47. 復讐

文字数 2,406文字




 オルグォは王宮の廊下を走っていた。
 彼の足に追いつけるエール兵は少なく、それでも追いついてきた者や眼前に飛び出してきた敵がいれば、彼は獲物の長さと岩を砕く膂力を最大限に発揮し、瞬時に敵を斬り捨てた。しかも襲撃者の侵入を悟った兵たちは、愚かにも彼にデロイ王の位置を知らせてくれる。王をお守りしろ、王の部屋へ兵を送れという怒号の飛び交う方向と人の流れを見れば、どこに標的がいるかを彼が悟るのは容易だった。
 王の間が近いと感じつつ、恐らく最後になるだろう階段を上がろうとして、彼は階段の上に兵が溢れているのを見た。兵たちは襲撃者の姿を見かけると、あれが曲者だと声を上げ、列をなして細い階段を駆け降りてきた。あれら全ての相手をするのは厄介だと悟った彼は、背負っている鞘に長剣を納めると、踵を返し、廊下に向かって進んだ。そして通路の壁に連なる窓めがけて跳ねると、窓の外へ足から飛び出した。
 岸壁を削り出して築かれたエール王宮は城下町の遥か頭上にある上に、彼は随分上階へ上っていた。オークの末裔は窓を最後に抜けた大きな四本の指で窓枠を掴むとそこからぶら下がり、一度だけ眼下に広がる城下町の風景に視線を落としたが、そのまま彫刻を施された石の壁をよじ登り始めた。
 王の間であろうと思われる最上階までは、あと一階分程度の距離しかない。彼は彼の足元で侵入者を見上げて喚いている人間たちの声を聞いたが、それを無視したまま蜥蜴のように石壁を登っていく。滑った手の指先の爪が割れて黒い血が流れたが、彼はそれにも構わず目的を目指して登り続けた。
 最上階には小さなバルコニーがあり、彼はとうとうその手摺りに取りついた。部屋の中には天蓋付きのベッドと獣の皮を敷き詰めた床があり、部屋の中央に、剣を携えた男が落ち着きなく立っていた。毛皮の外套を着て銀の髪飾りを付けている大柄な老人はデロイ王であった。
 オルグォはデロイ王を見たことがなかったが、獲物を見た瞬間に、彼の中の血が彼に告げた。あれが標的だ。
 全身の血が沸き立ち、彼は体中に彼のものだけでない力が宿るのを感じた。
 彼がバルコニーの手摺りを乗り越え、振り返った王と目を合わせた瞬間に、奥の扉が開いて兵が雪崩れ込んできた。オルグォは地面を蹴る。人間どもなどに彼の獲物をやるわけにはいかない。溢れて零れる憎悪と頭蓋を抜ける快感を繋ぐものが何か、彼は知らない。しかしそれらは彼に未知の力を与え、一跳びにデロイ王に飛びついた魔物は、地面に突き倒した老人の額に、満身の力を込めて頭突きを食らわせた。
 重く砕ける音とともに、人間の王の体は動かなくなった。人間の王は、彼の暗殺者が何者であるかを認める暇さえなかっただろう。兵のうち隊長格と思われる男が王の名前を絶叫した。オルグォはばねのように立ち上がり剣を抜く。悲願のひとつを達成した満足感で脳髄が震えている。歓喜のあまり全てどうでもよくなってしまいそうだったが、彼は自分の意識を縛めた。彼にはまだ屠らなければならない標的がある。
 剣を抜いて襲い掛かってきた戦士を、革の鎧ごと真っ二つに切り捨てる。次の兵の胴体を薙ぎ、別の兵をその武器と一緒にへし折った。兵たちの士気がみるみるうちに萎んでゆく。既に彼らの王は、彼らの目の前で亡骸になっている。
 オルグォは戦意を喪失した敵を蹴散らしながら、王の間から飛び出した。その頃には積極的に彼に向かってくる兵はもうおらず、城の中にはただ走り回る人々と混乱だけがあった。地上階に辿り着く頃には、彼は走る必要すらなくなっていた。悲鳴や怒号の飛び交う混沌の中を、彼はゆったりと歩きながら、来た道を戻る。裏口に向かう主回廊に到達した時、そこここに転がって呻くエール兵や、既に屍となっている者を見かけた。赤いしみであちこち汚れている回廊を歩きながら、彼は広間の隅でいくつも折り重なっている死体の前へ辿り着いた。彼の横を、荷物を抱えた兵士の一人が駆け抜けてゆく。それにも構わず、彼は屍の山の一番上に積み上がっている、巨大な人狼のそれを見つめた。
 金灰色の毛皮はどこも切り傷と赤黒い血に覆われており、尖った鼻の両脇についている瞳は力なく閉じられていた。彼が長剣と交換した大斧が、長い爪を備えた拳のそばに横たわっている。
 オークは背負っていた剣を鞘ごと体から外すと、無造作に血だまりの中へ落とした。代わりに同じく血塗れの斧を手にする。彼は満足すると、もとのように出口に向かって、ゆっくりと歩き始めた。
 しかし彼が背を向けてすぐに、屍の上に転がっていた人狼の体が起き上がった。彼は振り返る。人狼は血を吐きながら、小刀のような歯がいくつも並んだ巨大な顎を開いて彼に飛び掛かってきた。オルグォは噛みつかれた肩口に激しい痛みを感じながら、石の床の上に叩きつけられる。斧が拳の中から滑り落ちた。彼は悲鳴をあげた。
 狼は彼の肩と首筋をひとまとめに食いちぎるつもりだ。しかし幸か不幸か、彼が咄嗟にばたつかせた手の指先が、床の上に放られていた誰のものともわからぬ剣の柄に触れた。彼は剣を掴むとありったけの力を込めて、自分の上に覆いかぶさっている獣の脇腹に刃物を突き立てた。刃は獣の胴を斜めに貫通し、彼の衣装を裂いて彼の腹の皮膚まで到達した。彼は小さく灼けるような痛みを感じたが、肩が燃えているのに比べれば何でもなかった。
 まだ狼が肩を離さないので、彼は唸りながら剣を抜き、もう一度獣の胴に突き立てた。三度繰り返し、彼の呼吸が酷く乱れてきた頃に、やっと狼の全身から力が抜けた。
 彼は痛みに呻き、墓石のように重くなった獣の体を横に転がした。よろめきながら立ち上がる彼の横を、怯えた様子のエール兵が駆け抜けていく。オルグォはもう一度斧を拾うと、今度こそ狼の死骸には一顧もくれず、目的を探して歩き始めた。



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