34. 夜星

文字数 4,489文字





 食べ物や薬、テントを詰め込んだ荷物をディガロとレヴィが背負い、旅の一行は魔法使いの庭の生け垣を抜け出て、再び森の中を歩き始めた。
 棘の谷は、南へ進む途中で石色の森と呼ばれる区域に移り変わる。森は「黒い流れ」と呼ばれる川で区切られており、その川がフランツとエールを分ける国境となっている。
 ところで彼らは、先日は棘の谷から魔法使いの庭へ入ったが、この時生け垣を抜けると、もう石色の森に降り立っていた。これもソーサリーの魔法のひとつなのだろう。彼らは数日分の距離を短縮することができた上に、石色の森に魔物はそれほど多くない。棘の谷で悩まされたような巨大なワーグは、滅多に現れないということだった。
 ところで、森の中を歩き始めて間もなく、エレンがふと一つの思い付きを口にした。彼は魔法使いの少女に、老人か何かの姿に変身することはできないかと訊ねた。この後アストルガスに着いた時に彼女がエレンと王宮に入ることになれば、王の付き人などと名乗ることになるだろうが、杖を持った十歳あまりの少女が旅の供というのはあまりにも珍妙な話であるし、エレンは可能な限り自分の健康状態を交渉相手に気取られたくないので、彼女の正体も隠しておきたいらしかった。その点、護衛らしい戦士や相談役に相応しい老人か何かに化けてもらうことができれば手っ取り早い。
 しかしネイはあっさりと、自分は変身できないと答えた。ピクシーのように幻術を使うことはできるが、使用している間は魔力を消耗するし、集中力が途切れれば幻術は消えてしまう。それに幻術をかけなければいけない対象があまりに多い街中などで実践は不可能だと彼女は言った。幻術の得意なピクシーですら幻術の対象に彼らの声を聞かせなければいけないが、ネイの幻術はピクシーほど優れていないということだった。
 その他にも彼女は、あまり自分の魔法に期待するなと言った。人間は魔法使いの能力を好き勝手に妄想しているが、実際には制限があって実行できないものや、そもそも完全に実現不可能なものが大半だという。それに彼女は、完全なソーサリーではなく混血だ。自分は魔力を継承しはしたものの、父親のような魔法使いにはなれないだろうと彼女は言った。
「つまんないな、俺、雷の魔法とか見てみたかったのになぁ」
 呑気そうな口調でレヴィが言った。ネイは首を振る。
「雷の召喚も、制限付きで使えない魔法の一つだよ。だってそんなの完全にルール違反でしょ。雷は扱いに気を付けないと色々な物を壊すし、簡単にルール違反に協力するのは悪い精霊――悪魔だから、使おうとすれば悪意のある契約を求められる」
「でも、仲間が危ない目に合ってる時に、その魔法で助けられるとしたら?」
「使おうと思った瞬間にすぐに召喚できるとは限らないし、悪意のある契約を利用してその場凌ぎしても、後で問題が三倍に膨れ上がるって相場が決まってんだよ」
 ちぇ、とジプシーは唇を尖らせた。
 森の地面は、木の根が張っていなければ厚い落ち葉に覆われている。天井は木々に覆われ、太陽の位置も方角も判然とせず、ただネイだけがどちらが南であるかを知っていた。ディガロの中に備わっている優れたコンパスもこの時ばかりはあまり働かず、彼はアスカとエレンの背を見ながら、先導されるままに進んだ。
 しばらく歩いているうちに、ディガロの鼻と、アスカの感覚が狼か何かの気配を察知した。今回エレンは自分で闘うことができるが、数日前の苦戦は当然記憶に新しく、一行に緊張が走る。しかしそこで、魔法使いの娘が落ち着き払って言った。
「相手が狼なら、何も問題ないよ」
 レヴィが娘を振り返る。「何で?雷の魔法は使えないんだろ?」
「あたしは連中を追い返せる。まあ見てなって」
 娘は何でもなさそうに言う。ひとまず一行は敵を警戒し、小さくひと塊になって進んだ。やがてその獣の群れが視界に見えるほどに近づいてくると、ネイは立ち止まって、咆哮をあげた。
 魔法使いの娘の声は、人間の声というより、くぐもった風の音に獣の鳴き声を混ぜたような音だった。しかし人狼の血を引いており獣たちの中で生きていたことのあるディガロには、娘が獣共に語り掛けているのだとわかった。正確には、語り掛けているというよりは威圧して警告しているというのが正しい。
 彼は背筋に悪寒を感じ、今は立ち止まっている自分の膝がいつもより弱くなっているのに気付き、驚いた。放たれた矢のような速度で突っ込んできた狼の小さな群れは、少女の声を受けて急激に速度を落とすと、たじろいだようにこちらを睨みつけ、何度か円を描いてうろついた後、元来た方向へ走り去っていった。
 獣が去って視界から見えなくなると、ネイはふうと溜息を吐いた。
「すげえ!」
 レヴィが子供のようにはしゃいだ。「それって魔物や、人間にも使えるの?」
 ネイは答える。「大体の動物や魔物にはね。人間とか、一部の連中はだめ」
 ちらりと、相手に気取られないようにディガロは娘とジプシーを見遣った。
「なんで?」レヴィが興味津々に尋ねる。
「畏怖を知らないから」
 娘は端的に答えたが、ジプシーはまだ疑問顔だった。ディガロにも娘の言葉そのものの意味はよくわからなかったが、彼女が何を意図したのがどういうことであるのかは、感覚的に理解できるような気がした。







 アスカが獣や魔物の気配を察知してネイがそれを退けるというという方法はとても有効で、彼らは全く危険らしい危険を体験することのないまま、森の深部を抜けることができた。
 エレンとレヴィにはよくわからないようだったが、ディガロも方向感覚が戻ってきたことから、危険な区域を抜けたらしいと体感することができた。何よりそこに漂う植物や動物の臭いが違う。アスカは、魔物の気配がしなくなった、とだけ言っていた。
 太陽が落ちかけていたこともあり、その辺りで彼らはキャンプを張ることにした。テントは魔法使いの家の物置にあったもので、ヘスに着くまでレヴィが持ち歩いていたものより、少し小さかった。ネイは、昔父親と一緒に西の帝国や東の草原まで旅したことがあり、テントはその時に使っていたものだと言った。ただしその時の旅で彼女が遭遇したのは人間でなく魔物や獣ばかりで、そこで魔法使いは娘に色々な生き物と話す手段を教えたということだった。
 ネイも結界を作ることができるらしいが、彼女は念のために、アスカにもいつも通り結界を描いてほしいと頼んだ。ネイは魔法使いとしてはまだ未熟で、彼女が眠ってしまうと結界が解けてしまう場合があるらしい。
 獣と話す言葉というのを教えてほしいと彼女のあとをついて回るジプシーを鬱陶しそうにかわしながら、魔法使いの娘は荷物を整理し、火打石で夕食のための火を起こしていた。エレンは途中で見かけた小川へ水を取りに行っている。
 ディガロは一通り周囲の森を散策して危険のないことを確かめた後、テントへ戻った。そこでは、彼が今までも何度か目にしたように、テントの周りの腐葉土の上にインクを垂らしながら不思議な文字を描いているアスカの姿があった。
 集中している様子の彼女は、離れたところに突っ立って彼女を見ている男のことには気づいてもいないようだった。ディガロはゆっくりと結界師に歩み寄っていくと、彼女が最後の一滴を垂らし終え、インクの便の蓋を閉めたところで、「よう」と声をかけた。
 彼女の顔が上がる。何気ないお喋りのつもりで、ディガロは言った。
「これって、風の強い日はどうすんだ」
 アスカは困ったように笑った。
「実際に、結界は書けないの。インクがぶれて文字を描けないでしょ。そうなったら、呪文を使える人もいるけど、私の場合は一晩中起きてないといけない」
「描いた後に風が吹いて、インクの乗っている落ち葉が動いたり吹き飛んだりしたらどうなんだ?」
「結界師の能力によるんだけれど…能力の高い人の結界は、見た目の文字が吹き飛んだ後も存在がそこに残るの。見えないものが地面に沁み込むっていう感覚かもしれない。弱い結界は、インクと一緒に吹き飛んでしまう」
 なるほど、とディガロは頷いてから文字で書かれた円の内側へ、片足を踏み入れた。
「俺は入れちまってるけど、大丈夫か?」
 にやりと彼が笑うと、アスカは穏やかに苦笑した。「あなたは魔物じゃないもの」
「今の姿じゃ適用外ってことか。あんた、俺の気配とやらは感じないのか?」
 するとアスカは、困ったような笑顔、ただしさっきしたのとは少し違う種類のもので、笑った。
「実は…、実を言うと、はじめから感じてたの。ちょっと不思議な気配のする人だなって。でも私の結界の中に入れるってことは、あなたはもちろん魔物でもないし、……私、あのオークかもしれないっていう、キースとヘスで私たちを襲ってきた刺客……彼からも不思議な気配、でもすごく嫌な気配を感じたの。でもあなたからは、嫌な感じはしない。…きっとあなたはいい人なんだと思うわ」
 ディガロは目の前の娘を見下ろす。彼女の暗い色の瞳が、夕闇の中で炎や星の光を照り返して、ちかちかと瞬いて見えた。彼は無意識のうちにいつも肩に込めている力が、普段から彼が体中に張り巡らせている微かな緊張が、するすると抜け流れ出ていくのを感じた。沈黙は森の囁きの中に溶けてゆく。男から返答がないので、アスカはまた困ったように笑い、一人で途切れた会話を繋げることにしたようだった。
「私たちを助けてくれて、ありがとう。エレン様は実際に見ていないけど、私は棘の谷でワーグに襲われた時、あなたがどんな風に私たちを庇ってくれたかって知ってる。私、正直驚いていたの。あなたが人狼だったってことにじゃなく、見ず知らずの私たちのために、ひどい怪我をしながら戦ってくれたことに。私にとってエレン様は王様だし、恩人の主君だし、レヴィは子供のころからの友達。でもエレン様や私やレヴィは、あなたにとって完全な他人だし、もしかしたらあなたはフランツの人ですらないでしょう。だから、そのことに、少しびっくりしたの」
 ディガロは、まだ娘を見つめていた。しかし何かの拍子に彼の頭の隅で誰かが、彼女の言葉に答えなければと彼に囁きかけ、彼はやっと会話を思い出した。
「つまり、…王様やジプシーは、あんたにとっての家族ってこった。人間は、家族のために闘えるだろ。俺には家族はいねえから、家族とそうでない連中を切り分ける境はねえんだよ。俺は自分のしたいようにするだけだ。自由だろ?今俺は、あんたや王様を助けてやってもいいかなと思ってる。…でもな、約束した以上は守るつもりでいるけど、気まぐれなもんだ。あんまり当てにすんじゃねえぜ」
 彼はまだ彼を見上げているアスカに小さく微笑み返し、ふざけて子供にするように、掌でアスカの頭をぽんぽんと叩いた。
踵を返して去ろうとして、彼は背中で、彼女の「ありがとう」という声を聞いた。



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