45. 懸念

文字数 2,762文字




 ネイは床の上に置いた桶の水からさっと裸足の足を抜くと、その桶をひっくり返した。
 こぼれた水が音を立てて床の上に広がったのと部屋の扉が開いてエール兵が入ってきたのとは、ほとんど同時だった。アスカは息を呑んだが、いつの間にか魔法使いの姿は老人に変わっている。入ってきた兵士が床の上の水と桶を見て、怪訝そうな顔をした。兵士に問われる前に、老人が先に答えた。
「桶を落としてしまいました。申し訳ないのですが、新しい水を頂けないでしょうか。あと、何か床を拭くものも……陛下のご気分も、まだ優れないようで」
 そう言って老人が目で示した先で、エレンは目を閉じてベッドに横たわっている。実際には彼は目覚めているのだが、体調がすぐれないというのも事実ではあった。アスカは彼が目覚める前に使っていた布で、彼の額を拭うようなふりをした。
 兵士は少し面倒くさそうな顔をしたが疑うような素振りは見せず、老人が拾い上げた桶を受け取ると、部屋を出て行った。アスカはほうと安堵の溜息を漏らす。
 そしていつの間にか、魔法使いの姿は、濡れた裸足の足をした少女のものに戻っていた。老人の時は靴を履いているように見えたので、幻術というのは便利なものだ。
 先ほどまでネイは、城の外にいるディガロと通信をしていた。正確にはレヴィの体を乗っ取り、その口を使ってディガロと会話していた。裸足の足を水という媒介に浸すというのは、未熟な魔法使いが別の次元を経由して他人の精神に語り掛ける際に必要な行為らしい。
「少ししか話せなかった」
 魔法使いは渋い顔をしながら言い、部屋に置かれていた手拭いで足を拭き始めた。
 目を開いたエレンが、静かな声で問う。
「彼らは無事だったのか」
 ネイは頷いた。「あたしたちを追っかけて、アストルガスまで来てたみたい。うちらは殺されてないし、ヴェルノールへ移送される予定だって言ったんだけど、ディガロはすごく心配そうだったよ。少なくともアスカは先にミースへ戻るんじゃないのかって」
 そう言って魔法使いが彼女の方を見たが、アスカは何と返答したものか戸惑った。確かに、当初の計画ではそのはずだった。しかし疲弊したエレンの様子を見て、アスカは彼と共に残ることを申し出たのだった。
 彼女は、自分が何かの役に立つだろうとは思っていない。しかし、エレンを一人にできないと彼女はただ感じた。王にとって敵国での滞在ほど、孤独なものはないはずだ。彼を気遣う人間が一人でも彼の側にいることで、王の疲れと孤独を和らげる手伝いをできればと、願ったのだった。
 アスカの代わりに、エレンが話し始めた。
「計画の変更を彼らに伝えることができれば、彼らを多少は安心させてやれるんだが…ディガロもレヴィも、君のことを心配しているんだろう」
 エレンの瞳がアスカの方を向く。「それとも、彼らがアストルガスの城下にいるのなら、君には城を出て彼らの供で先にミースへ戻ってもらうのがいいかもしれないな」
 この発言はある意味、先ほどまでエレンとネイの間で起きていた討論を蒸し返す行為だった。
 アスカをミースへ送るための手続きをデロイ王へ依頼しなければならないと言ったエレンに対し、ネイが、どこの馬の骨ともわからないエール兵にアスカを預けてミースまで送らせるのは、デロイ王とブロントの密通が明らかになった今では賭けのようなものだと主張した。エレンは彼女の懸念にも筋が通っていることは認めつつ、状況から考えるにデロイ王にとってエレンと協力することはブロントと結ぶより今後のエールの展開にとって有利なはずなのでデロイ王が約束を反故にする可能性は限りなく低いと彼は見ており、何より先読みのできない幽閉生活にアスカを巻き込むことの方が危険だ、と言った。
 二人は同じような問答を数回繰り返し、ついにネイが「ついでに言うならあたしは陰気な兄ちゃんと数カ月だか半年間二人きりで狭いところに閉じ込められるのが嫌なんだよ」と言って、会話を凍りつかせた。
 まず少女の主張は問題の重さや差し迫った状況に対してあまりにも見当違いにも思えたし、エレンは何も言わなかったが、そんなことを今まで彼に向かって言った者は誰もいなかったに違いない。明らかに困惑を瞳に表して、国王は黙り込んだ。部屋には沈黙が落ち、少女は静かな面持ちの青年を睨んだ。戸惑いが限界に達したアスカは沈黙を割るように、ここでやっと初めて彼女の意志を述べたのだった。
 早口で応酬する二人の間に割って入るのは彼女の性質ではないので会話が落ち着くまで待っていたのだが、この時ばかりはこじれる前にもっと早く口を挟んでいればよかったとアスカは少し後悔していた。
「エレン様、これは私個人の意志ですが、私も最後まで、お供したいと思います。陛下の体調がすぐれない時に、誰か信用できる人間でお世話をできる者が、一人は必要だと思うんです」
 王は難しそうな顔をしたものの、アスカ本人にもう一度念押しされると、もう何も言わず、ただ「すまない」とだけ口にした。
 少女はいくらか機嫌良くなり、アスカが一緒にいてくれるなら三年くらいは王様の病気の面倒を見てやってもいいと言った。若い娘をそんな長期間縛り付けておく気はないと、彼自身若いはずの王が呟いたところで、やっと部屋の中の空気が少し、元に戻ったように思われた。
 その時ふと、アスカは常に彼女の頭のどこかにある感覚の隅に、彼女の知っている少し風変わりな気配を感じた。すぐにその気配があの人狼のものだと悟ったアスカがそれをネイに伝えたところ、先ほどの水桶を使った交信術を実践することになったのだった。
 エレンが口論を再開したと思ったのか、気難しい少女はじろりとベッドの上の王を睨んだ。慌ててアスカは付け足す。
「それに、出発は明日の朝ですよね。この後またさっきみたいに通信できる機会があればいいですけれど、恐らく私たちはまた別の部屋へ移されてしまいますし、難しそうですよね。ディガロとレヴィに、手紙を書いたりすることはできないんでしょうか」
 なるほど、と王は静かに頷いた。「しかし彼らの滞在している宿など、わからないだろう。無理ではないかもしれないが、少し時間がかかるかもしれないな」
 ネイが横から口を挟む。「紙とインクがあれば、鳥か何かに運んでもらうこともできるけど。さっき、レヴィが連れてたワタリガラスを呼び寄せたから、すぐに用意できれば明日の朝には届くと思うよ」
「そうしよう」
 すぐにエレンが応えた。
「彼らはもしかしたらもっと悪い想像をしているかもしれない。わざわざここまで僕らを追ってきてくれたことを考えると、彼らが何か早まった行動をとらないか、少し心配だ」



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