49. 約束

文字数 6,887文字




 書斎は静寂の中にあった。大窓の下には、ミースの港町と春の海が広がっている。そこにある音は、穏やかな風と海の声だけだった。
 エレンは目の前に広げられた書簡に目を通し終えると、机上に置かれていた羽根を取り、その先をインクに浸して、巻の終わりに彼の署名を書き足した。書類は、ローエンの修復工事に関する計画書だった。
 あの目まぐるしい騒擾の後、彼は念願だった和平を手に入れ、失いかけていた王権を取り戻した。
 レヴィがギャレイの死体から剥ぎ取ったのは服だけでなく、彼の荷物もであった。ギャレイの鞄の中には、ブロントとデロイ王の間で交わされた手紙が入っていた。エレンはフランツへ戻り、それを証拠として差し出すことで、公式にブロントを政府から追放することができた。
 残った仲間たちとミースへ戻る旅路はまたもう一つの困難な冒険となったが、隠し事が多く先行きが見えなかった往路と比べれば、とにかく先を急ぐばかりだった復路は気持ちの上でははるかに悩みの少ない旅路だったように思う。
 同時に、突然国王を失ったエールの情勢は、当然ながら混乱に陥った。王の死の直後、エールに女王の前例がない中でデロイ王の長女が王位の継承権を主張したが、エルレから退却してきた公子クインがアストルガスへ戻ってきて、王都では無惨な内戦が起きた。内戦の間、中央政府の機能が麻痺しているためにエールの検問はどこも笊の目のようになっており、エレンたちは堂々と旅人を偽って街道沿いにフランツへ戻ることができた。結局公子クインはデロイ王の長女と彼女の与党となった貴族たちを武力で粛清し冬の間に王位を継いだが、新たな王に対する抵抗勢力がヴェルノールに集まって不穏な動きを企てており、現在もエールの情勢は安定する様子を見せていない。
 エレンはミースへの帰途にある小都市で叔父の一人を頼り、彼の後ろ盾を得ながら王都へ戻った。刺客に襲われたという王自身による告白とギャレイの手紙は老宰相を解任に追い込み、彼と共謀した者たちは速やかにその地位から退くこととなった。今フランツの元宰相は、ミースの南西にある小さな港町で、静かな余生を送っているはずだ。
 ブロントを、彼は殺さなかった。彼は既に血を見るのにうんざりしていたし、宰相を生かしておいて生まれる懸念と不安より、その後に残される禍根が将来のミースとフランツの災いになる可能性を危ぶんだ。何より、全てが始まる遥か前、あの老宰相は彼の父の一番の友人だったのだ。諸々のことが片付いたら、エレンは宰相が幽閉されている屋敷を訪れてみようと考えている。半生を捧げて彼の父と共にフランツを守り育んできた老大臣にも、持っていた理想と抱えていた孤独はあったはずだと、彼は思っている。
 ブロントの裁判が終わる前に騎士団長のアンゾは、エレンの同意と議会の承認を得て再度出兵し、クインが撤退した後の戦線を片づけて回った。クインは多くの兵を王都での内戦のために連れ帰っていたため、戦線に残っているのは弱兵と指揮から外れたごろつきばかりで、アンゾは冬の雪が深くなる前には、ローエンを含めたすべての都市からエール兵を追い出していた。戦が終わった後も騎士団長と兵士たちは荒廃した都市を復興するために残り、エレンも裁判の終了と同時にローエンへ向かって、王国の一部を再建する兵たちを励ました。この頃には怪我の完治したアイリーンも父親の仕事に加わっており、春になって復興の体制が安定してくると、彼は大臣の一人を現場の監督者に指名し、中央政府で暫定状態になっていた人事や、カーラーや他の大臣たちに押し付けてきた諸事を捌くためにミースへ戻ったのだった。彼にとっては、まさに目の回るような半年間だった。
 その時、扉を叩く音が書斎の中の静寂を破り、音とともに問いかける女性の声がした。「王、入ってもよろしいですか」
 カーラーだった。エレンはペンを立てながら「ああ」と声を上げた。
 扉が開き、彼の親友でもある若い大臣が、書斎へ入ってきた。
「お仕事は片付きましたか、王」
 やたらとかしこまって机の側に立った彼女は、両手を後ろ手に組み、笑いながら言う。エレンも苦笑を返した。「全部の書類にかい?」
「もちろん全部ですとも。それにきちんと中身まで読まれましたか?黙って署名だけするような国王は、このフランツにはおりませんものね」
「もちろん読んだとも、骨の折れる仕事だったけどね。鬼大臣どの、次は何を持ってきたんだい。君からの仕事がなければ、僕はこの後新法制定のための会議に出る前に、少しだけ剣の稽古をしておきたいと考えてるんだが」
 老宰相が消え政権の長となってから、エレンはあまりの多忙さに眠る時間も惜しいほどだった。しかし彼の心は疲れを知らない、なぜなら今の彼は、目的と理想のために働いているからだ。それは希望と言い換えることができる。希望は、本来の彼にないはずの力を彼に与え、全てのことに対する原動力となる。
 ところでオークの血の呪いは、彼の体から消えていた。彼がそのことに気付いた、いや、自分が本来病にかかっていたはずだったということを思い出したのは、ミースへ戻る途上のことだった。彼は三日を過ぎても何の体調不良もない自分に気付き、怪我人の魔法使いに確かめてもらった結果、彼の体を巡る血の中に、呪いの毒は残っていないと魔法使いは彼に告げた。
 恐らくそれは、アスカがあの魔物を倒した時に――そういう表現が正しいのかわからないと魔法使いは前置きしたが――オーク自身が持っていた呪いの力を浄化して消し去ったためだろうということだった。呪いの主が怨念を手放すことが、呪いを解く唯一の方法である。アスカの力が、魔物から憎しみを取り除いたのだった。そして彼らは、あの魔物がその後どこへ行ったのかを知らない。
 そう、アスカは、彼の命の恩人だった。あの旅路の中で、彼女は何度彼を救っただろうか。それは何も、オークの呪いやワーグの牙からという話だけのことではない。彼女の意志と存在そのものがいかに彼の精神の支柱となってくれたかを、彼は旅路を終えて王となってから、改めて振り返った。
 彼は椅子から立ち上がると、サインした書類を集めてカーラーに差し出した。「どうぞ、鬼大臣殿」
 年上の女性は楽しそうに笑い、後ろ手に組んでいた片方の手だけを伸ばして、書類を受け取った。
「結構ですわ。でも国王様、忙しい私がわざわざ、ただこれを受け取るためだけにここに伺ったとお思いではありませんよね?」
 彼はわざとらしく肩を竦めて見せた。
「もちろん違うだろうね。いいよ、聞こう。何かな?」
 カーラーは背後で組んでいたもう片方の手を、前に差し出した。彼女の手には、小さな箱が握られていた。精緻な彫刻の施された、美しい箱だ。エレンはその箱を見て、思わず瞬きした。
「できたのよ」彼女は言う。
 エレンはどことなく慎重な手つきで、彼女の差し出した箱を手に取った。ゆっくりと蓋を開けると、中には紺色の小さなベルベットの台座とそこに埋め込まれた銀の指輪があった。
「本当に銀でいいんですか?」
 彼の顔を見ながら、友人は問うた。婚儀を誓う指輪は、金であるのが一般的だ。エレンは静かに頷く。
「銀は邪悪を払うものだ。それに静かな輝きが、彼女によく似合う」
 裁判が終わった直後ローエンへ出向く前に、エレンはアスカに求婚していた。
 王である孤独を知ることは、同時に自分が一個の人間であることを、彼にどこまでも思い知らせた。彼は強くありたかったし、彼の守るべき国と人々のために、可能な限り正しくありたかった。しかし何が強いということで何が正しいということなのかを、人は簡単に見誤り忘れ去ってしまう。アスカは彼に、彼が人間であることを思い出させ、人々が何を真心と呼び何を思いやりと呼んでいたかを、思い出させてくれる。きっとそれらは、これから彼が政治を行う者として多くの判断を行い経験を重ねて行く上で、忘れてはならないものだろう。その意味で、いつかは伴侶を選ばなければならないエレンにとって、アスカ以上の選択肢はなかった。
 いや、そんな言い訳を別にすれば、彼は単純に、彼女に惚れ込んでいたのだ。エレンは王宮に戻るまでの旅の途上でもミースに戻って政争を闘っている間も、彼がアストルガスの城で感じた彼女の手の温もりを、忘れたことはなかった。彼女はいつだって強い意志をもって仲間たちを守り、何が美しい感情で何がそうでないか、疑うことなく知っていた。彼は自分の弱さを感じた時、疲れに気が付いた時、そうでなくても事あるごとに、あの時のように彼女が彼の手を握っていてくれればと何度も思った。物心ついてからの半生をひたすら修養と自己研鑽に費やしてきた彼にとって結婚とは王としての義務であり、彼は男女の愛になど興味もなかったが、もし自分にそういうものを感じることがあるとすれば、これが最初で最後の機会だろうと彼は思った。カーラーは彼の告白を聞いて愉快そうに笑い、「それを人は、運命なんて呼んだりもしますね」と表現した。
 アスカは旅が終わってしばらくは友人のアイリーンを訪ねたり法術院に呼ばれたりと忙しくしていたが、ブロントの裁判が終わった頃には元の通り書庫での仕事へ戻っていた。エレンは覚悟を決めた後、カーラーから聞き出したアスカの仕事の時間割と自分の予定とを比べて計画を練った。何事にも形から取り組もうとするのは彼の性格だ。頭の中で書き上げた台本を想像の中で何度もリハーサルした後、彼は計画を実行に移した。
 彼は唯一の自由時間と呼べる昼食の時間になると、重苦しい上着を脱いで冠と一緒に寝室へ置いておき、忍ぶような早足で、アスカの職場である書庫を訪ねた。書庫の入り口で書棚の整理をしていた司書は軽装で現れた王の姿を見て泡を食っていたが、彼がアスカの居所を尋ねると、目録の作成のために別棟にいると教えてくれた。
 一部の人々が限られた用事のある時にのみ許可を取って訪れることしかない図書館にはほとんど人がおらず、広い空間は静まり返っている。壁に埋め込まれた書棚の間を歩きながら、エレンは彼女の姿を探した。
 やがて彼は別棟の中でも一番奥にある、書棚に囲まれた書斎を覗き、そこにアスカを見つけた。アスカは部屋の中央に設えられた簡素な机についていた。机やワゴンの上に積み上げた本に囲まれて、彼女は黙々と、図書館の地図のようにも見える本の目録を書いていた。しかし珍しく足音が近づいてくることに気が付いたのだろう、エレンが声をかけるより先に、アスカの顔が上がった。
「陛下」
 アスカは客人の顔を認めるなり目を瞬かせて、少し驚いたように言った。そうだろう、エレンも少年の頃は勉強のために始終図書館へ出入りしていたが、特に王になってからは、資料の類を探しに書庫へ行くのは彼の下で働く官僚たちの仕事になっている。
「仕事の邪魔をして、すまない」
 彼は、思いつく前にそう口にしていた。先ほどまで書棚の間を歩いている間は全く正常だった心拍数が突然跳ね上がったことに、彼は気が付いた。彼は困惑する。計画し尽くした計画の通りに実行するだけのはずが、なぜ自分はこうも緊張しているのだろうか。
 立ち上がろうとするアスカを、エレンは手の平で制した。「いや、長く邪魔をするつもりはないんだ。ただ少し、君に話があって、ここへ来た」
 アスカはかしこまった様子の彼を見、疑問そうな様子で、「何でしょうか」と尋ねた。
 彼女のその言葉、声を聞いただけで、ひどく幸せを感じている自分に気が付き、エレンはさらに困惑した。彼も彼女も自分の仕事に追われていたし、彼らの職能と身分の隔たりを考えれば当然のことなのだが、彼がアスカの顔を見たのも一月ぶりか、それ以上のことだった。旅をしていた間は毎日の生活を共にしており、時には同じ部屋で眠ることさえあった。あの時は彼女が自分の側にいてくれることが当然になっていて、そして彼はその時間を、今更ながらとても恋しく感じた。
「話というのは……」
 彼はそこまで言い、しかし、彼女の両眼がどこまでも偽りなく彼を見つめ返しているのを見て、なぜか言葉に詰まった。こんな事態は彼の台本にはない。彼は自分の反応を制御することができず、心の中ではどこまでも混乱していたが、計画の撤回はできない。彼はとにかく可能な限り平静を装って、言葉を続けた。
「……話というのは、僕の婚姻のことだ。君も知っていると思うが、僕は王として即位して、フランツの将来のためにも、妻を迎えることを求められている」
 話しながら彼はアスカの表情を窺うが、彼女はただ彼の言葉の行き先を見守っているように見えて、そこからはまだ何の感情も読み取れない。彼は台詞を切ることができず、そのまま続けた。
「僕の妻であるということは、フランツの王妃であるということだ。僕と共に、僕らの祖国を愛し守ってくれる女性が誰か、僕はずっと考えていた。そして僕は答えを見つけた。――アスカ、君は、フランツの王妃に、なってくれるだろうか」
 ここまで言い切った時、彼の心臓は爆発しそうなほど走っていた。表情には出ていなかったはずだが、彼は後で振り返って、この時の緊張と比べれば、デロイ王との初交渉の方がいくらかましだったと思ったほどだった。そしてアスカ、何より重要な彼の標的は、少し考えた後、瞬きさせた目を大きく見開いた。驚きの表情だった。
「つまり、エレン様、それは…」
 彼女の声は、信じられない、という調子だった。「…私は、親もなければ家もない、たかだか司書の一人です。貴族の生まれですらない平民の女で、社交界のことも、政治のことも何も存じ上げません」
 この先は、彼の練り上げた台本上でも書きようのない未知の世界だった。先を多少でも予想できたという点で、やはりデロイ王との交渉の方がいくらもましだったろう。
「そんなことは問題じゃない。僕は、あの旅の間に、君の才能と資質とを、自分の目で確かめた。君は素晴らしい人だ。アスカ、君がいなければ僕は目的を遂げられなかったし、今でも争いは続いていたかもしれない。君はこの国を救ったんだよ。…そしてこれからも、フランツを守ってゆく手伝いをしてほしい」
 戸惑う彼女の瞳を見つめながら、エレンは思いつく限りの言葉を口にした。しかし彼が言葉を終えた後も、彼女の両眼は、まだ困惑を現したままだ。
 彼の中で膨らみきっていた何かが、じわじわと追い詰められて萎んでゆくのを、エレンは感じていた。しかしその時、アスカの唇が開く。「もし、陛下が仰るのなら――」
 その先を聞く前に、エレンは制止の手を上げた。彼は自分の言葉の過ちに気付いた。「アスカ、これはもちろん、命令や任務なんかじゃない」
 彼はそこで一度、深く呼吸した。
「…僕の言い方が悪かったなら、謝る。アスカ、君は、僕にとって特別な人だ。君は、僕が一緒にいて、初めて安らぎを感じることができた人だ。…僕がフランツの王であるかどうかは関係ない。僕がどこの誰だろうと、君は僕と、結婚してくれるだろうか」
 そこでやっと、彼女の瞳から困惑が去ったように、彼には見えた。少なくとも彼はそう願っていたのだろう。短い、しかし彼にとっては永遠にも感じられる沈黙が訪れた。
「エレン様」
 やっと、彼女が言った。
「エレンでいい」
 咄嗟に、彼は言っていた。
 アスカは彼の言葉と声の音を噛み砕くように、一度唇を閉じた。
「…エレン、少し、考える時間をもらっても、いいでしょうか」
 彼女がエレンを王でなく一人の人間として捉えるのなら、それは当然の反応だ。エレンは彼女にとって今までそういった対象ではありえなかったのだろうし、もしかしたら彼女にだって、既に思い描いていた何らかの未来があったかもしれない。
「もちろんだ」
 彼は頷いた。
 エレンはアスカに、ローエンから戻ってきた時に、彼女の答えを聞かせてほしいと頼んだ。彼女は承諾し、彼は年の始まりを復興地で迎えた。そうして彼がミースへ戻ってきた初めの日に、彼を訪ねてきたカーラーが、アスカからの伝言を運んできたのだった。
 彼女は、彼の求婚を受けた。
 返事をもらってすぐに、彼はミースで一番の職人へ頼んで、銀の指輪を作らせた。それが、カーラーが今彼の手元へ運んできてくれたものだった。
 指輪の箱の蓋を閉じると、彼は友人に向かって笑いかけた。「少し、外してもいいかな?」
「もちろんですとも」
 若い大臣は微笑み、彼は彼女に会釈すると、箱を手にしたまま、大股で部屋の外へ出た。向かう先は、まずは図書室だ。
 彼は廊下を歩きながら、今まで感じたことのない希望と、今日という日に巡り合わせた奇跡を感じていた。この先何があっても、今日のこの感情を忘れないでおこうと彼は誓った。



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み