21. 襲撃

文字数 5,981文字




 キースから七回の野宿を経て、彼らはようやくヘスの街へ辿り着いた。
 ヘスはフランツの国土の三分の一を覆う東の森の端、棘の谷と呼ばれる峡谷の入り口にある小さな町である。その土地は、大昔はフランツ人とは異なる異民族の国であった経緯から、建物の様式などはミースやキースで見かけるものとは随分異なっており、特に町の端へ行くと、石壁を積んで草ぶきの屋根を乗せた小さな小屋が転々としているのが特徴的だった。
 街の中へ入ると、彼らはいつも通り宿を探すことになった。ちょうど昼食の時間に差し掛かろうとしていたが、食事に出るのは荷物を預けてからだった。
 大勢でうろついても仕方がないので、驢馬をアイリーンに任せ、レヴィが宿を探しに行った。またアスカがそこで、少し席を外したいと言った。ヘスまで来たので、ここまで連れて来たピクシーを、町外れの森まで送ってゆくという。エレンはこの数日間あまりアスカと言葉を交わしていなかった。エレンは短く、了承の言葉を返した。
 レヴィ、それからピクシーを伴ったアスカが離れてゆき、アイリーンとエレン、ディガロの三人は、町の入口からほど近い小さな広場に残っていた。濁った水が溜まった噴水があり、エレンはその縁に腰を下ろした。一方でディガロが、昨日から担いでいるワーグの死体をどさりと足元に落とした。
「うわっ、やだ、あたしの側に置かないでよ」
 隣に立っていたアイリーンが、驢馬の手綱を握ったままディガロから一歩離れた。獣の死体などそう珍しいものでもないのか、町の中を歩く人々は特に彼らを振り返らない。しかし大都市ミースの城下町で生まれ育ったエレンにもアイリーンにも、ワーグの死体が徐々に醸し始めた怪しげな臭いが気になり始めていた。エレンは眉をしかめるのを堪えつつ言う。
「宿が決まるのに少しかかるかもしれないし、君は先にそれを売ってきた方がよくないか?宿まで持っていくわけにはいかないだろう」
 ディガロは自分の足元を見下ろし、肩を竦めた。
「ヘスじゃ誰も気にしねえ。まあ、あんたが気になるってなら処分してくるが…。まあついでに、武器も探してくるか。早めのがいいよな」
 恐らくディガロは、前回刺客が町の中で現れたことから、多少警戒しているのだろう。しかしその意味では、一刻も早く武器を新調してもらった方がいいのも事実だった。エレンは少し迷ったが、結局獣の臭いは彼には耐え難かった。
「そうだな。ヘスを出れば国境を越えるまでしばらくまともな都市には滞在できない。行商人も夕方前には店をたたんでしまうだろうから、早めに行って新しい武器を用意してきてくれ」
 そういうことなら、とディガロは頷くと、一旦足元に置いていたワーグを担ぎ直し、ぶらぶらと歩き去っていった。エレンが溜息を吐くより先に、アイリーンが特大の深呼吸をした。
「あー、臭かった…。あんなの我慢できませんよ!エレン様、あんなもの昨夜のうちに捨てさせればよかったのに」
 エレンは首を振った。
「僕たちは彼を護衛として雇ってるが、仕事に害があるわけでもないのに、彼の個人的な行動にまでは口出しできない。僕はできるだけ、出会った人々の考え方や文化を尊重したいしね」
 そう、彼は狭量な人間にはなりたくなかった。また同時に、世間知らずのお坊ちゃんにもなりたくなかった。野蛮や非文化を好むわけではなく、何が野蛮で非文化的か、公平な視点から理解し判断できる人間になりたいと思ったのである。何が善いもので何が悪いものか、答えは常に単純で一通りであるとは限らない。そこまで考えて、エレンは今一人でピクシーを送りに行った、アスカのことを思い出した。彼は、ふと視線を噴水のプールの中に落とす。濁った緑色が見えた。
「…そういえば、パパも同じようなことを言ってました」
 アイリーンの、いつもより随分落ち着いた声がした。エレンは噴水の中に溜まった藻を見つめながら、アイリーンの父親である、アンゾのことも思い出した。
 アンゾは元々、北方のテスという町で生まれ育った木こりだった。戦争のために徴兵されて王都へやってきて、腕っぷしの強さから軍団の団長になったところを、亡きイアン王に見出されて最終的には騎士団長にまで昇格した人である。聡明な指揮官である今のアンゾからは想像しにくいことだが、イアン王に取り上げられるまで、アンゾは読み書きもできなかったという。そのアンゾはイアン王を深く敬慕すると同時に、前王の愛情と寛容を、誰よりも褒め称えていた。父親の思想は娘であるアイリーンにも受け継がれているのだろう、短気で短慮なところはあるが、アイリーンも相手がどこの誰であれ、身分や外見のために壁を作ったりしない。彼女の親友は農民の娘であり孤児であったアスカだし、レヴィをこの旅に招いたのも彼女だ。
 ふとその時、ジプシーの一団が歌を歌いながら彼らの方へ近づいてきた。お決まりの、笛吹きの男と踊り手の女だった。その後には、小銭を拾う係の子供もついている。音楽はレヴィが時々歌っているものによく似ているが、もっとずっと陽気だった。
 思わずエレンが目を上げると、女がにこりと笑い、子供が「旦那!旦那!」と声を上げた。あどけない愛嬌のある顔をしているのに、立派な商売人である。
 つい微笑ましくて笑ってしまった。エレンは腰の財布に手を伸ばすと、小銭を少しばかりつまみ出して子供に向かって投げてやった。子供は綺麗にそれを受け取る。
「ネスチュク!」
 子供は笑顔で手を振ると、踊る女の後へついて歩いていった。
「確かあれ、ありがとうって意味ですよ」
 レヴィに聞いたのだろう、アイリーンが言った。しかしそこで突然、アイリーンの顔が強張った。
 ジプシーの三人組のあとから少し距離を置いて、一人の男が歩いてきていた。
 なめし革の薄い鎧を着た冒険者風の男である。背はそれほど高いわけではないが、随分と胴が厚い。何よりも特徴的なのが、青白い皮膚をした顎の広い顔にある、無数の傷だった。男と目が合う。その瞬間に、エレンはこの男が自分を殺すつもりであることを理解した。
 エレンが立ち上がるよりも刹那早く、アイリーンが剣を抜き、敵の前へ飛び出していた。男は今日は目立つ斧を持っていない代わりに、腰に佩いていたダガーを抜いた。男は獣のように素早かったが、アイリーンは見事に男が振り抜いた一撃を受けた。
「うっ」
 しかし膂力の差は圧倒的で、アイリーンは剣ごと弾かれて仰け反った。男はそのままダガーをエレンへ向ける。しかしそれより先にエレンが剣を振り下ろした。
 乾いた音がして、エレンの剣ははじき返された。なんと男は鎧を付けた手の甲で剣を払ったのだった。エレンは全身から冷や汗が噴き出すのを感じると共に、頭のどこかが冷徹に死を予感しているのも感じた。
 早くも体勢を立て直したアイリーンが男の側面から斬りかかった。男は横目で彼女を見ると、突き出された剣を鎧を着た腕で弾き返し、反撃に大きくダガーを振りかぶった。
 やめろ!とエレンは叫んだつもりが、もちろん声として出しているような暇はない。エレンは男に斬りかかる。男は彼の剣を避けることでダガーを振り損ねたが、ダガーを握った手の甲でアイリーンの横面を殴り飛ばした。
 アイリーンは声もなく吹っ飛び、彼女の剣が噴水の中に落ちた。エレンは男の空いた脇腹を狙った。案の定、彼の細剣の切っ先は革の鎧を突き刺した。
 彼がかすかな希望を感じかけたのも柄の間、男はまるで傷など受けなかったかのように、すぐに振り返った。傷だらけの顔には表情がない。そしてエレンは気付いた、光に透けた男の瞳は、彼が見たこともないような血の色をしていた。
 次のダガーが振り下ろされる。彼は辛うじて細剣で受けたがそこで剣は折れ、切っ先はアイリーンの剣を追って噴水の中へ落下した。
「お前は誰だ!」
 折れた剣を握ったままエレンは叫んだ。彼の中の半分が本能的に叫び、彼の中の冷静な部分が、少しでも相手の関心をひいて時間を稼ごうとしている。
 必殺の一撃を打ち込もうとしていた男の動きが、意外にもそこでひたと止まった。エレンは言葉を続ける。
「なぜ僕を殺そうとする」
 口をついて出たのは愚かな質問である。相手がブロントの刺客なら答えは聞くまでもない。しかし男は初めて、そこで小さく唇を開いた。
「…お前が嫌いだからだ」
 低い、ざらついた濁音が流れた。岩が口を利けばこういう声を出すだろうと思わせる声だった。エレンは両目を見開いた。男は一度声を発したことなど忘れたかのように唇を引き結び、ダガーを振り下ろす。そこに、アイリーンが突っ込んできた。
 アイリーンは男に体当たりすると同時に、ナイフを男の鳩尾に突き刺していた。男の表情が歪み、男は今度こそ彼女を引き剥がすと蹴り飛ばした。
「やめろ!」
 とうとうエレンの口から声が出た。この隙に逃げるべきだと彼の中の何かが言っているのを無視しながら、エレンは折れた剣で男に斬りかかった。男は眉間に皺を寄せ、振り回したダガーでその剣の残りも、彼の手から弾き飛ばした。
 判断を誤ったとエレンは絶望する。背後で叫んでいる通行人たちが見えるが、怯えるばかりで、近づいてくる者はいない。今背を向けて逃げれば、ダガーで裂かれるのが腹でなく背中になるというだけだ。
 しかし意外にも男はダガーを右手に握ったまま、左腕を伸ばして大きな拳でエレンの頬を殴った。それはダガーを振っていた時よりも俊敏な動きで、エレンにそれを避ける暇はなく、彼は殴られて地面に倒れ込んだ。全力疾走して壁に激突したような衝撃があり、彼は目の前で星が散るのを見た。
 警邏隊を呼べと誰かが背後で叫んでいるのが聞こえた。しかし軽い脳震盪を起こしたらしく、エレンは地面の上で体を動かすことができないまま、敵の足音が近づいてくるのを聞き、彼の上に覆いかぶさる人影を見た。滲む視界の中で、逆光になった赤い瞳が今は黒く見える。
 男の手が、エレンの首にかかった。
 恐らくディガロのそれに匹敵すると思われる男の握力は凄まじく、エレンは窒息する前に首をねじ切られるのではないかと感じた。悲鳴を上げようにも声を出す隙間は気管に残されていない。
 今度こそ彼は死を感じた。こんなところで誰ともわからない相手に殺されることに、悲しみや恐怖より憤りを感じた。彼はまだ彼の短い生涯のうちで、何も成し遂げていない。短い人生をただ生きることだけに費やしてきてしまった過去の自分に対して、彼は憤りを感じた。なぜもっと全力で、全ての可能性について試せることを為してこなかったのだろうか。いい子ぶって父王の言いつけに従うばかりでなく、なぜもっと色々なことに挑戦してこなかったのだろうか。彼にはもっと若いうちから政治に参与したいという意志が常にあった。そうしていたらブロントがここまで勢力を伸張して王位に食い込んでくることも、なかったかもしれないのに――
 そこで突然、目の前の男が燃え上がった。
 文字通り、エレンの首を絞めていた男の体が火に包まれたのである。エレンが驚く以上に、男が唸り声を上げてエレンの体から飛びのいた。
 わあわあと周囲で喧騒が聞こえる。男はエレンを置いて走り出した。広場に集まりつつあった野次馬は、火だるまになった男が突っ込んできたので悲鳴を上げて散らばった。一方で首を押さえて噎せ込み始めたエレンに駆け寄ってきた人々がいる。
「エレン様!」
 ほとんど悲鳴のような声を上げて彼の前に座り込んだのはアスカだった。「なんてこと…」
 彼女が手を伸ばしかけると、横から『触らないで!』という甲高い声を聞いた。どういうわけか彼女の背後には、彼女に送り出されたはずのピクシーが立っている。アスカの手が止まり、彼女は魔物を振り返った。
『その人は呪いを受けてるから、触っちゃだめだよ』
 エレンはまだぼやける視界の中に、アスカの青ざめた顔を見た。
「呪い……?」
『うん。その人の首についてる血は呪いだよ。触ったら、お姉さんにもうつる呪いだよ』
「じゃあ、どうすれば…」
 痺れている指先で自分の首に触れ、エレンは確かにぬめりを感じた。恐らく彼の首を絞めた男の血だろう。脳震盪は徐々に去ってゆき、視界が鮮明に戻ってくる。しかし体がまだ重かった。
「おーい、これ何の騒ぎ…あっ」
 声を聞くからに、レヴィが戻ってきたようだった。野次馬の隙間を縫ってジプシーが走ってくる。彼は噴水の側に倒れているアイリーンに駆け寄り、友人の頭を持ち上げた。
「リーン、これ、何が…、リーン」
 友人から応答がないので、レヴィはアイリーンの頭を膝に乗せ、ほとんど泣きそうな声を出した。
 一方でエレンは何とか上体を起こすと、全身の痛みを堪えながら、アスカと小さな魔物とを交互に見た。
「…君たちは、どうしてここにいる」
 アスカの瞳が何らかの原因で揺らめくのを彼は見た。
「どうしても嫌な予感がしたんです。それにこの子も、何か悪いものが来たって言って、…それで戻ってきました」
 そうか、と言ったエレンの声はまだ掠れていた。
「君は、不思議な人だ。……ところで、君、呪いっていうのは何なんだ。詳しく教えてもらえないだろうか」
 地面の上に座った格好のまま、エレンはピクシーを見上げてそう言った。小柄な魔物は、大きな瞳を見開いて彼を見た。自分がこの魔物をきちんと正面から見たのは初めてだったと、エレンはこの時気が付いた。魔物は、無言で頷いた。
「…ありがとう。それより先に、この場を離れた方がよさそうだ。人が集まってきているし、アイリーンが心配だ」
 立ち上がろうとするエレンに思わず手を貸そうとしたアスカの手を、横からピクシーが掴んだ。
『まださわっちゃだめだよ』
 頭に食らった一撃が相当応えているのかそれとも既にその『呪い』の効果が出始めているのか、震える膝にありったけの力を込め、エレンは何とか自力で立ち上がった。不安気に彼の様子を見守るアスカに訊ねる。
「すまないがアスカ、襲われた時に驢馬を離してしまった。その辺りにいないか」
 はっと気が付いたように、彼女は顔を上げると驢馬を探して駆けていった。アイリーンを抱えたレヴィが、よろよろと歩み寄ってきた。
「旦那、宿は取れたんで、そこへ行きましょう。俺薬も持ってるし、そこでアイリーンの手当をします」
「ありがとう」
 エレンは頷くと、今は彼の足元に立っているピクシーを見下ろした。彼を見上げる黒い瞳は、どこか悲しげに見えた。首に触れると、まだそこにはぬるついたものが残っていた。



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