3. 密計

文字数 2,897文字




 白い都と呼ばれるミースの王宮は、港から離れた丘の上にあり、上階へ上がればどこまでも広がる青い海と美しい港町とを一望することができる。エレンは窓の側に据えられた書き物机の上で、厚い本の頁を捲っていた。
 開け放しになっている扉をノックする音を聞き、彼は紙面から顔を上げる。しかし彼には相手の顔を見る前から来客が誰かわかっていた。軽い調子のノックに続いてすぐに部屋へ入ってきたのはカーラーである。彼女は軽やかな足音を響かせながら、彼のそばまで歩み寄ってきた。
「王、聴政をさぼって何をしていらっしゃるのですか?」
 そう言う彼女の顔には、しかしながら微笑があった。エレンはそれに応えるように苦笑した。
「……病でね」
 カーラーはふうと溜息を吐く。
「それでしたら、気分転換が必要でしょう。私と一緒に遠乗りにでも出られませんか」
 エレンは少し考えたが、頷くと手元の本を閉じ、椅子から立ち上がった。

 しばらく後には、二人は並んで馬を駆っていた。城壁に囲まれた町の外へ出て、草原の中を駆ける。エレンは男性にしては小柄なほうであり、一方でカーラーは女性にしては大きい。長身に簡単な装具を纏い豊かな金髪を背中に躍らせる彼女は、かえって優美だった。
 しかしその彼女の腰にもエレンの腰にも、もちろん剣がさげられている。その昔と比べれば数は減ってきているというが、人の住まない場所には魔物と呼ばれる生き物たちが棲んでおり、城壁の外へ出ることはそういった者たちと遭遇する危険をはらんでいる。そうしてでもカーラーが供もなしに王をここへ連れ出したかった理由を、エレンは何となく予感していた。
「王、ブロントはまた兵を集めていますね」
 馬の速度を落としながら、カーラーは言った。
「今秋の収穫がどれほどだったか、王もご存じでしょう。今の宰相は、以前とはまるで別の方のようです」
 そう、彼女の言う通り、イアン王の死後からブロントの摂政は急速に強硬さを増している。王宮内の抗戦派を束ね頑として停戦を拒否する姿勢は、もはや彼の政治的主張というよりは、彼にとって専制の障害となる敵対勢力、つまりアンゾやエレンを政治の場から排除する策略のように思われた。現に先日王位を継いだばかりのエレンは、既に王座の飾りとなっている。訪れる人々は玉座の前へやってくる前に宰相の執務室を訪ね、彼らがエレンのもとに顔を出す時には全てが決められたあとである。そしてエレンが試しに体調の不良を訴えてみれば、宰相は葬儀の時と同じ顔で、彼に休息を促した。
「私はそのうち毒を飲まされるかもしれないな」
 突然エレンは、物騒なことを言った。カーラーは思わず振り返った。
 宰相の彼に対する扱いは、若い王に対してほとんど侮辱のようなものであり、もちろんそれに対してエレンは怒りを覚えないわけではない。しかしそれ以上に、彼は憂いている。自分が不明の王であるならそういった仕打ちにも耐えよう、だが彼は自分の可能性を発揮する場を与えられたこともなく、そして最も大きな問題は、大臣がそれを行ったのも故国のためではないかもしれないということだった。
 エレンには父王が生まれつき持っていたような深い憐れみの心はないかもしれないが、自身の出自と地位に対する誇りと責任感とともに、自身の立場と使命を公平かつ冷徹に見据える思考力があると彼は自負していた。父王の才能は協力的な大臣たちに支えられて如何なく発揮されてきたが、味方の少ないエレンはまず自ら戦わねばならない。
 振り返ったカーラーが見たのは、エレンの静かな瞳だった。その瞳は感情を映さず、ただ意志を映していた。むしろ彼女は、彼女が今から伝えようとしていることに対してエレンの心境が整っていることを察した。彼女は言った。
「計画があります」
 馬を進めながらちらと視線をやることで、エレンは話の先を促した。カーラーは続ける。
「秘密裏にエールへ停戦の使者を送り、エール王に直接交渉をもちかけます。こちらの事情はこの通りですが、今はエールの内情も同じように問題を抱えています。今ならば欲深いデロイ王もこちらの話に耳を傾けるかもしれません」
 エレンは少しうつむき、わずかな間に思考を巡らせた。つまりこの計画は、宰相の目を盗んでその頭越しに秘密裏に外交を行うということだ。それは唯一、王であるエレンの権威をもってのみ行うことができる。彼は頷いた。
「私は賛成だ。そしてその使者だが、私がなろうと思う」
 彼の前置きなく発された言葉に、カーラーは目を見開いた。
「王が?そんな!何を仰るんですか。もちろん使者は代理のものを立てます。これはブロントに悟られないように行う極秘の交渉ですから、敵国の奥までほとんど供もつけずにのりこんでゆかなければいけません。エールの兵隊だけじゃなく、草原の魔物だって…」
「だが、本気でデロイに交渉を持ち掛けようと思ったら、私が行くのが最も効果的だろう。使者をやり取りしていては交渉の決着の前に計画が露見する危険性が高いし、何より私はこのまま王宮にとどまっていても役に立たぬどころか、いずれ殺されるのではないだろうかと思う。例えば今の私は宰相に戦場へ行けと言われれば赴くほかないが、戦場へ行けば刺客は容易に私を殺すことができる。私が死ねばゲオルグ殿が王位を継がれるだろう」
 ゲオルグという公子はエレンの従兄で、ブロントの娘マリエラの夫である。つまりエレンが死ねば、ブロントは実質上も名目上もフランツの政権を握ることができる。言葉を失ったカーラーは、いつの間にか馬を止めていた。それに合わせて、エレンも馬を止める。
「それにこれは私のわがままに違いないが、私は一度王宮の外へ出てみたいんだ。私は君たち大臣から多くのことを学んでいるが、自分の身を以て体験したことは驚くほど少ない。何より我が民の多くが苦しみ傷ついている時に、ただひとり王宮に飼われる高価な鳥のように惰眠を貪ることは、僕自身の誇りを損なう。この苦難を乗り越えられないようなら、僕には王としてフランツを守る機会は永遠に訪れないだろう。…王宮では誰もが僕を世間知らずの少年だと、祖国と人民を背負うに値しないと考えている。カーラー、君だけは僕を信頼してくれないか。君は僕が友達と呼べる、たった一人の相手だ」
 そう言った彼が見つめたカーラーの方が、彼よりも切なそうな顔をした。彼女はエレンが幼い頃から彼を知っており、王子だった彼に対してへりくだることも遠巻きに評価することもない、貴重な友人だった。エレンはその彼女に対して感情で訴える愚かさも卑怯さも自覚していたが、彼は彼女にだけはいつも甘えを隠すことができなかった。
 案の定、カーラーは空を見つめて逡巡を見せたあと、言った。
「わかりました。私からアンゾに話してみましょう」
 ありがとう、と言った彼に、しかしカーラーは一言付け足した。
「ただし彼が私と同じように、あなたの考えを名案と思ってくれるかどうかはわかりませんよ」
「もちろんだ」
 彼は頷いた。



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