10. 老臣

文字数 2,213文字




 王の姿が宮殿から消えた。
 そう思っているのは、宰相ブロント一人だけではないだろう。老大臣は執務室の窓辺から、王の寝室がある別棟を臨んだ。王の部屋の大窓は半ば閉じられており、かの青年は陽の光すら忌んでいるかのように見えた。エレン王はもう三日も寝室にこもっており、彼が知る限りでは一歩も外へ出ていない。
 王が病を称して政務の場に現れなくなったのはしばらく前からだったが、全く部屋から出ないというのは何事だろうかと、人々は訝っている。ブロントは王が仮病を使っていることをもちろん知っていたが、まさか本当に病を患ったとでもいうのだろうか。そうであれば医師に診せなければと、大臣たちが囁き始めている。
 本音を言えばブロントにとって、青年が健康であろうが病であろうがそれはどうでもいいことだった。彼にとってあの若い王は不要な存在だった。さらに包み隠さず打ち明けるのなら、彼は青年が病に死んでくれればいいとすら願っている。そうすれば、今既になかば彼のものとなりつつあるこの王国は、完全に彼の思うままになる。
 老大臣は青年の父を憎んでいた。
 彼と前王は、その昔は親友であった。彼らは王と臣下という隔たった身分でありながらも、ともに母国を愛し理想を共有した同志だった。彼は故国を富ませるために王が望んだことは何でも叶えた。そのために常に全霊をかけて働き、どんな労も惜しまなかった。彼らはフランツを豊かにしたが、それは間もなく隣国のエールによって踏みにじられた。彼は敵を憎み、略奪者を阻むためにあらゆる手を打とうとした。しかしイアン王は彼に賛同しなかった。彼は必要な決断を先送りにし、責任を嫌い、彼らが築いてきたものを易々と敵に破壊させた。彼がそのことで何度王に進言しても、親友だった男は彼の言葉に耳を貸さず、あまつさえ彼を傲慢な卑怯者となじった。そして何も手を打たぬまま、一人で老いて死んでしまったのだった。
 ブロントは、イアン王などいなくとも、自分の知恵さえあれば一人で王国を支えてゆけることに気付いた。そうであるならば、なぜまた愚かな青二才に政権を明け渡して、故郷を危険にさらす必要があるだろうか?彼は今全てを把握し、万事が問題なく進んでいる。長く続いている下らない争いも、やがて終わらせることができるだろう。それを思えば、和平派などと称して簡単に祖国を切り売りしようとする連中はどんな手を打ってでも抑え込んでおかなければならない。そして彼はそれにもほとんど成功しているが、唯一注意しなければならない要素があるとすれば、それがあの新王である。王は和平派の連中に近く、連中にとっての切り札があるのならそれはあの王であり、また王が政権を取り戻そうと望むのならば頼る先はあの連中になるだろう。
 昼の会議の合間を見て、ブロントはカーラーにエレンの病について訊ねてみることにした。会議が終わって執務室へ戻る彼女を呼び止めて訊ねた。
「王の病は随分篤いようだ。訪問者も断っているらしい。しかし君なら王にお会いしたであろう、王のご容体はどうかね」
 すると女大臣はわずかにうつむいて眉を寄せた。
「…かなりお悪いようです。体の病というよりは、気持ちがふさぎがちになってしまっているようでした。誰にもお会いになりたくないと仰って…」
「そうか。それでは私が見舞ってもお部屋へは入れないでしょうな」
 カーラーがそう言う間も彼は彼女を密かに観察していた。なぜなら宰相は、彼女を疑っていた。このところ和平派の連中の間で、小さく密かにではあるが何か企みが進みつつあるらしいことに、ブロントは勘付いている。老宰相には若いカーラーやエレンにはまだ備わっていない政治的な人脈と、人間的な嗅覚がある。案の定カーラーの態度から微かだが普段と違う何かを感じ取った彼は、彼女が嘘をついていることに気付いた。女大臣はそれなりに賢いに違いないが、彼にしてみれば若すぎ、お人好しがすぎる。とにかく彼女の嘘が何であれ、閉じ籠っている王と関係があることは間違いない。
 老大臣はこの国を手中に収めておくために、どんな手でも打つつもりだった。彼は腹心のギャレイに命じて、王の部屋で起きていることを調べさせた。
 ギャレイは傭兵を雇って、王の部屋に出入りしているメイドを、メイドが城下町へ出掛けた時に捕えさせた。怯えた気の毒な娘はすぐに白状した。今王の部屋にいるのは影武者となっている別の青年であり、王は三日前に密かに王宮を抜け出したという。王がなぜ抜け出したのかどこへ行ったのか、娘はそこまで知らされていなかったが、それだけわかればブロントには十分だった。恐らくカーラーやアンゾが何らかの目的で、王を城から出したのである。
 ブロントは密かに笑った。彼が笑ったのは連中の愚かさである。彼らの目的が何であろうと、彼らは王が城に残っているということにして王を外へ出した。つまり王は城の中にいるのであるから、城の外でどんな青年が通りすがりの魔物や乱暴者に殺されようと、それは城内の勢力争いとは無関係なただの事故である。
 大臣はもう一度ギャレイを呼ぶと、また別な命令を部下に与えた。ギャレイは彼の召使いだった男だが、彼が男の賢さに気が付いてからは、王宮で表だって頼めない仕事をこの男に頼むようになった。優秀な腹心は、必ず青年を見つけ出して野山の骸に変えるだろう。



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