り着けたことに、儂は酷く驚いているほどだ」
 老獪な王はここへ来て初めて、薄い笑い顔を見せた。まるでエレンの事情など見通しているかのように。あるいは実際に、敵国の王はいくらかの事実は既に掴んでいるのかもしれない。彼は半ば、正直に答えることにした。
「我が国内には、あなたの国との徹底抗戦を望んでいる者達がいます。だが私はフランツの王だ。あなたが私に約束すれば、あなたはフランツからそれを受け取ることができる」
 ふむ、と老人は唸る。
「お言葉だがフランツ王、それは誠か?貴殿にも恐らく、貴殿の宮中の味方がいることだろう。しかし現に貴殿は人目を忍んで一人でここまで来ざるをえなかったのだ。貴殿が儂との約束を持って帰ったとして、それは本当に現実になるのか?」
 計算外の筋書き、彼が初めに捕虜として捕らえられてしまったことが、交渉を本来よりも困難なものにしているとエレンは感じた。だが彼が返す言葉を見つけて声として発する前に、老人は低い声を繋げた。
「それよりもフランツ王、儂が貴殿の欲しいものを貴殿にやろう。儂と貴殿は手を組んで、貴殿の足元で貴殿の王宮を牛耳っている執政を滅ぼすのだ」
 エレンは目を見開いた。瞬時に彼の頭脳が、デロイ王の言ったことの意味と結果を掬い取ろうと回転する。まずデロイ王は、彼とブロントの反目について、完全に知っている。彼はすぐに答えた。
「あなたは私に、内戦の手伝いをすると仰るのか」
 それを聞いて、老王は笑った。
「フランツの若い国王よ、内戦は、既に始まっているだろう」
 一度、沈黙が落ちた。エレンはすぐに言葉を返せなかった。しかし微笑を浮かべたままの相手が黙って彼の言葉を待っているのを悟ると、仕方なく、彼は重い口を開いた。彼は、はっきりとはその根拠を掴めないまま、既に敗北の気配を感じ始めた。
「……あなたは、何を、どれだけご存じなのか」
 彼のその言葉を受けて、エール王はそれを待っていたかのように、勿体つけて頷いてから、ゆっくりと言った。
「儂の元へ、フランツの宰相から使いがあった。ギャレイという男だ。ローエンをやるので、貴殿をこちらで処分してほしいとな」
「まさか」
 気が付くと、彼はそう口にしていた。ほぼ無意識のうちに彼の口から出た言葉だった。彼はブロントを認めていないし、あちらから忌み嫌われているだろうということは知っていたが、意地と誇りだけは誰よりも高く、フランツの威信にかけてローエンを死守すると宣っていた抗戦派の大臣がまさか敵国の首魁と繋がっていたということを、彼はすぐに信じることができなかった。
 彼の驚愕の表情を老王は面白そうに見つめ、その視線に気が付いたエレンは、すぐに表情を取り繕った。デロイ王は愉快を匂わせる口調で、しかし無礼とならない程度に慇懃に言う。
「何が『まさか』なのかな?大臣殿はエールを憎む好戦派であるからか」
 デロイ王はその事実も知っているのか――エレンが黙ったまま彼を見つめていると、観念したように、エール王は語り始めた。
「儂はエールの国王であり、敵国の事情は聞いたままでしか知らん。しかしフランツの宰相の遣いは、宰相は何より戦を早く終わらせることを望んでいるのだと言っていた。今までの抗戦は前王の意志と名誉のためであったとも。最も、貴殿もご想像の通り、何が誰の意志であるかは儂にはどうでもいいことだ。儂にとって重要なのは、誰が儂にローエンをくれるのか、誰が今後エールの友人としてのフランツを率いてゆくのか、それだけだ」
 エレンは黙ってデロイ王の鉛色の瞳を見つめたまま、頭の中で忙しく回る自分の思考の音だけを聞いていた。ある部分では、デロイ王の言ったことは事実であり、その点で彼は真実しか口にしていない。エレンは、手札も選択肢も、完全に失ってしまった。
 彼の顔を見て、老いた王の威厳を備えた顔が、交渉の場に相応しくないほど穏やかに笑った。
「エレン王、そんな顔をしなさるな。貴殿の父上は気高く、崇高な理想の持ち主だった。しかも、戦にも決して弱くなかった。その喪失には、心からお悔やみを申し上げよう。しかし若い王よ、現実はここにある。この取引やエールとフランツの争いがどうなろうと、貴殿は貴殿の宮中の敵と戦わねばならんだろう、儂にも経験はある。貴殿は儂に貸しを作るが、それはこの先のエールとフランツの安定した友好の根拠となるだろう。そして儂はその前金としてローエンを頂こう」
 ここへきてエレンはとうとう、言葉を取り繕うことを諦めた。恐らく彼は、随分前から目の前の老人を睨みつけていた。
「私が否と言えば、あなたは私を殺せる」
 老人は肩を竦めた。
「その通りだ。しかし儂は、貴殿も先ほど仰ったように、華美ではなく栄華を、浪費でなく投資を好む」
 内心でエレンは臍を噛んだ。デロイ王は彼の立場を知って足元を見ている。最後の悪あがきとばかりに、彼は言った。
「…そういえば、王、あなたは後継者の教導に苦労されているようだが」
 彼は、公子クインの言葉と不審な態度を思い出していた。しかしデロイは、小さく息を吐いて笑っただけだった。
「クインか。あれにも、困ったものだ。私に、君のような息子がいればと思わんでもない。しかしあの甥はあれでも、優秀な戦士だ。貴殿の王宮を取り戻す時には、あの戦士もお手伝いすることになるかもしれん。どうする?ローエンを、儂にくれるか」
 会話が収束の方向へ向かっているのを、彼は感じた。ローエンを譲り、彼は恐らくこの後、一度アストルガスの王宮に拘束される。交渉の結果としては、想定の範囲内ではある。しかしエレンは、交渉の手応えと約束の実感を得ることができなかった。真実を感じられない鉄色の両目のせいだろうか、あるいはこれからこの古狸と付き合っていかねばならない前途を思うと、旅は終わったのではなくこれから始まるのだというような気がするからだろうか。仮に万事が言葉の通りに片付いたとしてその後、エール王はフランツの庇護者のような顔をするだろう。エレンは自分の未熟さ、経験の浅さに、ほとんど絶望に近いものを感じた。手札があまりに悪かったとはいえ、デロイ王は彼を青二才としか見ていない。彼はのこのこと敵の王宮までやって来て、老王の筋書き通りの台詞を読まされただけにすぎない。
 彼は眩暈を感じた。もしかしたらネイのかけてくれた魔法の効力が薄まりつつあり、オークの血が彼の感覚を鈍らせ、思考を悲観的にしているのかもしれない。そもそも彼は、その先将来の長い約束などすることができない。彼は成果を持ち帰ったら、それをカーラーとアンゾに届けなければいけない。デロイ王の外交に協力したとしても、ブロントを滅ぼすところまで、彼は見届けることができるだろうか。
 彼とデロイ王は、ローエンをエール領とすること、エレンが帰国する際にはエールの兵と共にミースへ戻り、彼の政敵に対して共闘することに同意した。
 会談の後半には彼の気分は酷く悪くなっており、エール王が彼の不調に気付くほどだった。彼は部屋に戻る際に、彼が伴ってきた小柄な老人を連れて来てくれと、デロイ王に頼んだ。







「王子様!」
 少女の呼び声が、泥濘の中を漂っていた彼の意識を、現実へ引き戻した。
 彼が目を開くと、彼を覗き込んでいるアスカとネイの顔が見えた。ベッドの天蓋が、その向こうに映っている。場所は、アストルガスの王宮に用意された、彼の居室のようだった。ネイが老人の姿をしていないところを見ると、部屋の中には彼らしかいないのだろう。
「大丈夫ですか」
 不安そうなアスカの声が、彼の鼓膜に届いた。彼女の手には、濡れた手拭いが握られている。熱を帯びている彼の額を、拭ってくれていたのだろう。
「…すまない」
 彼は、言った。
 それを聞いたアスカが、なぜかどこかに痛みを感じたように、眉をかすかに寄せ、小さく首を振った。
 一方でネイが、「何が『すまない』わけ?」と怪訝そうに言った。しかし尋ねられてみて初めて、彼自身、その意味が何であったろうかと考えた。
「……ローエンを、デロイ王…エールへ譲ることになった」
 彼は自分の言葉の意味を探して、そう言った。しかし、アスカは、穏やかに頷いた。
「でもそれで、戦は終わるんですよね」
 そう訊ねられ、また彼は、思考のために時間を要した。
「…エールとフランツの争いは、終わる。だが僕らは、フランツの中で争わなければならないかもしれない」
 少なくとも彼は、何らかの形でブロントを処刑しなければならないだろう。随分昔からあの宰相を除く気でいたのに、なぜか今、彼の気分は晴れない。奇妙なことだった。
「ブロントはデロイ王に密通していた」
 アスカの目が、驚きに瞬いた。アイリーンなら怒り出してテーブルを真っ二つに叩き斬ったかもしれない。しかしアスカはすぐに、再び小さく頷いた。
「つまり、エレン様は、お一人で城を出て、よかったということですね」
 残っていても、大臣に抹殺されるか、いいように使われるだけだったろう、彼女が言ったのは恐らくそういう意味だ。そしてそれは、まさにその通りだった。
 急にエレンは、酷く孤独を感じた。
 彼は孤独だ。王というものは、常に闘っていなければならない。相手が敵であろうと味方であろうと不信の中でも信頼の前でも、王は王として振る舞わなければいけない。権力や財力というものが人を魔物に変える仕組みの中で、王は権能の具現と正義の体現、秩序の番人として振る舞わなければならない、少なくとも彼にとって、王とはそういったものである。彼は今までそれを何より誇りに思ってきたはずが、この時だけは初めて、それを例えようもなく辛く感じた。彼の父も、このように孤独だったのだろうか。彼の父と老宰相とは、その昔は兄弟のように育った親友同士だったと、彼は知っている。
 枕の上に頭を乗せたまま、彼は両目を片腕で覆った。涙を流すわけにはいかない。
 そこでふと、彼の、ベッドの上に置いたままだったもう片方の手を、誰かの柔らかな手が掴んだ。あるいは知らずのうちに、彼がそこにあったその手を掴んでいたのかもしれない。彼は鈍い思考の隅で認識した、それはアスカの手だった。彼女が彼の手を取り、優しく握っていた。
 結界師というのは、魔法使いのように呪いを止める力も持っているのだろうか。彼女が握っている片手から、自分の体の中を流れている孤独と悲しみが徐々に和らいでいくように、エレンは感じた。そもそも彼が誰かの手など握ったのは、一体どのくらいぶりのことだったろうか。
 普段ならこんな行為も体勢も、彼が長く続けているわけがない。しかしこの時の彼は、ベッドに横たわって両目を覆い隠したまま、アスカの手を握り、しばらく動かずにいた。
 もしかしたらこの弱気も血の呪いのためかもしれない、そうに違いないと、彼は考えることにした。



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