31. 遺言

文字数 4,407文字




 魔法使いが客室から出ていった後、さして間を置かず、代わりに娘の方が戻ってきた。
「王様、皆さん、あたしが父の代わりに、皆さんと一緒に行くことになりました」
 少女は部屋へ入ってくるなりそう言い、きりりと目を吊り上げて楽しそうに笑った。「感謝してくれる?」
 急展開に驚いたのか、ベッドの上で座っているエレンは唖然としていたが、一呼吸おいてから頷いた。「もちろんだ。感謝のしようがない。しかし君は…」
 目を見開いている男達を見回して、少女は笑う。
「もちろん大丈夫。あたしは自分でやりたくないことは絶対にしないし。危ないってことも知ってるけど、それはあたしでもあのおっさんでも同じでしょ?差別はよくないね、あたしのほうがよぼよぼのおっさんよりずっと早く歩けるし上手くやれる。ほら、決まったんだから出発の準備するんじゃないの?急いでんだよね?」
 相変わらず生意気な早口で娘は言い、ベッドの上のエレンに歩み寄っていくと急かすように両手を振った。レヴィが戸惑ったように、「とりあえずお父さんの方が常識ってものはわきまえてそうだよね…」と小さな声で呟いた。少女の首がぐるりとジプシーの方を向く。
「どういう意味?」
 ジプシーはぎくりとして肩を竦めた。「エレンの旦那はフランツ王国の王様だよ?」
「だから?」
「ええと、俺らはそれなりの……態度で接しなきゃいけないってこと」
 少女が眉を顰めたところで、人狼がジプシーを無視して会話に割って入った。
「おい、本気で言ってんのか。おチビちゃんがアストルガスまで来んのか?魔物もごろつきももっとたちの悪いのもうようよしてんだぞ。下手したら怪我じゃすまねえぞ。楽に死ねりゃあいいが、最悪お前みたいな変わり種が取っ掴まると死んだ方がマシって目に遭うこともある」
 物騒なことを言いながら人狼の毛むくじゃらの顔は真剣そのものの目付きで、少女の顔を見下ろした。
「おっさんに同じこと言う?」少女は言う。
「……おまえの親父さんはわかってんだろ」
「あたしだって知ってるよ。それにあたしは強いから、人間程度に捕まらない。それより、鹿を捌いてきてよ。明日の朝には出るだろうから、その前に食べなきゃ」
 人狼は眉間に皺を寄せて少女を見つめていたが、やがて黙ったまま踵を返すと、大股に部屋を出て行った。それを見送った少女がにやりと笑い、それからエレンを振り返った。
「今夜飯食ったら、明日の夜明けに出発ね。準備しといてよ、さっきも言ったけど急いでんだよね?」
 そう言い切ると、娘は跳ねるような早足で部屋を飛び出していった。少なくともアスカの目から見て、彼女はまるで祭の前夜に浮かれている子供のように見え、ディガロが口にした懸念はもっともであるように思えた。
 一方でベッドから足を下ろしたエレンは、両掌で顔をこすり、深い溜息を吐いた。
「旦那、大丈夫ですか」
 レヴィが気遣わしげに王へ近付いた。エレンは頷く。
「……嘘や冗談ではないのだろうし、ありがたい申し出だ。僕は四日ぶりに自分の足で歩く訓練をしてくることにしよう。…後で、道程の確認に付き合ってほしい。荷物を整えておいてもらえるか?」
 手の平から上がった王の顔が、レヴィとアスカを交互に見た。アスカは頷く。王の顔はまだ白く、両眼を縁どっている隈が彼の疲労を表しているようだった。差し出されたレヴィの手を断り、王は独りで立ち上がると、ベッドの足元に置かれていた平履を履いて、まだ不安定な足取りで部屋を出て行った。
 アスカは彼の身を案じる気持ちから王を追おうかとも考えたが、やめた。恐らく彼は独りの時間を欲したのだろう。
 部屋が少し静かになったところで、「ありがとう」と声がした。レヴィの声だった。アスカが振り返ると、ジプシーは眉を下げて微笑んでいた。
「嫌だって言ったりいいよって言ったり魔法使いってよくわかんないけど、アスカが説得してくれたんだよな。すごいよ。女は皆生まれながらに魔術師だってばあちゃんが言っていたけど、ほんとだね」
 ジプシーの軽い物言いに、アスカは微笑んだ。
「ありがとう、レヴィ。私が魔術師かどうかはわからないけど…お願いを聞いてもらえてよかった。私、ツィエトさんにお礼を言ってこないと」
 彼女の言葉を聞いて、ジプシーは頷いた。
「行ってきなよ。荷造りは俺に任せて」
「そんなにかからないと思う、すぐ戻るわ」
アスカは小さく笑いながら、寝室を出た。







 魔法使いの家は小さな外観から想定されるよりも、不自然なほど広いように思える。彼女は閉じた扉がいくつか連なる板張りの細い廊下を進み、その奥で一つだけ開け放されていた扉を見つけて、中を覗いた。書斎らしき部屋の中に僧衣の魔法使いが佇んでおり、彼は机の上に置かれた何かを見つめていた。
「すみません」
 扉を叩き、彼女が声を掛けると、年老いた青年の顔が上がる。魔法使いは片腕を広げて見せ、それが訪問者を招き入れる合図のようだった。アスカが近づいてゆくと、魔法使いは首を傾げて、会話の開始を促した。
 アスカは魔法使いの前に立ち、淡く輝いている紫色の両目を見つめた。鉱石のようなそれは感情を示さないのに、不思議な温かみを彼女に感じさせた。
「あの……ありがとうございます。私たちを助けてくださって」
 ソーサリーは頷いた。
「アスカ殿、私は君のことが好きだ」
 そう短く言われ、アスカは目を瞬きさせた。魔法使いは穏やかに微笑すると、残りの言葉を注ぎ足してゆく。
「だが一般的に、私は人間が嫌いだ。失礼、もっと正確に言うなら、人間社会の構造を嫌いなのかもしれない。人間は相手を貶めて縛めることで、自分たちが優位に立っており優れていると判断する。征服者こそ優れた者とされる。つまりより貪欲で卑怯で傲慢な者こそ、最も賢明で秀でた勝者たりえる。しかしこれは真実だろうか?判断は人間たち自身に委ねられているが、彼らの志向は私の個人的見解とは一致しない。私は美しいものが好きだ。何を美と判断するかは様々だろうが、私の考える美は調和と発展だ。私の娘は人間でもあるが、私と同じで美しいものが好きだ。娘は君を気に入ったようだし、君は信頼に足る人間だと、私は考えている。私は、君の主を生きたままエールの王都へ届けたいという君の願いを聞こう。その代わりに、君に私の願いを聞いてもらえるだろうか」
 寿命の長いものは台詞を述べる労を厭わずに喋った後、目の前の彼女の両眼を、万華鏡のような目で覗き込んだ。アスカは願いという言葉に小さな恐れを感じなかったわけではないが、黙って頷いた。
「娘を人間の世界の住人にしてやってほしい。彼女は私といくつもの冬を越して様々なことを学んだが、私では彼女に生きることを教えてやれない。私は恐らく、あまり長くこの世界に留まっていることはできないし、私と同じ種はもうとうの昔に、私の知る範囲では地上から消えてしまった。今地上では人間たちがその時代を謳歌している。娘も人間の中で生活をしていくのがいいだろう。幸い彼女は半分人間だ。君には娘に、人間の知る幸福と君の思う人間らしい生活が何かを教えてやってほしい」
 そこでソーサリーはちらりとアスカの顔を窺い、彼女の表情が不安気であるのを見ると、冗談らしく笑った。
「安心したまえ、多くは望まない、例えば君の家に娘を住まわせろとかね。旅が終わるまでで構わない。私の娘は強く賢いから、正しい方向さえ知ることができれば一人でも生活を作ることができるだろう」
 もう一度頷こうとして、しかしアスカはその前に口を開いていた。
「でも、その、お分かりですよね?私たちの旅はとても危険なものです。いいんですか?娘さんを完全に私たちに預けてしまって……特にアストルガスに着いてからは、敵国の密偵か間者として、殺されてしまうかもしれない。すみません、私からお願いしたのに、混乱していますよね」
 魔法使いは穏やかに微笑んだ。
「そんなことを娘は心配しないだろう。それはついて行くと言った彼女の責任だ。彼女を守ることまでは君たちに課せられていない」
 そう言われはしたが、アスカは戸惑った。すると魔法使いは、机の上に置かれていた何かを手に取った。それは首飾りの形をした、アミュレットか何かのようだった。とても古く見えるそれは、彼女の知識ではどこの文化のいつのものか特定できなかった。魔法使いはネックレスの輪を広げて、彼女の首にかけた。
「アスカ殿、心配召されるな。あなたはあなた自身が考えているよりも、ずっと強い。あなたがミースの法術院で学んだ結界師としての技は、前代の人間たちがその能力の一部を定式化したものにすぎない。常に、あなたの内なる心に従いなさい。あなたの内なる心とは、あなたの美しい魂そのものの声だ。時に一見不合理に見えることでも、あなたの心は人々の意識が知りようもない何かを知っている。例えばあなたが、キースの街でピクシーを救ったようにね。あなたのあの決断は一見不合理で冷静さを欠いているように見えただろう。しかし結果を見てみたまえ、一体何が起こった?あなたが危険を冒して連れ出したピクシーは、失われるはずだった王の命を救った。つまり王をここまで生かしたのは、あの時のあなたの不合理な決断だったわけだよ。しかも同時に、あなたはあのピクシーの魂も救った。悲しみに打ちひしがれた魂は、悲しみという呪いによってその魂から死んでしまうが、あなたはそれを防いだ。あなたは二人を救ったんだ。あなたの持つ祈りの力は人々の知らないところで、目に見えない運命の歯車を回す力を持っている。時には結果は見知らぬ場所、遠い時間の果てに現れる場合もある。だが疑ってはいけない、そしてあなたはあなた自身の美しさを忘れてはいけない。あなたの力は鋭い剣や猛者の剛力よりもはるかに強い。あなたがあなたも知らない方法でその力を現し得た時、王も戦士もあなたの祈りに匹敵する力など持たない」
 そうして、ソーサリーは彼女の胸で輝いているアミュレットに触れた。
「これは魔法使いからの祝福だ。アスカ殿、私たちに会いに来てくれてありがとう」
 何と言葉を返すべきかわからず、アスカはただ小さく首を振った。不安な気持ちは彼女の中から消えていたが、何かが彼女の胸の中で膨らんでいて、息苦しかった。魔法使いはそんな彼女を見ると、張り詰めた空気を解くように笑い、人間らしい仕草で彼女の肩を叩いた。
「さあ、これから私は食事の準備をしなくてはならないんだが、手伝っていただけるかな?あなたのお友達が巨大な食材を調達してきたからね」
 そこでやっとアスカは頷くと、「はい」と返して、すでに部屋を出ていこうとしているツィエトの後に続いた。



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