40. 奴隷

文字数 4,351文字




 オークは冬を生き延びる。彼らの血は吹雪の中でも凍ることなく、彼らは水の一滴も飲まずとも一つの季節を越えることができる。
 特に厳しい冬が訪れた時には、彼らは眠ることができる。雪に閉ざされた山の奥で、凍った岩の一部として時間を越えることができる。何年も何十年も、古い記憶と古代の血をその身に宿して、彼らは時間を越えることができる。
 オルグォが生まれたのは年中通して雪に覆われた、パルティア山脈の奥地にある小さなオークの集落の中だった。集落といってもそこにはオークの老婆が一人、老いたつがいの男女がひと組、壮年の女が三人寄り集まって暮らしているだけのもので、しかも彼らは財産はおろか生活に使う道具などもほとんど持たず、雪に閉ざされた洞窟の中に住んでいた。オルグォは彼らが授かることができた唯一の新しい赤子で、六人の大人達は彼をとても大切に育てた。
 オークの女性は男性の五分の一の確率でしか生まれないが、男性の五倍の寿命を持つ。オルグォを生んだのは集落にいた女の一人で、彼の父親は彼らに攫われてきた人間だったというが、彼が生まれた時にその人間は既に死んでおり、どこにも姿を見かけなった。
 大人たちはオルグォに繰り返し、決して山の中腹より下、雪の少ない場所へ下りて行ってはいけないと教えた。そして長老の老婆は繰り返し、彼に恐ろしい人間たちの物語を語り聞かせた。フィルノルドの王に欺かれて命を落とした彼らの王と滅びた同族たち。畜生のように逐われて逃げ込んだ山の奥深くで、細々と生を繋いでいる絶滅寸前の種の末裔が、彼らだった。
 人間が父親であるオルグォはいくらか成長しても、六人の仲間たちよりはるかに小柄だった。彼は仲間たちによく似た青白い肌と白く尖った列歯、四本の手指と分厚い胴を持っていたが、それでもやはり仲間たちよりは寒さに弱く、毎週のように水を飲まなければならず、唯一完全に同じであるのは人間の血のように赤い瞳の色だけだった。しかし仲間たちは彼を慈しみ、寒さに弱い彼のために獣の皮で上着を作り、水分を欲する彼のために火を焚いて雪を溶かしてくれた。老婆は彼に狩りと石斧の扱いを教えながら、いつか彼が成長して仲間を増やしたら、人間の王国を滅ぼすのだと言った。彼らを欺いた張本人であるフィルノルドの王はもちろん、その王に手を貸したエールとフランツの王も殺さなければならないと、老婆は言った。もしかの王たちが老いて死んでしまっていたら、その息子たちを殺さなければならないとも老婆は言った。人間の一生は短く、連中の命は儚い。お前ならいつか奴らを殺すことができるはずだと、仲間たちは言った。
 オルグォが生まれてから星の巡りの五回目を数えた時に、彼らの集落へ人間たちがやってきた。松明を掲げ鉄で作った道具を引きずり、犬や驢馬を連れた人間の武装した集団は、百近い頭数を抱えていた。
 仲間たちは、今度こそ滅びる時がやってきたと覚悟した。そして六人の大人たちはオルグォを山の奥へ連れて行くと、雪と土を深く掘って、彼をその中へ埋めてしまった。半分大人になっていた彼は、仲間たちが彼を冬眠させようとしているのだということを理解した。人間が仲間たちを殺しつくしてしまっても、これで彼だけは気付かれずに生き延びることができる。オルグォは寒さに凍えながら、死と眠りの違いについて考えた。両者の違いは次に目覚めがあるかどうかだろうと彼が思い至った時、彼の意識は闇の底へ沈んだ。
 オルグォの冬眠は成功した。しかし彼は、自分がどのくらい眠っていたのか、全くわからなかった。
 ある時、彼の両目は自然に開いた。彼を覆っていた雪は溶け、土も崩れ落ちかけていた。軋む体を起こした彼は穴から這い出ると、すぐ足元の岩が、うっすらとした緑色の苔に覆われているのを見た。生きた植物の明るい緑色は、彼が生まれて初めて目にする色だった。
 好奇心を刺激され、彼は緑色を辿りながら山の中をうろついた。恐らく返事のないものと分かりながら、仲間の名前を呼び、見たこともない森の中を徘徊した。孤独を感じていた彼は少しずつ濃くなってゆく緑に惹かれ、植物を追って山を下って行った。世界は彼が眠っている間に、別のものに変わってしまったように思えた。もしかしたらオークだけでなく、恐ろしい人間も滅びてしまったのかもしれない。彼は見たこともない人間たちの姿を想像しかけてやめ、代わりに木々の中に見かけた兎を追いかけて捕え、本能の命じるままに、その血と肉を食らった。彼は酷く腹を空かせていた。
 そこへ矢が飛んできた。矢は、警戒もせず草の上に座り込んで食事をしていた彼の肩に、易々と突き立った。悲鳴を上げて立ち上がった彼の背と脚に、続けて何本も矢が射かけられた。それは人間が放った矢だった。人間たちは痛みに驚いて気絶した彼を捕らえると、荷馬車へ乗せて、彼が見たことのない大地へ連れて行ってしまった。
 彼はフランツの北端にあるサアルの金鉱で、十年近くの月日を費やした。サアルでは人間の罪人以外にも、ドワーフやその他何かの混血と思われる連中が奴隷として使役されており、肉体の弱い者は次々と死んで、亡骸は北の海へ投げ棄てられた。オルグォはそこにいた誰よりも力が強かったが、そのために誰よりも厚い枷と重い鎖をかけられていた。
 ある時ドワーフの一人が、南方にはフランツの都があり、ミースと呼ばれているそこへ行けば、自分たちのような異種族でも奴隷ではなく市民として暮らすことができるらしい、という噂を運んできた。鉱山で使われている異種族の多くは、鉱山を抜け出したところで別の場所で奴隷として使われるか野山に隠れるしかないと絶望していた者が多かったが、その噂が入って来てから、鉱山からは脱走を試みる労働者が続出した。
 強靭な心身を持つオルグォは肉体労働そのものを厭ったことはなかったが、彼は彼の仲間を殺して彼を侮蔑する人間を憎んでおり、人間のために働いているというその一事だけが、彼の気に食わなかった。しかし彼は鎖を破る方法を知らず、鎖を破らない限り彼は逃げ出せなかった。しかしある時同じ作業場で働いていた労働者たちが脱走計画を立て、彼らはその中にオルグォを組み込んだ。
 特に器用なドワーフが時間をかけて、密かに檻の錠とオルグォの枷を解く鍵を作った。縛めを解かれた彼は労働者たちと檻を飛び出し、彼らに襲い掛かってきた人間たちをことごとく殺した。彼は拳で人間の頭蓋を砕くことができたが、連中から奪った剣を使えば作業はもっと早かった。こうして彼はサアルを脱出すると、しばらくの間は当てもなく諸国やその間の山々を放浪した。
 人間の社会へ入って初めに彼が学んだことは、姿を隠すことだった。彼の顔色は標準的な人間のそれよりは随分青白く、瞳の色はオークのそれである。指の数が足りないことには、人々は遠目に見て眉を顰めることはあっても、面と向かってけちをつけてくるわけではなかった。
 彼はいつも外套をかぶり、フードを目深に下ろして生活していた。彼は野山へ入った時は動物や魔物を殺してその血と肉を食い、人間の領域へ入った時は人間を殺してその持ち物を奪った。彼は人間を食ったことはなかった。何故なら人間の血肉は、その穢れた魂によって穢されているからだ。穢れたものを取り込めば、それは彼の生命を弱くすると、彼はその昔老婆に教わったことを覚えていた。
 しかし手あたり次第に人間を襲って持ち物を奪っていると盗賊として懸賞金をかけられることに気付き、追手を面倒臭く感じ始めた彼は、やがて職業を賞金稼ぎへと変えた。やっていることは盗賊と実質大差ないと彼は考えているが、賞金稼ぎはなぜか合法で、おまけに人間を殺してギルドや政府から褒賞を受け取ることができる。
 色々な都市を旅して巡るうち、フィルノルドでもエールでもフランツでも、老婆から教わった王たちが一人も生き残っていないことを彼は知った。今それらの国々を治めているのはそれよりも何代も後の子孫たちのようだった。しかし変わらずそれらの王国は存続しており、彼の仲間たちは永遠に失われたままである。彼は地上に残る、最後のオークになってしまった。
 老婆の言いつけを実行に移す機会と手段がないだろうかと考えながら、彼は日々を送るようになった。連中が目の前にいれば殺すことは造作もないだろうが、王という奴らはいつも王宮や人の群れの奥に隠れていて、彼が手を出すことはできない。
 それだからその話が彼の元へ舞い込んできたのは、全くの偶然だった。彼は賞金稼ぎとしていくつも難しい賞金首を落としており、さらに成功率の高さと口の堅さから、闇市場に出入りする商人や役人から、いわゆる暗殺や強盗の仕事を請け負うようになっていた。その時もキースのギルドの末端を通して、割のいい話があると常連の斡旋業者から連絡があった。そうして彼が引き合わされたのは王宮の役人のお使いで、何と仕事は、王宮の外を無防備にうろついているというフランツの国王を殺すことだった。
 もちろん彼はその依頼を受けた。彼はそのお使いから王の身なりや外見、連れていると思われる供の人間の特徴などを説明され、前金として褒賞金の半分を受け取った。しかし彼は同時に、男から嘘の臭いを嗅ぎ取った。標的に関する情報は真実だろうが、どうやら男はオルグォに褒賞金の残り半分を支払う気がない。これは後ろ暗い仕事を依頼してくる客に度々あったことだが、彼が仕事を終えた後に、口封じのために彼のことを始末する気でいるのだ。
 オークはもともと優れた感覚を持つが、そういう種類の嘘を嗅ぎ取るのは、彼が短い人生の中で身に付けてきた特殊な才能だった。オルグォは男と酒場で別れた後、相手を尾行し、お使いが人気のない裏路地へ入ったところでその嘘つきを絞め殺した。彼は褒賞金の残り半分になど興味はなく、あとはただフランツの国王を殺すことさえできればそれでいい。
 そして彼は、目的を遂行した。フランツの王は彼の予想外に強力な護衛に守られてはいたが、彼は自らの血を相手に浴びせることで、目的を達成した。自分の血に呪いの力があることも、彼はもちろん老婆から聞いて知っていたし、過去にそれを使って別の人間を殺した経験もあった。
 復讐のひとつを果たした彼は今までの生涯で感じたことのなかった充足感を味わい、同じようにエールの国王を殺す幸運にも恵まれないだろうかと夢想した。
 もしその機会に恵まれることがあるとすれば、やはりエール国内でのことだろう。そう考えた彼は、以前も何度か訪れたことのあるアストルガスへ足を向けた。



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