42. 老王

文字数 3,395文字




 エールの現国王、デロイは強い我欲の持ち主である。彼は元々王座にあった自らの従弟と兄を引きずり下ろして、四十台半ばで王位についた。
 政権が安定してきた十年ほど前のこと、彼は自分の在位期間中に、エールにとって記念となるような偉業を成し遂げたいと考えた。それが、国境にある豊かな湊町ローエンを隣国フランツから奪い取るというものである。
 温厚かつ柔和な人格で知られていたイアン王は、あまり戦の得意な指導者ではなかった。デロイ王はローエンの奪取に二年もかからないだろうと見込んでいたが、フランツは想像以上の抵抗を見せ、戦の長引くうちに十年以上の月日が経過した。その間に王イアンは逝去し、デロイ自身も病を患うことになった。
 病の篤くなった彼は、療養のために戦線を退くと同時に、戦局打開のために戦上手の甥に戦場の指揮権を預けた。しかし彼の甥クインは、上手いのは兵の扱いばかりで、欲の強い部分は彼自身と同じだが、そこから知恵を抜き取ったような人格の持ち主だった。全権を預かった公子は何を勘違いしたが、王の指示を無視して勝手に戦線を広げ、ローエンだけでなく川沿いに点在するフランツの町々を荒らして回った。デロイは何度か使者を送って公子の暴恣を収めようとしたが、戦場で王気取りとなっている若者は彼の指示に従わないばかりか、事後処理を怠ったために一度陥落させたローエンを敵に奪回されるという失態を犯した。
 公子は仕事をやりそこねた上に、王としての彼の威信に泥を塗ったのである。どのように事態を収拾すべきかと彼が考えていたところで、イアン王が倒れた。フランツ側が混乱している間に彼は戦線、つまりクインが統率している軍隊への補給を絶った。軍は本国から絶えず支給される食糧と武器がなければ戦闘の継続はもちろん、存続していることすらできない。彼はこうして、愚かな公子に自らの立ち位置と役割を理解させなければならなかった。
 その後さらに、彼にとって予想外の出来事が起きた。病床に伏せているイアン王の頭越しに、フランツの宰相から、停戦を申し入れる秘密の使者が届いたのである。調停案は、東西で分けたローエンの半分を割譲し、年若いフランツの時期後継者を人質としてエールへ預け、さらに現在デロイの悩みの種となっている公子をフランツ側で暗殺しようというものだった。猛者は戦が終われば不要となるということを知っている小賢しいフランツの宰相は、どうやらエール内に情報源を持っており、エールの王宮で起きている家内事情についても把握しているようだった。
 正直なところ、反逆と呼べるクインの行為には、彼自身、将来への不安を抱かされていた。あの傲慢な後継者は機会さえあれば、病床の伯父を迷いなく剣で突くだろう、彼はそういう疑念に捕らわれた。デロイ王には五人の娘がいたが、嗣子とできる唯一の男子はまだ六歳になったばかりで、クインがいればこの息子には恐らく永遠に王座に座る機会は巡ってこない。彼はフランツの宰相の提案を受けることにした。ただし作戦の実行は、イアン王が実際に死んでその葬儀が済んでからということになった。そうなれば狡猾なフランツの大臣は、王のいない王国で意のままに権勢をふるうことができるということだろう。
 しかし宰相ブロントとの密約が成立した直後、クインの統率する軍営から副官のゴアが使者として派遣されてきた。苦労人の副官はやっと司令官クインを説き伏せることに成功したのだろう、彼は補給を絶たれた軍隊の惨状とこのまま戦線が王の指揮から乖離し続けることの危険性を訴え、さらに公子には王の命令に帰順する用意があることを伝えて、彼から戦場への援助を引き出した。そして、これを契機にクインの暴走は収まったのだった。
 ここへ来て、デロイの決断に迷いが差し込んだ。宰相ブロントとの密約を守ってローエンの半分とフランツの若い王を得てクインを殺すか、再び彼の手駒として収まったクインを使い油断しているフランツからローエンを完全にもぎ取ってしまうか。迷いを決断に移さないうちに、イアン王が死んだ。考えた挙句、彼はやはり元の目的を達成することにした。ブロントとの密約を反故にしてローエンを奪い取るのである。フランツの老大臣に借りを作るのは彼の性分には合わなかった。
 ところがイアン王の葬儀から間もなく、フランツから至急の使者が届き、新王のエレンが王都を抜け出した挙句、途上で事故に巻き込まれて命を落としたという報せを持ってきた。デロイはなるほどと納得する、恐らくエレン王は王宮内で自身の立場が危うくなっていることに気がついており、宰相に利用される前に自ら逃げ出したのだ。またブロントの使いは事故といったが、実際には大臣の刺客が王を殺したのではないかと、デロイにはおおよそ想像がついた。老大臣が初めから嘘をついていたのかそれが予定外の出来事であったのかはさておき、とにかくフランツ側は条件として用意していた王の身柄をエール側へ預けることができなくなってしまったが、必要があればエレンの従弟にあたる別の者を用意するという。
 デロイ王は、あるいはフランツの宰相が、彼が密約を破棄してローエンを奪い取るつもりであることに勘付いているのであろうかと不安に思った。しかもさらに驚くべきことに、その直後彼の元には、その死んだはずのフランツの若き国王が、使者としてエルレの宿営地に現れたのである。
 ブロントに欺かれたのかと彼が怒りを感じたのも束の間、その翌日に、ブロントからの使者が彼の元を訪れた。このブロントの使者は先の使者の上司にあたる男で、さらに言えばアイリーンと遭遇した後のギャレイだが、ブロントの代理人として交渉のために現れたギャレイはほとんど開口一番に、新王の殺害はエール側の差し金であったのかと彼を問い詰めた。もしこれを尋ねるならばそうすべきだったのは先の使者であろうから、ここでデロイは先の使者がエレンの事故死を偽って報告していた可能性をますます疑うと同時に、相手の腹の内を覗ってやろうと手持ちのカード、つまりエレンの生存を明かした。
 彼からエレンの生存を聞かされたギャレイは、交渉相手にそれを悟られてしまうほど驚き狼狽した。つまりブロント側はエレンの殺害にも状況の把握にも失敗しており、エレンが現れたことは連中の策略でも何でもなく、ただの不手際である。彼はギャレイに対して散々この粗漏を責め立て、計画の実行を怪しんで見せた。結果としてギャレイはローエンの全てを寄越せという彼の要求は呑まなかったが、デロイ王は当初の予定通りエレン王の身柄を預かることを、フランツの使者に同意させた。
 ここで彼の頭に、新しい策が浮かんだ。彼は、後払いとなるはずだったフランツ王を既に手中に収めている。彼の計画はこうだ、ブロントが国内で動きを起こすより先に、フランツの政府に対して密使でなく正使を送って、国王を捕虜として捕らえていることを知らせる。そうすればフランツは公式に交渉に臨まざるを得ず、彼はその交渉でローエンを丸ごとフランツからもぎ取る。あるいはエレン王に、大臣の裏切りを伝えて王に貸しを作った上でローエンを譲らせることができれば話は早い。交渉がどちらも決裂した場合は再度戦闘となるが、彼はエレン王を捕虜として所有しており、人質を取られているフランツ軍の士気低下は必至であるし、フランツ軍の実質将帥となっている騎士アンゾは王家の忠臣で厭戦派である。ここへ来てフランツの王宮内は完全に決裂するかもしれず、隣国が内戦にもつれ込めばいずれにしろエールにとっては好機である。
 もちろん彼が思いついた程度のことが悪賢いギャレイの頭に思いつかないとは限らず、連中は彼がエレンを都合よく利用する前に、先に暗殺しようとするかもしれない。捕虜の移送を行う場合には用心が必要になるだろう。
 先ほど彼のもとへ、件のフランツ王が届けられたという報せが入った。彼は部下に、客人を丁重にもてなして寝床と着替えを提供するように伝えた。彼はこれからあの若い王と、しばらくの時間を共にすることになるかもしれない。付き合いが長くなるのであれば、関係は可能な限り友好的であって害になることはないだろう。デロイ王は眼前に広がる前途を想像し、一人微笑んだ。



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